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当初は[[諸葛亮]]の主簿を務め、諸葛亮に対し幾度も諫言し評価された<ref>『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』[[董和]]伝</ref>。諸葛亮の死後は中典軍として軍務に就き、成陽亭侯に封され、後に中監軍・[[前将軍]]に昇進し、[[漢中郡|漢中]]に駐留した。 |
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[[248年]]に鎮北将軍の[[王平]]が亡くなると、中監軍であった胡済は仮節・[[驃騎将軍]]・[[兗州]]刺史となり、王平に代わって漢中督となった<ref>『[[華陽国志]]』</ref>。 |
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[[256年]]、[[姜維]]の[[北伐]]に鎮西大将軍として参加した。姜維は[[秦州区|上邽]]で胡済と合流し[[魏 (三国)|魏]]の[[鄧艾]]を破る計画を立てたが、計画の通りに合流できず、また鄧艾にも軍の動きを読まれたため失敗した。このため姜維は退却するも追撃を受け、段谷で散々に撃ち破られた([[段谷の戦い]])。 |
[[256年]]、[[姜維]]の[[北伐]]に鎮西大将軍として参加した。姜維は[[秦州区|上邽]]で胡済と合流し[[魏 (三国)|魏]]の[[鄧艾]]を破る計画を立てたが、計画の通りに合流できず、また鄧艾にも軍の動きを読まれたため失敗した。このため姜維は退却するも追撃を受け、段谷で散々に撃ち破られた([[段谷の戦い]])。 |
2021年3月1日 (月) 05:02時点における版
胡 済(こ せい、生没年不詳)は、中国三国時代の蜀漢の人物。字は偉度。荊州義陽郡の出身。弟は胡博。
略歴
当初は諸葛亮の主簿を務め、諸葛亮に対し幾度も諫言し評価された[1]。諸葛亮の死後は中典軍として軍務に就き、成陽亭侯に封され、後に中監軍・前将軍に昇進し、漢中に駐留した。
248年に鎮北将軍の王平が亡くなると、中監軍であった胡済は仮節・驃騎将軍・兗州刺史となり、王平に代わって漢中督となった[2]。
256年、姜維の北伐に鎮西大将軍として参加した。姜維は上邽で胡済と合流し魏の鄧艾を破る計画を立てたが、計画の通りに合流できず、また鄧艾にも軍の動きを読まれたため失敗した。このため姜維は退却するも追撃を受け、段谷で散々に撃ち破られた(段谷の戦い)。
戦後、姜維は諸葛亮に倣い降格を願い出て後将軍となったが、胡済について特に記述はない。その後は漢寿の守備に就いた。