コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「曹嶷」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
36行目: 36行目:
[[317年]]6月、[[東晋]]政権に帰順しようと考えた曹嶷は、晋王[[司馬睿]]に書を奉り、[[皇帝 (中国)|皇帝]]即位を勧めた。
[[317年]]6月、[[東晋]]政権に帰順しようと考えた曹嶷は、晋王[[司馬睿]]に書を奉り、[[皇帝 (中国)|皇帝]]即位を勧めた。


この時期、東晋将校の[[邵続]]が[[エン州|兗州]]に割拠し、[[豫州]]一帯で軍事行動を起こしていた。曹嶷は邵続と幾度も争い、一進一退の攻防を繰り広げた。
この時期、東晋将校の[[邵続]]が[[兗州]]に割拠し、[[豫州]]一帯で軍事行動を起こしていた。曹嶷は邵続と幾度も争い、一進一退の攻防を繰り広げた。


[[318年]]、曹嶷は邵続の兄の子の[[邵存]]らを打ち破ると、邵続の屯田兵も破り、その民を奪い取った。態勢を立て直した邵続は邵存と[[段文鴦]]を派遣し、黄巾固に駐屯させた。彼らが迫ると、曹嶷は恐れて講和した。
[[318年]]、曹嶷は邵続の兄の子の[[邵存]]らを打ち破ると、邵続の屯田兵も破り、その民を奪い取った。態勢を立て直した邵続は邵存と[[段文鴦]]を派遣し、黄巾固に駐屯させた。彼らが迫ると、曹嶷は恐れて講和した。

2021年3月1日 (月) 05:08時点における版

曹 嶷(そう ぎょく、? - 323年)は、中国五胡十六国時代の人物。東萊郡の人。青州で一大勢力を築き上げ、前趙後趙東晋と様々な国家に服属しながら12年にわたって割拠した。

生涯

306年、妖賊の劉柏根が東萊郡惤県で挙兵すると、曹嶷はこれに身を投じた。

307年、劉柏根が王浚により敗死すると、長史の王弥は敗残兵を連れて漢(後の前趙)の劉淵に帰順した。この時、曹嶷は王弥の左長史に任じられた。

309年12月、王弥は曹嶷を安東将軍に推挙し、彼に青州を攻略するよう上奏すると、劉淵はこれを許可した。こうして曹嶷は5千の兵と宝物を携えて青州に向かい、流民の招集と共に王弥の一族を迎えいれるよう命じられた[1]。曹嶷は青州に赴くと、軍を率いて梁の地方へ侵攻した。ひたすら東へ進み、破竹の勢いで東平琅邪を下した。

310年冬、琅邪から北へ向かい、苟純の守る臨淄を包囲した。苟純は城を閉じて堅守すると、曹嶷は包囲を強めてその陣営は数十里にわたって連なった。征東大将軍の苟晞が救援に来ると、兵士たちは大いに恐れ、曹嶷は苟晞に連戦連敗した。

311年1月、曹嶷は残軍を纏めて再び苟晞と争うと、苟晞は精鋭で迎え撃ち、両軍は臨淄の郊外で激突した。ちょうどこの時、一陣の大風が巻き起こり、塵を巻き上げ、辺りの視界が急激に遮られた。曹嶷はこの機を逃さず敵軍に突撃し、これを撃破した。この一戦で曹嶷と苟晞の力関係は逆転した。苟晞は夜中に逃走を図ったが、曹嶷は追撃して沂蒙山に至ると、苟晞の兵士はみな曹嶷に降伏した。

曹嶷は、臨淄城は大きいが周囲が広々としており、険阻な地がなく、逆に広県の城は小さく軍を駐屯させるには適していないことから、すぐさま青州領内の要害の地に城郭を築き上げ、これを広固城と呼んだ。さらに、青州・斉郡・臨淄県の3つの政府機能を広固城に移し、広県も臨淄県に編入した。

後に青州刺史に任じられた。

この時期、王弥配下の徐邈高梁が兵士数千人を率いて王弥の下を去り、曹嶷に従った。

司隷校尉劉暾は王弥へ「曹嶷は苟晞を破り広県に拠り、勢力はますます精強となっております。将軍は曹嶷を呼び戻し、軍を合わせて石勒を討ち、その後に青州で王を名乗るのがよろしいと思います」と述べ、王弥はこれを容れた。王弥は曹嶷を斉郡から呼び寄せる為に劉暾を派遣したが、劉暾は石勒の游騎部隊に捕えられ、そのまま殺された。

10月、劉暾が殺されたのを知らなかった王弥は、石勒に宴会に招かれ、その席で暗殺された。

その後、曹嶷は一路西へ向かい、汶陽・公丘を落とし斉郡を占領すると、斉郡太守の徐浮を殺した。さらに、建威将軍の劉宣を生け捕り、祝阿・平陰も攻め下し、四十を超える砦を落とすと、自らは臨淄に鎮した。

曹嶷はこの時期から、前趙への貢物を絶やすようになり、徐々に距離を置くようになった。

312年から315年3月にかけて、曹嶷は絶えず辺境の開拓に従事した。遂には青州全域を征服するに至り、西は黄河にまで達した。兵数は10数万を数えるようになった。

また、この時期に景公管仲の墓を暴き、億万の価値を持つといわれる副葬品を手に入れたという。

316年、曹嶷はかつて斉国が栄えた土地で王となる野心を抱いた。 石勒は漢帝劉聡へ曹嶷討伐を求めたが、石勒の勢力は既に漢国の統治を脅かす程強大であった為、劉聡は警戒して許可しなかった。

7月、石勒は方針を変えて曹嶷へ修好の使者を派遣し、両者は同盟を結んだ。

317年6月、東晋政権に帰順しようと考えた曹嶷は、晋王司馬睿に書を奉り、皇帝即位を勧めた。

この時期、東晋将校の邵続兗州に割拠し、豫州一帯で軍事行動を起こしていた。曹嶷は邵続と幾度も争い、一進一退の攻防を繰り広げた。

318年、曹嶷は邵続の兄の子の邵存らを打ち破ると、邵続の屯田兵も破り、その民を奪い取った。態勢を立て直した邵続は邵存と段文鴦を派遣し、黄巾固に駐屯させた。彼らが迫ると、曹嶷は恐れて講和した。

曹嶷は斉水に沿って砦を建てると、前趙と決別を図った。東晋は彼を平東将軍・青州刺史に任じ、広饒侯に封じた。石勒は曹嶷との結びつきを保つため、征東大将軍・青州牧に任じ琅邪公に封じた。曹嶷は東晋を奉っていたが、建業は遠く離れていた為、石勒の襲撃を恐れて臣従を続けた。

319年、曹嶷は掖県で勢力を築いていた蘇峻県令とするよう東晋へ上表したが、蘇峻は病気を理由に受けなかった。曹嶷が蘇峻の勢力拡大を危険視して討伐の兵を挙げると、蘇峻は恐れて東晋へ奔った。

夏、曹嶷は石勒の下へ貢物を献上し、黄河を境に東を曹嶷の領土、西を石勒の領土とするよう求めた。

この時期、苟晞により東萊郡太守に任じられていた鞠彭と、幾度となく会戦を繰り広げた。曹嶷の勢力は鞠彭を上回っていたが、鞠彭はよく人心を得ていた為、なかなかこれを滅ぼせなかった。

12月、鞠彭は曹嶷と争うのは得策ではないと思い、彼に降伏しようとした。配下の者は曹嶷を信用しておらず、鞠彭に献策し、曹嶷との決戦の準備をした。鞠彭は一つとして進言を容れず、ただ数千人を連れ、堂々と海を北に渡り、曹嶷へ東萊の地を譲り渡した。

323年、石勒は曹嶷の勢力がこれ以上拡大するのを恐れ、彼を討伐することを決めた。石虎を大将として4万の騎兵を与えて青州へ向かわせると、曹嶷は海中の根余山(現在の崑嵛山)に逃れて兵力を保とうと考えたが、病の為実行できなかった。曹嶷は配下の羌胡軍を黄河の西に駐屯させたが、征東将軍石他に撃破された。石虎が兵を進めて広固を包囲すると、東萊郡太守の劉巴・長広郡太守の呂披が郡ごと降った。左軍将軍石挺が軍を広固に進めると、曹嶷はついに降伏した。石虎に襄国へ送られると、石勒は曹嶷を殺害し、配下の三万人を穴に埋めて殺した。石虎は男女七百人を広固に留めると、劉徴にこの地を支配させた。 これにより、青州の諸郡県や砦は、全て後趙の支配下となった。

子孫

孫に曹巌という人物がおり、356年に鞠彭の子である、前燕の東萊郡太守鞠殷と面会している。また、鞠彭自身からも車馬衣服を贈られている。

広固城について

曹嶷が築いた広固城は堯王山の南に位置し、西には繞陽河が流れている。四方を谷に囲まれ、堀は深く水が阻み、守るに易く攻めるに難い地であったことから、兵家必争の地となった。『大きな谷が甚だ広がっており、それによって固を為している』という事から広固城と称されるようになったという。広固城は臨淄城に代わって青州の治所となり、やがて山東における政治の中心となった。また、港湾の発展に伴い、経済においても重要な都市となった。

逸話

311年、曹嶷は乱を起こして各地を荒らしており、高平にまでその勢いは及んでいた。高平を守っていた張栄は、村の住民に命じて自警させ、あちこちに砦を築いて自ら守らせた。ある夜、山上で火事が発生すると、煙や炎が高く舞い上がった。さらに、馬の蹄音や武具の物音が騒がしく聞こえてきたので、住民たちは曹嶷が攻め寄せてきたかと思い身構えた。張栄は迎え撃とうとして軍を率いて山へ向かったが、山中に人影は全くなかった。ただ、無数の火の粉が飛来しており、鎧や馬のたてがみに燃え移るので、皆驚いて逃げ戻った。翌日になり再び山を捜索してみたが、どこにも火を焚いたような痕跡はなかった。そこには、100人ほどの朽ち果てた骸が散乱していたという。

脚注

  1. ^ 『晋書』王弥伝では、311年6月の洛陽を陥落させた後に、曹嶷を青州に派遣することとなっており、またその将軍号は鎮東将軍である。その為、『資治通鑑』とは齟齬がある。

参考文献

  • 晋書』巻5・帝紀第5、巻6・帝紀第6、巻61・列伝第31、巻63・列伝第33、巻100・列伝第70、巻102・載記第2、巻104・載記第4
  • 資治通鑑』巻086-092