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[[蕭衍]]の長兄[[蕭懿]]の子として生まれた。[[斉 (南朝)|斉]]の[[永元 (南朝斉)|永元]]初年、著作佐郎を初任とした。[[天監]]元年([[502年]])、梁が建国されると、西昌県侯に封じられた。持節・都督益寧二州諸軍事・冠軍将軍・[[益州]][[刺史]]として出向した。ときに益州の民の焦僧護が数万の人々を集めて、郫繁を拠点に反乱を起こした。淵藻は幕僚を集めて自ら反乱を撃とうした。ある人が止めようとしたが、淵藻は激怒して反対者を階のそばで斬った。肩輿に乗って反乱軍の城塁に向けて進軍した。反乱軍の弓が乱射され、矢が雨のようにそそいだが、淵藻は従者の掲げた楯をどかせて顔を見せ、味方の士気を高めた。反乱軍は夜間に逃走を図ったが、淵藻は騎兵に追撃させ、数千人を斬首して反乱を鎮圧した。信威将軍に進んだ。天監9年([[510年]])、召還されて太子中庶子となった。天監10年([[511年]])、左驍騎将軍・[[南琅邪郡]][[太守]]に転じた。入朝して[[侍中]]の位を受けた。 |
[[蕭衍]]の長兄[[蕭懿]]の子として生まれた。[[斉 (南朝)|斉]]の[[永元 (南朝斉)|永元]]初年、著作佐郎を初任とした。[[天監]]元年([[502年]])、梁が建国されると、西昌県侯に封じられた。持節・都督益寧二州諸軍事・冠軍将軍・[[益州]][[刺史]]として出向した。ときに益州の民の焦僧護が数万の人々を集めて、郫繁を拠点に反乱を起こした。淵藻は幕僚を集めて自ら反乱を撃とうした。ある人が止めようとしたが、淵藻は激怒して反対者を階のそばで斬った。肩輿に乗って反乱軍の城塁に向けて進軍した。反乱軍の弓が乱射され、矢が雨のようにそそいだが、淵藻は従者の掲げた楯をどかせて顔を見せ、味方の士気を高めた。反乱軍は夜間に逃走を図ったが、淵藻は騎兵に追撃させ、数千人を斬首して反乱を鎮圧した。信威将軍に進んだ。天監9年([[510年]])、召還されて太子中庶子となった。天監10年([[511年]])、左驍騎将軍・[[南琅邪郡]][[太守]]に転じた。入朝して[[侍中]]の位を受けた。 |
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天監11年([[512年]])、使持節・都督雍梁秦三州竟陵隨二郡諸軍事・仁威将軍・寧蛮校尉・[[雍州]]刺史として出向した。天監12年([[513年]])、使持節・都督南兗兗徐青冀五州諸軍事・[[ |
天監11年([[512年]])、使持節・都督雍梁秦三州竟陵隨二郡諸軍事・仁威将軍・寧蛮校尉・[[雍州]]刺史として出向した。天監12年([[513年]])、使持節・都督南兗兗徐青冀五州諸軍事・[[兗州]]刺史に転じた。召還されて太子詹事となった。[[普通 (梁)|普通]]3年([[522年]])、領軍将軍の位を受け、侍中を加えられた。普通6年([[525年]])、軍師将軍となり、西豊侯[[蕭正徳]]とともに北伐して渦陽を攻撃した。軍を帰すと、弾劾を受けて免官され封爵を剥奪された。普通7年([[526年]])、宗正卿として再起した。普通8年([[527年]])、封爵をもどされ、左衛将軍の位を受けて、歩兵校尉を兼ねた。[[大通 (梁)|大通]]元年([[527年]])、侍中・中護軍に転じた。渦陽が梁に降ると、淵藻は使持節・都督北討諸軍事・征北大将軍となって、渦陽に駐屯した。大通3年([[529年]])、中権将軍・金紫光禄大夫の位を受けた。[[中大通]]元年([[529年]])、中権将軍のまま護軍将軍となった。中大通3年([[531年]])、中軍将軍・太子詹事となり、丹陽尹として出向した。入朝して安左将軍・尚書左僕射に任じられ、固辞したが、許されなかった。[[大同 (梁)|大同]]5年([[539年]])、中衛将軍・[[開府儀同三司]]・[[中書令]]に転じた。使持節・[[南徐州]]刺史として出向した。 |
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[[侯景の乱]]が起こると、淵藻は長子の[[蕭彧]]を援軍に向かわせた。[[建康 (都城)|建康城]]が陥落すると、散騎常侍・[[大将軍]]の位を加えられた。[[侯景]]は淵藻に代えて蕭邕を京口に駐屯させようとした。このとき淵藻は病の床にあった。ある人が[[東魏]]に亡命するよう勧めると、淵藻は「国の高位にあって、逆賊を誅することができないなら、朝廷とともに死ぬべきである。異類に身をやつして、余生を保つことができようか」と言って連日食事を摂らなかった。[[太清]]3年([[549年]])、死去した。享年は67。 |
[[侯景の乱]]が起こると、淵藻は長子の[[蕭彧]]を援軍に向かわせた。[[建康 (都城)|建康城]]が陥落すると、散騎常侍・[[大将軍]]の位を加えられた。[[侯景]]は淵藻に代えて蕭邕を京口に駐屯させようとした。このとき淵藻は病の床にあった。ある人が[[東魏]]に亡命するよう勧めると、淵藻は「国の高位にあって、逆賊を誅することができないなら、朝廷とともに死ぬべきである。異類に身をやつして、余生を保つことができようか」と言って連日食事を摂らなかった。[[太清]]3年([[549年]])、死去した。享年は67。 |
2021年3月1日 (月) 05:02時点における版
蕭 淵藻(しょう えんそう、483年 - 549年)は、南朝梁の皇族。字は靖芸。小名は迦葉。『梁書』と『南史』は、李淵の諱を避けて、名を藻と表記している。
経歴
蕭衍の長兄蕭懿の子として生まれた。斉の永元初年、著作佐郎を初任とした。天監元年(502年)、梁が建国されると、西昌県侯に封じられた。持節・都督益寧二州諸軍事・冠軍将軍・益州刺史として出向した。ときに益州の民の焦僧護が数万の人々を集めて、郫繁を拠点に反乱を起こした。淵藻は幕僚を集めて自ら反乱を撃とうした。ある人が止めようとしたが、淵藻は激怒して反対者を階のそばで斬った。肩輿に乗って反乱軍の城塁に向けて進軍した。反乱軍の弓が乱射され、矢が雨のようにそそいだが、淵藻は従者の掲げた楯をどかせて顔を見せ、味方の士気を高めた。反乱軍は夜間に逃走を図ったが、淵藻は騎兵に追撃させ、数千人を斬首して反乱を鎮圧した。信威将軍に進んだ。天監9年(510年)、召還されて太子中庶子となった。天監10年(511年)、左驍騎将軍・南琅邪郡太守に転じた。入朝して侍中の位を受けた。
天監11年(512年)、使持節・都督雍梁秦三州竟陵隨二郡諸軍事・仁威将軍・寧蛮校尉・雍州刺史として出向した。天監12年(513年)、使持節・都督南兗兗徐青冀五州諸軍事・兗州刺史に転じた。召還されて太子詹事となった。普通3年(522年)、領軍将軍の位を受け、侍中を加えられた。普通6年(525年)、軍師将軍となり、西豊侯蕭正徳とともに北伐して渦陽を攻撃した。軍を帰すと、弾劾を受けて免官され封爵を剥奪された。普通7年(526年)、宗正卿として再起した。普通8年(527年)、封爵をもどされ、左衛将軍の位を受けて、歩兵校尉を兼ねた。大通元年(527年)、侍中・中護軍に転じた。渦陽が梁に降ると、淵藻は使持節・都督北討諸軍事・征北大将軍となって、渦陽に駐屯した。大通3年(529年)、中権将軍・金紫光禄大夫の位を受けた。中大通元年(529年)、中権将軍のまま護軍将軍となった。中大通3年(531年)、中軍将軍・太子詹事となり、丹陽尹として出向した。入朝して安左将軍・尚書左僕射に任じられ、固辞したが、許されなかった。大同5年(539年)、中衛将軍・開府儀同三司・中書令に転じた。使持節・南徐州刺史として出向した。
侯景の乱が起こると、淵藻は長子の蕭彧を援軍に向かわせた。建康城が陥落すると、散騎常侍・大将軍の位を加えられた。侯景は淵藻に代えて蕭邕を京口に駐屯させようとした。このとき淵藻は病の床にあった。ある人が東魏に亡命するよう勧めると、淵藻は「国の高位にあって、逆賊を誅することができないなら、朝廷とともに死ぬべきである。異類に身をやつして、余生を保つことができようか」と言って連日食事を摂らなかった。太清3年(549年)、死去した。享年は67。
人物
- 淵藻は性格が謙虚で、言わずのうちに他者の望みを聞きとげた。
- 文章を得意とし、とくに古体を好んだ。
- 地方統治においても民衆や官吏に讃えられた。寒門の人をよく推挙した。
- 蕭衍はたびたび「子弟がみな迦葉(淵藻)のようであれば、わたしは心配がなくなるのだが」と嘆いた。
- 淵藻は恬淡として独居し、床には膝の痕が残っていた。爵禄が多すぎるといってたびたび辞退し、賓客との交友も少なかった。ひとたび免官されて以後、動物を食わず、音楽を聴かなかった。蕭衍にたびたび賞賛され、簡文帝にも敬愛を受けた。