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「尉撥」の版間の差分

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== 経歴 ==
== 経歴 ==
濮陽郡太守の尉那の子として生まれた。太学生となり、[[エン州|兗州]][[刺史]]の羅忸の募兵に従って功績を挙げ、介休男の爵位を受けた。[[北燕]]に対する征討に従い、虎賁帥となり、千人軍将に転じた。楽平王[[拓跋丕]]の下で再び北燕を攻撃した。涼州軍将に任ぜられ、[[吐谷渾]]を討って1000戸あまりを捕らえた。功績により[[子爵]]に進んだ。晋昌鎮将にうつり、治績を挙げた。[[大同市|平城]]に召還されて知臣監となった。また杏城鎮将として出向し、在任すること九年、少数民族の統治に意を用いた。[[献文帝]]が即位すると、北征都将となった。また都将として南征に従い、懸瓠を攻撃して[[宋 (南朝)|南朝宋]]の将の朱湛の率いる水軍3000人を破った。懸瓠鎮将となり、員外散騎常侍の位を加えられ、爵位は安城侯に進んだ。平南将軍・北豫州刺史に転じた。後に[[商州|洛州]]の民の田智度が北魏に叛くと、尉撥は[[豫州]]の兵を率いて田智度を捕らえ、平城に送った。死去すると、冠軍将軍の位を追贈され、[[諡]]は敬侯といった。
濮陽郡太守の尉那の子として生まれた。太学生となり、[[兗州]][[刺史]]の羅忸の募兵に従って功績を挙げ、介休男の爵位を受けた。[[北燕]]に対する征討に従い、虎賁帥となり、千人軍将に転じた。楽平王[[拓跋丕]]の下で再び北燕を攻撃した。涼州軍将に任ぜられ、[[吐谷渾]]を討って1000戸あまりを捕らえた。功績により[[子爵]]に進んだ。晋昌鎮将にうつり、治績を挙げた。[[大同市|平城]]に召還されて知臣監となった。また杏城鎮将として出向し、在任すること九年、少数民族の統治に意を用いた。[[献文帝]]が即位すると、北征都将となった。また都将として南征に従い、懸瓠を攻撃して[[宋 (南朝)|南朝宋]]の将の朱湛の率いる水軍3000人を破った。懸瓠鎮将となり、員外散騎常侍の位を加えられ、爵位は安城侯に進んだ。平南将軍・北豫州刺史に転じた。後に[[商州|洛州]]の民の田智度が北魏に叛くと、尉撥は[[豫州]]の兵を率いて田智度を捕らえ、平城に送った。死去すると、冠軍将軍の位を追贈され、[[諡]]は敬侯といった。


== 伝記資料 ==
== 伝記資料 ==

2021年3月1日 (月) 05:01時点における最新版

尉 撥(うつ はつ、生没年不詳)は、中国北魏軍人政治家本貫代郡

経歴

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濮陽郡太守の尉那の子として生まれた。太学生となり、兗州刺史の羅忸の募兵に従って功績を挙げ、介休男の爵位を受けた。北燕に対する征討に従い、虎賁帥となり、千人軍将に転じた。楽平王拓跋丕の下で再び北燕を攻撃した。涼州軍将に任ぜられ、吐谷渾を討って1000戸あまりを捕らえた。功績により子爵に進んだ。晋昌鎮将にうつり、治績を挙げた。平城に召還されて知臣監となった。また杏城鎮将として出向し、在任すること九年、少数民族の統治に意を用いた。献文帝が即位すると、北征都将となった。また都将として南征に従い、懸瓠を攻撃して南朝宋の将の朱湛の率いる水軍3000人を破った。懸瓠鎮将となり、員外散騎常侍の位を加えられ、爵位は安城侯に進んだ。平南将軍・北豫州刺史に転じた。後に洛州の民の田智度が北魏に叛くと、尉撥は豫州の兵を率いて田智度を捕らえ、平城に送った。死去すると、冠軍将軍の位を追贈され、は敬侯といった。

伝記資料

[編集]
  • 魏書』巻三十 列伝第十八
  • 北史』巻二十五 列伝第十三