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2021年3月1日 (月) 05:03時点における版
蕭遙欣(しょう ようきん、469年 - 499年)は、南朝斉の皇族。曲江公。字は重暉。
経歴
始安靖王蕭鳳(蕭道生の長男、のちの明帝蕭鸞の兄)の子として生まれた。蕭承之の兄の西平郡太守蕭奉之の後嗣がなかったため、遙欣がその曾孫格として後を嗣いだ。秘書郎・太子舎人・巴陵王文学・中書郎を歴任した。494年(延興元年)8月、持節・都督兗州縁淮諸軍事・寧朔将軍・兗州刺史となった。10月、都督豫州郢州之西陽司州之汝南二郡諸軍事・輔国将軍・豫州刺史に転じたが、赴任しなかった。同年(建武元年)、西中郎将となり、聞喜県公に封じられた。11月、使持節・都督荊雍益寧梁南北秦七州諸軍事・右将軍・荊州刺史に転じた。曲江公に改封された。明帝の子弟はまだ幼少であったため、始安王蕭遙光が揚州の事務を代行し、遙欣は西方の外藩にあって、権勢を両分した。遙欣は勇者を好み、武士を取り立てて集めた。497年(建武4年)、平西将軍の号に進んだ。498年(永泰元年)2月、雍州が北魏の侵攻を受けたため、遙欣は本官のまま雍州刺史・寧蛮校尉を兼ね、襄陽への移駐を命じられたが、魏軍が撤退したため行かなかった。499年(永元元年)、死去した。享年は31。侍中・司空の位を追贈された。諡は康公といった。王礼で葬られた。
子に蕭幾があった。