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王宝興([[王慧龍]]の子)の子として生まれた。長社侯の爵位を嗣いだ。[[485年]]([[太和 (北魏)|太和]]9年)、典寺令となった。[[492年]](太和16年)、侯の爵位から伯に降格された。長女を[[孝文帝]]の後宮に入内させて嬪とし、前軍将軍・[[并州]]大中正に任じられた。[[正始 (北魏)|正始]]年間、[[莱州|光州]][[刺史]]として出向した。収賄の嫌疑をかけられて、御史中尉の[[王顕 (北魏)|王顕]]による弾劾を受けたが、冤罪を晴らすことができた。[[神亀 (北魏)|神亀]]年間、[[左将軍]]・[[兗州]]刺史に任じられた。兗州から[[洛陽]]に帰ると、数年のあいだくすぶっていた。住所は[[司空]]の[[劉騰]]の邸宅の西にあり、ときに劉騰が朝野で権勢を伸ばしていたが、王瓊は伺候しようとしなかった。劉騰が邸宅を拡張しようと、隣家を買い取ったが、ひとり王瓊だけが応じなかった。王瓊は娘を盧道亮にとつがせたが、娘は夫の家に入ることを承知しなかった。娘が死去すると、王瓊は慟哭してやまず、娘の生前の希望に沿って別所に葬らせ、塚穴を塞がず、墓の構内で泣くのを常とした。当時の人は王瓊の行動を怪しんで、[[屍姦|醜行]]を疑った。王瓊は耳が聞こえなくなり、奇行が多く知られて、他者の嘲笑を受けるようになった。[[527年]]([[孝昌]]3年)、鎮東将軍・金紫光禄大夫・[[中書令]]に任じられた。まもなく死去した。享年は74。征北将軍・中書監・并州刺史の位を追贈された。 |
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2021年3月1日 (月) 05:04時点における版
王 瓊(おう けい、454年 - 527年)は、北魏の官僚。字は世珍。本貫は太原郡晋陽県。
経歴
王宝興(王慧龍の子)の子として生まれた。長社侯の爵位を嗣いだ。485年(太和9年)、典寺令となった。492年(太和16年)、侯の爵位から伯に降格された。長女を孝文帝の後宮に入内させて嬪とし、前軍将軍・并州大中正に任じられた。正始年間、光州刺史として出向した。収賄の嫌疑をかけられて、御史中尉の王顕による弾劾を受けたが、冤罪を晴らすことができた。神亀年間、左将軍・兗州刺史に任じられた。兗州から洛陽に帰ると、数年のあいだくすぶっていた。住所は司空の劉騰の邸宅の西にあり、ときに劉騰が朝野で権勢を伸ばしていたが、王瓊は伺候しようとしなかった。劉騰が邸宅を拡張しようと、隣家を買い取ったが、ひとり王瓊だけが応じなかった。王瓊は娘を盧道亮にとつがせたが、娘は夫の家に入ることを承知しなかった。娘が死去すると、王瓊は慟哭してやまず、娘の生前の希望に沿って別所に葬らせ、塚穴を塞がず、墓の構内で泣くのを常とした。当時の人は王瓊の行動を怪しんで、醜行を疑った。王瓊は耳が聞こえなくなり、奇行が多く知られて、他者の嘲笑を受けるようになった。527年(孝昌3年)、鎮東将軍・金紫光禄大夫・中書令に任じられた。まもなく死去した。享年は74。征北将軍・中書監・并州刺史の位を追贈された。
子女
- 王遵業
- 王広業(太尉祭酒、太尉属、太中大夫)
- 王延業(中書郎)
- 王季和(書侍御史、并州大中正)
- 王氏(孝文帝の嬪)
- 王氏(盧道亮の妻)