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晋熙王征虜中兵や安成王車騎中兵をつとめ、左軍将軍の号を受けた。[[477年]](元徽5年)、蕭道成が広陵に出立しようとしたが、栄祖は建康を離れると権力を手放すことになると反対した。[[後廃帝 (南朝宋)|劉昱]]が廃位されると、栄祖は寧朔将軍・[[淮南郡]]太守に任じられた。輔国将軍に進み、游撃将軍となり、蕭道成の下で驃騎諮議をつとめた。輔国将軍・西中郎司馬・[[汝陰郡]]太守に任じられた。冠軍将軍の号を受け、給事中・驍騎将軍の位を受けた。斉の建国を助けた功績により、将楽県子に封じられた。[[481年]]([[建元 (南朝斉)|建元]]3年)、徐州刺史となった。[[482年]](建元4年)、持節・青冀二州刺史として出向した。黄門郎に転じた。 |
晋熙王征虜中兵や安成王車騎中兵をつとめ、左軍将軍の号を受けた。[[477年]](元徽5年)、蕭道成が広陵に出立しようとしたが、栄祖は建康を離れると権力を手放すことになると反対した。[[後廃帝 (南朝宋)|劉昱]]が廃位されると、栄祖は寧朔将軍・[[淮南郡]]太守に任じられた。輔国将軍に進み、游撃将軍となり、蕭道成の下で驃騎諮議をつとめた。輔国将軍・西中郎司馬・[[汝陰郡]]太守に任じられた。冠軍将軍の号を受け、給事中・驍騎将軍の位を受けた。斉の建国を助けた功績により、将楽県子に封じられた。[[481年]]([[建元 (南朝斉)|建元]]3年)、徐州刺史となった。[[482年]](建元4年)、持節・青冀二州刺史として出向した。黄門郎に転じた。 |
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[[484年]]([[永明]]2年)、冠軍将軍・尋陽相・[[南新蔡郡]]太守に任じられた。武器の密輸の罪で弾劾され、免官されて東冶に流されたが、調査により無実と分かり、もとの官にもどされた。安陸王平西諮議となり、[[荊州区|江陵県]]令を兼ねた。平西司馬・[[河東郡 (中国)|河東郡]]内史に転じた。[[489年]](永明7年)、持節・都督縁淮諸軍事・冠軍将軍・[[兗州]]刺史に転じ、[[東平郡]]太守・兗州大中正を兼ねた。 |
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[[490年]](永明8年)、巴東王[[蕭子響]]が告発されたとき、州刺史たちは蕭子響の反乱を言い立てたが、栄祖はひとり蕭子響を擁護した。蕭子響の乱が平定された後、[[武帝 (南朝斉)|武帝]]は処断を後悔しており、栄祖の発言を評価した。[[491年]](永明9年)、栄祖は死去した。享年は57。 |
[[490年]](永明8年)、巴東王[[蕭子響]]が告発されたとき、州刺史たちは蕭子響の反乱を言い立てたが、栄祖はひとり蕭子響を擁護した。蕭子響の乱が平定された後、[[武帝 (南朝斉)|武帝]]は処断を後悔しており、栄祖の発言を評価した。[[491年]](永明9年)、栄祖は死去した。享年は57。 |
2021年3月1日 (月) 05:02時点における版
垣 栄祖(垣 榮祖、えん えいそ、435年 - 491年)は、南朝宋から斉にかけての人物。字は華先。彭城郡武原県の出身。本貫は略陽郡望垣県。
経歴
宋の北中郎府参軍の垣諒之(垣護之の弟)の子として生まれた。若くして騎馬と弓射を学び、書物を読まなかった。宋の孝建年間、徐州に召されて主簿となり、後軍参軍となった。466年(泰始2年)、晋安王劉子勛を支持する勢力が各地で挙兵して明帝に反抗すると、栄祖は明帝により冗従僕射に任じられ、徐州に派遣されて刺史の薛安都に対する説得にあたったが、功を奏せず拘束された。薛安都により仮の冠軍将軍の号を受けた。薛安都が北魏の軍を彭城に引き入れると、栄祖は家族を連れて南の朐山に逃れた。罰せられることをおそれて建康に帰還することができず、淮陰に駐屯していた蕭道成の庇護を受けた。明帝が死去すると、栄祖は蕭道成により僕射の褚淵のもとに送られ、寧朔将軍・東海郡太守に任じられた。
晋熙王征虜中兵や安成王車騎中兵をつとめ、左軍将軍の号を受けた。477年(元徽5年)、蕭道成が広陵に出立しようとしたが、栄祖は建康を離れると権力を手放すことになると反対した。劉昱が廃位されると、栄祖は寧朔将軍・淮南郡太守に任じられた。輔国将軍に進み、游撃将軍となり、蕭道成の下で驃騎諮議をつとめた。輔国将軍・西中郎司馬・汝陰郡太守に任じられた。冠軍将軍の号を受け、給事中・驍騎将軍の位を受けた。斉の建国を助けた功績により、将楽県子に封じられた。481年(建元3年)、徐州刺史となった。482年(建元4年)、持節・青冀二州刺史として出向した。黄門郎に転じた。
484年(永明2年)、冠軍将軍・尋陽相・南新蔡郡太守に任じられた。武器の密輸の罪で弾劾され、免官されて東冶に流されたが、調査により無実と分かり、もとの官にもどされた。安陸王平西諮議となり、江陵県令を兼ねた。平西司馬・河東郡内史に転じた。489年(永明7年)、持節・都督縁淮諸軍事・冠軍将軍・兗州刺史に転じ、東平郡太守・兗州大中正を兼ねた。
490年(永明8年)、巴東王蕭子響が告発されたとき、州刺史たちは蕭子響の反乱を言い立てたが、栄祖はひとり蕭子響を擁護した。蕭子響の乱が平定された後、武帝は処断を後悔しており、栄祖の発言を評価した。491年(永明9年)、栄祖は死去した。享年は57。