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子に申景義があり、北魏に亡命して、[[太和 (北魏)|太和]]年間に散員士となり、宋王[[劉昶]]の下で宋国侍郎をつとめた。[[景明]]初年に行[[済陰郡]]太守・[[揚州 (古代)|揚州]]車騎府録事参軍・右司馬となった。 |
2021年3月1日 (月) 05:04時点における版
申 纂(しん さん、生年不詳 - 467年)は、南朝宋の軍人。本貫は魏郡魏県。
経歴
申鍾の曾孫にあたる。北魏の道武帝が中山を平定したとき、申纂の父祖は一族を連れて南に亡命し、済陰に家を構えていた。南朝宋の孝武帝のとき、申纂は平原郡太守となった。後に東平郡太守に転じた。466年(泰始2年)、明帝の即位に対抗する反乱が起こると、申纂は無塩に拠って、反乱軍や北魏軍と戦った。明帝により兗州刺史に任じられた。467年(泰始3年)、北魏の慕容白曜に無塩を攻撃され、城は陥落し、申纂は負傷して捕らえられた。慕容白曜には申纂を殺す気はなかったが、たまたま城中で火事が起こり、申纂は重傷のため逃げられず、焼死した。
子に申景義があり、北魏に亡命して、太和年間に散員士となり、宋王劉昶の下で宋国侍郎をつとめた。景明初年に行済陰郡太守・揚州車騎府録事参軍・右司馬となった。