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[[559年]]([[武成 (北周)|武成]]元年)、御正下大夫の位を受け、小載師下大夫を兼ね、[[益州]]総管府長史として出向した。[[561年]]([[保定 (北周)|保定]]元年)、召還されて計部中大夫となり、中外府従事中郎をつとめ、武陽県伯の爵位を受けた。太府中大夫の位を受け、斉公[[宇文憲]]の下で府長史をつとめた。[[567年]]([[天和 (北周)|天和]]2年)、都督[[鄀州]]諸軍事・鄀州刺史に任じられた。位は驃騎大将軍・[[開府儀同三司]]に進み、[[襄州]]総管府司録をつとめた。[[572年]]([[建徳 (北周)|建徳]]元年)5月12日、[[万年県 (陝西省)|万年県]]天義里の邸で死去した。享年は68。[[隋]]の[[開皇]]年間に礼部尚書・武陽公の位を追贈された。[[諡]]は簡といった。 |
2021年3月1日 (月) 05:01時点における版
高 賓(こう ひん、503年 - 572年)は、中国の南北朝時代の官僚。字は元賓。本貫は渤海郡蓨県。高熲の父。
経歴
撫軍将軍・兗州刺史である高季安の子として生まれた。東魏に仕えて、龍驤将軍・諫議大夫・立義都督を歴任した。才能をねたまれて、高歓に誣告された。高賓は難に遭うのをおそれ、540年(東魏:興和2年、西魏:大統6年)に家族を捨てて西魏に亡命し、独孤信の幕僚となった。安東将軍・銀青光禄大夫の位を受けた。しばらくして通直散騎常侍・撫軍将軍・大都督に転じた。557年、北周の明帝が即位すると、高賓は咸陽郡太守となった。使持節・車騎大将軍・儀同三司・散騎常侍の位を加えられ、独孤氏の姓を賜った。
559年(武成元年)、御正下大夫の位を受け、小載師下大夫を兼ね、益州総管府長史として出向した。561年(保定元年)、召還されて計部中大夫となり、中外府従事中郎をつとめ、武陽県伯の爵位を受けた。太府中大夫の位を受け、斉公宇文憲の下で府長史をつとめた。567年(天和2年)、都督鄀州諸軍事・鄀州刺史に任じられた。位は驃騎大将軍・開府儀同三司に進み、襄州総管府司録をつとめた。572年(建徳元年)5月12日、万年県天義里の邸で死去した。享年は68。隋の開皇年間に礼部尚書・武陽公の位を追贈された。諡は簡といった。