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鄭平城([[鄭羲]]の兄の鄭小白の子)の長男として生まれた。博学で文才があり、早くから名を知られた。司州の秀才に挙げられ、射策科に及第して、[[幽州]]平北府外兵参軍に任じられた。[[太学博士]]に転じ、殿中御史を兼ねた。[[520年]]([[正光]]元年)、[[孝明帝]]が[[釈奠]]をおこなうと、伯猷は命をうけて成り行きを記録した。[[525年]]([[孝昌]]元年)、安豊王[[元延明]]が[[徐州]]の[[元法僧]]を討つと、伯猷は召されて行台郎中となった。[[洛陽]]に帰ると、尚書外兵郎中に転じ、起居注をつかさどった。軍功により陽武県子の爵位を受けた。しばらくして散騎常侍・平東将軍に転じた。[[531年]]([[普泰]]元年)、征東将軍・金紫光禄大夫の位を受け、国子祭酒を兼ねた。長らくを経て、[[車騎将軍]]・右光禄大夫となり、護軍将軍に転じた。[[538年]]([[元象]]元年)、本官のまま散騎常侍を兼ねて、[[梁 (南朝)|南朝梁]]に対する使者として立った。南朝梁の[[蕭衍|武帝]]はその諸侯王に馬射の日の宴会に招かせて答礼させ、領軍将軍の[[臧盾]]に応接させるなど、伯猷を礼遇した。伯猷は帰国すると、驃騎将軍・[[南青州]][[刺史]]に任じられた。州においては収奪をもっぱらにして、民衆を苦しめた。御史の弾劾を受け、死罪数十カ条を数えられたが、一命を赦されて蟄居した。[[高澄]]が宰相となると、朝士に冷たく当たったため、そのたびに伯猷と崔叔仁([[崔休]]の子)が高澄を諭した。[[549年]]([[武定 (東魏)|武定]]7年)、太常卿に任じられた。この年のうちに死去した。享年は64。驃騎大将軍・中書監・[[兗州]]刺史の位を追贈された。 |
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== 伝記資料 == |
== 伝記資料 == |
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鄭 伯猷(てい はくゆう、486年 - 549年)は、北魏から東魏にかけての官僚。本貫は滎陽郡開封県。
経歴
[編集]鄭平城(鄭羲の兄の鄭小白の子)の長男として生まれた。博学で文才があり、早くから名を知られた。司州の秀才に挙げられ、射策科に及第して、幽州平北府外兵参軍に任じられた。太学博士に転じ、殿中御史を兼ねた。520年(正光元年)、孝明帝が釈奠をおこなうと、伯猷は命をうけて成り行きを記録した。525年(孝昌元年)、安豊王元延明が徐州の元法僧を討つと、伯猷は召されて行台郎中となった。洛陽に帰ると、尚書外兵郎中に転じ、起居注をつかさどった。軍功により陽武県子の爵位を受けた。しばらくして散騎常侍・平東将軍に転じた。531年(普泰元年)、征東将軍・金紫光禄大夫の位を受け、国子祭酒を兼ねた。長らくを経て、車騎将軍・右光禄大夫となり、護軍将軍に転じた。538年(元象元年)、本官のまま散騎常侍を兼ねて、南朝梁に対する使者として立った。南朝梁の武帝はその諸侯王に馬射の日の宴会に招かせて答礼させ、領軍将軍の臧盾に応接させるなど、伯猷を礼遇した。伯猷は帰国すると、驃騎将軍・南青州刺史に任じられた。州においては収奪をもっぱらにして、民衆を苦しめた。御史の弾劾を受け、死罪数十カ条を数えられたが、一命を赦されて蟄居した。高澄が宰相となると、朝士に冷たく当たったため、そのたびに伯猷と崔叔仁(崔休の子)が高澄を諭した。549年(武定7年)、太常卿に任じられた。この年のうちに死去した。享年は64。驃騎大将軍・中書監・兗州刺史の位を追贈された。