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宇文 顕和(うぶん けんわ、? - 554年)は、北魏末から西魏にかけての人物。本貫は代郡武川鎮。
経歴
[編集]北魏の鎮遠将軍・兗州刺史・安吉県侯の宇文金殿の子として生まれた。若くして安吉県侯の爵位を嗣ぎ、平陽王元脩の知遇をえた。元脩(孝武帝)が即位すると、冠軍将軍・閤内都督に抜擢され、城陽県公に封じられた。朱衣直閤・閤内大都督に転じ、長広県公に改封された。
534年(永熙3年)、孝武帝に従って関中に入った。宇文泰に召されて帳内大都督となった。まもなく持節・衛将軍・東夏州刺史として出向した。のちに病のため辞職した。位は車騎大将軍・儀同三司に進み、散騎常侍を加官された。554年(恭帝元年)、死去した。享年は57。573年(建徳2年)、使持節・驃騎大将軍・開府儀同三司・延丹綏三州諸軍事・延州刺史の位を追贈された。
人物・逸話
[編集]- 孝武帝は諸侯王時代に顕和と旧交があったため、即位後もたいへん厚遇した。顕和の居宅が手狭だったため、役所を引き払って、そこをかれのための寝室として賜った。
- 高歓が北魏の朝廷で専権をふるっていたため、孝武帝はつねに不安におびえていた。孝武帝が「天下が乱れているが、どうしたらよいだろうか」と訊ねると、顕和は「現在の方策は、善き者を選んで頼るよりほかありません」と答えた。詩をそらんじて「かの美人かな、西方の人かな」と言った。孝武帝は「わたしの考えと同じだ」と言って、入関の計画を定めた。孝武帝は顕和の母が老年で係累も多いので、計画に参加させようとした。しかし顕和は「現在の情勢では忠と孝をともに立てることはできません。秘密がもれれば身を失う計画であるのに、私情をさしはさむことができましょうか」といって拒絶した。孝武帝は顔色を変えて「卿はわが王陵である」といった。
- 宇文泰は顕和が弓射を得意とすることを聞いていたので、溱水におもむいたときに水傍の小鳥を射させると、顕和は見事射当ててみせた。宇文泰は笑って「わたしは卿が上手であることを知ったぞ」といった。