「元端」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
m →伝記資料 |
m Bot作業依頼: 「エン州」→「兗州」などの改名に伴うリンク修正依頼 (兗州) - log |
||
2行目: | 2行目: | ||
== 経歴 == |
== 経歴 == |
||
高陽王[[元雍]]の長男として生まれた。容貌が美しく、経書や史書に通じた。[[宣武帝]]のとき、散騎侍郎を初任とした。[[孝明帝]]が即位すると、通直散騎常侍・鴻臚となった。通直散騎常侍のまま太常卿に転じた。散騎常侍に転じ、安東将軍・青州刺史として出向した。後に[[洛陽]]に帰って度支都官・二曹尚書となった。南朝[[梁 (南朝)|梁]]が[[徐州]]や[[揚州 (古代)|揚州]]に進攻しようとすると、元端は撫軍将軍・金紫光禄大夫・使持節・東南道大使に任じられてその対応にあたった。梁軍を撃退すると、鎮軍将軍・兗州刺史に任ぜられた。梁軍が再び徐州や[[ |
高陽王[[元雍]]の長男として生まれた。容貌が美しく、経書や史書に通じた。[[宣武帝]]のとき、散騎侍郎を初任とした。[[孝明帝]]が即位すると、通直散騎常侍・鴻臚となった。通直散騎常侍のまま太常卿に転じた。散騎常侍に転じ、安東将軍・青州刺史として出向した。後に[[洛陽]]に帰って度支都官・二曹尚書となった。南朝[[梁 (南朝)|梁]]が[[徐州]]や[[揚州 (古代)|揚州]]に進攻しようとすると、元端は撫軍将軍・金紫光禄大夫・使持節・東南道大使に任じられてその対応にあたった。梁軍を撃退すると、鎮軍将軍・兗州刺史に任ぜられた。梁軍が再び徐州や[[兗州]]に進攻すると、元端は州の文武の官を糾合して、防衛に成功した。功績により安徳県開国公に封ぜられた。洛陽に帰り、都官尚書に任ぜられた。[[528年]]4月、父とともに河陰で殺害された。享年は36。車騎大将軍・儀同三司・相州刺史の位を追贈された。 |
||
子の[[元峻]]が爵位を嗣いだ。 |
子の[[元峻]]が爵位を嗣いだ。 |
2021年3月1日 (月) 05:01時点における版
元 端(げん たん、493年 - 528年)は、中国の北魏の皇族。字は宣雅。
経歴
高陽王元雍の長男として生まれた。容貌が美しく、経書や史書に通じた。宣武帝のとき、散騎侍郎を初任とした。孝明帝が即位すると、通直散騎常侍・鴻臚となった。通直散騎常侍のまま太常卿に転じた。散騎常侍に転じ、安東将軍・青州刺史として出向した。後に洛陽に帰って度支都官・二曹尚書となった。南朝梁が徐州や揚州に進攻しようとすると、元端は撫軍将軍・金紫光禄大夫・使持節・東南道大使に任じられてその対応にあたった。梁軍を撃退すると、鎮軍将軍・兗州刺史に任ぜられた。梁軍が再び徐州や兗州に進攻すると、元端は州の文武の官を糾合して、防衛に成功した。功績により安徳県開国公に封ぜられた。洛陽に帰り、都官尚書に任ぜられた。528年4月、父とともに河陰で殺害された。享年は36。車騎大将軍・儀同三司・相州刺史の位を追贈された。
子の元峻が爵位を嗣いだ。