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[[File:Edison's Greatest Marvel-The Vitascope - Restoration.jpg|thumb|ヴァイタスコープを宣伝する |
[[File:Edison's Greatest Marvel-The Vitascope - Restoration.jpg|thumb|ヴァイタスコープを宣伝するポスター(1896年)。|upright=1.4]] |
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'''ヴァイタスコープ'''({{Lang-en-short|Vitascope}})は、[[映画史]]初期の[[映写機]]である。フィルムがレンズの前で1コマずつ一瞬停止する仕組みの間欠機構を使用して、映像をスクリーン上に映写する仕組みである{{Sfn|マッサー|2015|pp=34-36}}<ref>{{Cite book|和書 |last=Nowell-Smith |first=Geoffrey |year=1997 |title=The Oxford History of Cinema |publisher=Oxford University Press |page=7}}</ref>。使用するフィルムは長さが約15メートルで、ループ状になっているため何度も繰り返して映写できた{{Sfn|マッサー|2015|pp=38-39}}。[[1895年]]にアメリカの発明家{{仮リンク|チャールズ・フランシス・ジェンキンス|en|Charles Francis Jenkins}}と{{仮リンク|トーマス・アーマット|en|Thomas Armat}}が「{{仮リンク|ファントスコープ|en|Phantoscope}}」の名称で開発し、[[1896年]]にその権利を手に入れた[[トーマス・エジソン]]の映画会社{{仮リンク|エジソン社|en|Edison Manufacturing Company}}が商品化した。エジソンは発明に関与していないが、商業的価値を高めるために「エジソンのヴァイタスコープ」として宣伝された。1896年4月に[[ニューヨーク]]で初公開され、アメリカ国内で広く普及したが、すぐに[[シネマトグラフ]]などの競合する映写機に淘汰され、1年足らずで販売を終えた。アメリカ国外のいくつかの国でも上映されており、日本でも[[1897年]]に2つの興行系統により上映された。 |
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'''ヴァイタスコープ'''(英語:Vitascope)は、1895年に[[:en:Charles Francis Jenkins|Charles Francis Jenkins]]と[[:en:Thomas Armat|Thomas Armat]]により最初に実証された初期の映写機。彼らはJenkinsが特許を取得した[[:en:Phantoscope|Phantoscope]]に改良を加え、フィルムと電灯を介して壁やスクリーンに画像を投影できるようにした。ヴァイタスコープは、光を使用して画像を投影する大型の電動映写機である。投影される画像は元々[[キネトスコープ]]の機構によりゼラチンフィルムに撮影されたものである。断続的な機構を使用して、フィルムネガは毎秒最大50フレームを生成した。シャッターが開閉して新しい画像が表示される。この装置は1分あたり最大3,000個のネガを生成できる<ref>Lathrop, George P. “Stage Scenery and the Vitascope.” ''The North American Review'' 163.478 (1896): 377-381. ''JSTOR''. Web. 18 Oct. 2014.</ref>。Jenkinsは元のPhantoscopeを使用してArmatと提携する前に、1894年6月にインディアナ州リッチモンドでフィルム化された映画の最も初期の記録された投影を表示した。 |
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== 商品化の経緯 == |
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Armatは独立してPhantoscopeをThe Kinetoscope Companyに販売した。同社は初期の[[映画史|映画工学の急速な普及]]によりキネトスコープがすぐに過去のものとなることを認識した。ヴィタスコープが最初に実証されてからわずか2年後の1897年までに、この技術は全国的に採用されていた。ハノイとテキサスは、彼らの写真ショーにヴィタスコープを最初に組み込んだものの1つであった<ref name=":0" />。 |
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=== キネトスコープとファントスコープ === |
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ヴァイタスコープを商品化する{{仮リンク|エジソン社|en|Edison Manufacturing Company}}は、1890年代前半に[[トーマス・エジソン]]の助手[[ウィリアム・K・L・ディクソン]]が中心となり開発した「[[キネトスコープ]]」の商品化で映画事業を始めた{{Sfn|マッサー|2015|pp=29-30}}。キネトスコープはスクリーンに映写する方式ではなく、覗き穴式による映画鑑賞装置であり、1台につき1人しか見ることができなかった<ref>{{Citation|和書 |editor=村山匡一郎 |date=2013-7 |title=映画史を学ぶクリティカル・ワーズ |edition=新装増補 |publisher=フィルムアート社 |page=32}}</ref>。エジソン社は販売代理人であるノーマン・ラフとフランク・ガモンを通じてキネトスコープを販売し、[[1894年]]4月に[[ニューヨーク]]でキネトスコープ・パーラーの1号店を開いて一般興行を始めた{{Sfn|マッサー|2015|pp=29-30}}<ref name="ラフとガモン">{{Cite web |last=Herbert |first=Stephen |url=https://www.victorian-cinema.net/raff |title=Norman C. Raff and Frank R. Gammon |website=Who's Who of Victorian Cinema |accessdate=2021年4月27日}}</ref>。やがてニューヨーク以外のアメリカの都市をはじめ、[[ロンドン]]や[[パリ]]にもキネトスコープ・パーラーが開店し、エジソン社は大きな利益を獲得した{{Sfn|サドゥール|1992|pp=211-213}}。しかし、翌[[1895年]]3月には早くも需要が落ち込み、キネトスコープの人気は衰退していった{{Sfn|マッサー|2015|pp=34-36}}。苦境に立たされたラフとガモンは、エジソンに映写機を開発するよう求めたが、エジソンの研究所はこれを進展させることができなかった{{Sfn|サドゥール|1992|pp=214-215}}。 |
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1895年を通して、欧米では多くの発明家により映写機の開発が進められていた。例えば、ディクソンとレイサム兄弟は{{仮リンク|パントプティコン|en|Eidoloscope}}、ドイツの{{仮リンク|スクラダノフスキー兄弟|de|Max Skladanowsky}}は[[ビオスコープ]]、フランスの[[リュミエール兄弟]]は[[シネマトグラフ]]、イギリスの[[ロバート・W・ポール]]は{{仮リンク|シアトログラフ|en|Theatrograph}}を開発した{{Sfn|マッサー|1994|pp=91-93}}。ヴァイタスコープの前身である{{仮リンク|ファントスコープ|en|Phantoscope}}も、この時期に開発された映写機のひとつである。[[ワシントンD.C.]]の発明家{{仮リンク|チャールズ・フランシス・ジェンキンス|en|Charles Francis Jenkins}}は、1890年代初めから動く映像装置の研究に取り組んでいたが、1895年3月に{{仮リンク|トーマス・アーマット|en|Thomas Armat}}と提携を結び、2人で間欠機構を備えた映写機を開発し、「ファントスコープ」と名付けた{{Sfn|サドゥール|1992|pp=255-256}}<ref name="ジェンキンス">{{Cite web |last=Herbert |first=Stephen |url=https://www.victorian-cinema.net/jenkins |title=Charles Francis Jenkins |website=Who's Who of Victorian Cinema |accessdate=2021年4月27日}}</ref>。2人は8月28日にその特許を申請し{{Sfn|サドゥール|1992|p=259}}{{Refnest|group="注"|特許が交付されたのは[[1897年]]7月20日である{{Sfn|サドゥール|1992|p=259}}。}}、9月には[[アトランタ]]で開かれた綿の市で商業公開した{{Sfn|サドゥール|1992|pp=255-256}}。しかし、ファントスコープの上映興行は失敗に終わり、ジェンキンスとアーマットは関係を解消した{{Sfn|マッサー|2015|pp=34-36}}。 |
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⚫ | ヴァイタスコープは、1930年に[[ワーナーブラザー |
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=== エジソン社による商品化 === |
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==歴史== |
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[[File:Norman C. Raff.jpg|thumb|180px|エジソン社の販売代理人で、ヴァイタスコープを商品化したノーマン・ラフ。]] |
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[[トーマス・エジソン]]は彼の会社の1人用のキネトスコープが非常に利益を生み出していたため、この時点で投影システムの開発に時間がかかっていた。しかし、大勢の観客向けに映し出される映画は観る人の数に比例して必要な機会が少なくなるため、より多くの利益を生み出す可能性があった。よって、他の人は独自の投影システムを開発しようとした。 |
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ジェンキンスと別れたアーマットは、エジソン社販売代理人のラフとガモンに接近し、1895年12月に彼らに向けてファントスコープの試写を行った<ref name="ラフとガモン"/>{{Sfn|サドゥール|1993|pp=121-122}}。ラフとガモンはこれに感銘を受け、キネトスコープ事業が衰退していたエジソン社を復活させることができると確信し、ファントスコープの権利を買い取った{{Sfn|サドゥール|1993|pp=121-122}}。[[1896年]]1月15日にエジソンはこれを承認し、エジソン社が映写機を製造し、必要なフィルムを供給することに同意した{{Sfn|マッサー|2015|pp=34-36}}{{Sfn|サドゥール|1993|pp=121-122}}。ラフとガモンはこの装置に独自の商品名を付ける必要があることを認識し、ラテン語の「vita (生命)」とギリシャ語の「scope (見るもの)」を語源とする「ヴァイタスコープ」に改名した{{Sfn|マッサー|1994|p=110}}。また、この装置から十分な利益を引き出すためには、エジソンが発明に何も関わっていないにもかかわらず、大きな商業的価値を持つエジソンの名前を使う必要があることから、アーマットとエジソンの同意のもと「エジソンのヴァイタスコープ」として宣伝することにした{{Sfn|マッサー|2015|pp=34-36}}{{Sfn|サドゥール|1993|pp=121-122}}。ラフとガモンはアーマット宛の手紙で次のように述べている。 |
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{{Quote|いかにエジソン以外の者によって発明された装置が優れていて、その成果が満足すべきもので勝っていたとしても、顧客の大部分は何よりもまず、彼らがその発売を期待しているエジソンによって発明された装置に投資したがっています。彼らはエジソンの成果を確かめるまでは、他の何ものにも満足しないに違いありません…すなわち、最小の時間で最大の利益を手に入れるには、私どもはエジソンの名前を用いらなければならないということです<ref>{{Cite book |last=Ramsaye |first=Terry |year=1964 |title=A Million and One Nights: A History of the Motion Picture Through 1925 |publisher=Routledge |page=224}}</ref>。}} |
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アーマットはヴァイタスコープに小さな変更を加えて再パッケージ化し、ラフとガモンはその装置が「これまでに見たものよりも大幅に改善された」ことを認識した{{Sfn|マッサー|1994|p=111}}。ラフとガモンがヴァイタスコープを商品化する準備を進めていた3月中旬、パリやロンドンでシネマトグラフが上映され、人気を集めているという報告がアメリカに届いた{{Sfn|マッサー|1994|p=112}}。シネマトグラフはまだアメリカに上陸していないものの、すでに[[ヴォードヴィル]]劇場の経営者がシネマトグラフに投資しようとしていた{{Sfn|マッサー|1994|p=112}}。ヴァイタスコープにとって脅威となるシネマトグラフがアメリカに到達するのは避けられないため、ラフとガモンはそれよりも先にヴァイタスコープを売り出せば大きな利益を得ることができると認識した{{Sfn|マッサー|2015|p=37}}<ref>{{Cite journal|last=Allen |first=Robert C |year=1979 |title=Vitascope/Cinématographe: Initial Patterns of American Film Industrial Practice |journal=University Film Association |volume=31 |issue=2 |pages=13-18 |publisher=University of Illinois Press}}</ref>。そこでヴァイタスコープを売り出す計画を早め、1896年4月3日には{{仮リンク|ウエスト・オレンジ|en|West Orange, New Jersey}}にあるエジソンの研究所に新聞記者を招いて試写を行った{{Sfn|マッサー|2015|pp=38-39}}。 |
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== 公開と普及 == |
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先導した発明者の1人は、Phantoscopeを作成したCharles Francis Jenkinsであった。Jenkinsは観客の前に投影された最初期の映画の背後にいた。1894年6月6日、インディアナ州リッチモンドでフィルムと電灯を使って、ボードビルのダンサーのフィルムが投影された。[[:en:Woodville Latham|Woodville Latham]]は息子とともに、Eidoloscope映写機を作成し、1895年4月に発表した。[[ウィリアム・K・L・ディクソン]]はレイサムらに機械についてアドバイスをし技術的な知識を提供したようであるが、この状況によりディクソンは1895年4月2日にエジソンの元を離れた。 |
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[[File:Vitascope Hall Daily Picayune NOLA 31 July 1896.png|thumb|230px|[[ルイジアナ州]][[ニューオーリンズ]]の[[カナル・ストリート]]にある「ヴァイタスコープ・ホール」の広告(1896年)。この施設はルイジアナ州でヴァイタスコープを上映する独占権を購入したウィリアム・T・ロックが空き店舗を改装して開設し、アメリカで最初の映画館のひとつと考えられている<ref>{{Cite web |url=https://www.nola.com/300/article_8909f5d9-9381-5fe2-8a25-ee83f11535e6.html |date=2017-7-25 |title=300 unique New Orleans moments: Vitascope Hall opens July 26, 1896, as city's first movie theater |website=nola.com |accessdate=2021年4月28日}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.filmsite.org/pre20sintro2.html |title=The History of Film The Pre-1920s Part 2 |website=filmsite.org |accessdate=2021年4月28日}}</ref>。]] |
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ヴァイタスコープの最初の商業上映は、1896年4月23日にニューヨークの[[ブロードウェイ]]にある劇場{{仮リンク|コスター・アンド・バイアル・ミュージック・ホール|en|Koster and Bial's Music Hall}}で行われた{{Sfn|マッサー|2015|pp=38-39}}。ヴァイタスコープの上映は「トーマス・エジソンの最新の驚異、ヴァイタスコープ」という演目名で、曲芸や芝居などのバラエティ・ショーと並ぶプログラムに組み込まれた<ref>{{Cite journal|和書 |author=永冶日出雄 |date=1996-3 |title=アメリカにおけるリュミエール映画の受容および排除 シネマトグラフの世界的浸透<その3> |url=http://www.hnagaya.net/cinemato03.pdf |format=PDF |journal=愛知教育大学研究報告 人文科学 |issue=45 |pages=107-115 |publisher=愛知教育大学 |page=108}}</ref>。上映プログラムには12本の作品が記されていたが、実際に上映されたのはキネトスコープ用作品の『傘のダンス』『バンド・ドリル』『滑稽なボクシング』『アナベルのサーペンタインダンス』と、新作の『モンロー主義』、イギリスのロバート・W・ポールが撮影した『{{仮リンク|ドーヴァーの荒波|en|Rough Sea at Dover}}』の6本だけだった{{Sfn|サドゥール|1993|pp=124-125}}{{Sfn|マッサー|1994|p=116}}。そのうち『アナベルのサーペンタインダンス』は手彩色による着色版で上映された<ref>{{Cite web |last=Herbert |first=Stephen |url=https://www.victorian-cinema.net/features |title=TECHNICAL ESSAY |website=Who's Who of Victorian Cinema |accessdate=2021年4月28日}}</ref>。この上映会はアメリカで最初に高い商業的成功を収めた、映写式による有料映画上映となった{{Sfn|マッサー|2015|p=239}}。 |
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1896年5月、ラフとガモンはエジソン社の販売代理店であるヴァイタスコープ社を設立し<ref name="ラフとガモン"/>、アメリカの投資家に特定の州や地域で独占的にヴァイタスコープを公開する権利を販売した{{Sfn|マッサー|2015|pp=34-36}}。それ以後ヴァイタスコープはアメリカのさまざまな都市で上映され、[[ボストン]]では5月18日、[[フィラデルフィア]]では5月25日、[[プロビデンス (ロードアイランド州)|プロビデンス]]では6月4日、[[サンフランシスコ]]では6月8日、[[ボルチモア]]では6月15日、[[ニューオーリンズ]]では6月28日、[[デトロイト]]では7月1日、[[シカゴ]]と[[ロサンゼルス]]では7月5日、[[ミルウォーキー]]と[[カンザスシティ]]では7月26日、[[デンバー]]では8月16日に初公開された{{Sfn|マッサー|2015|pp=98, 101}}。多くの場合、ヴァイタスコープはヴォードヴィル劇場で人気の出し物として上映されたり、店舗を改装した興行施設で見せられたりした{{Sfn|マッサー|1994|pp=122-128}}<ref>{{Cite web |url=https://www.loc.gov/collections/edison-company-motion-pictures-and-sound-recordings/articles-and-essays/history-of-edison-motion-pictures/shift-to-projectors-and-the-vitoscope/ |title=Shift to Projectors and the Vitoscope (1895-1896) |website=Library of Congress |accessdate=2021年4月28日}}</ref>。 |
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ディクソンは1895年12月にパートナーのHerman Casler, Henry Norton Marvin, Elias KoopmanとAmerican Mutoscope Companyを設立した。最終的にAmerican Mutoscope and Biograph Companyになったこの会社はすぐにエジソン・カンパニーの主要な競争相手となった。 |
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しかし、すぐにヴァイタスコープは競合会社との市場競争に直面した。1896年6月下旬にはシネマトグラフがアメリカに上陸し、9月までに10数台のシネマトグラフが全米の主要都市で上映された{{Sfn|マッサー|2015|pp=41-42}}。その他にも数多くの映写機が市場に出回っていたが、それらの多くはヴァイタスコープよりも安価で質が良く、地域的独占権による制限なしに購入することができた{{Sfn|マッサー|2015|pp=41-42}}{{Sfn|マッサー|1994|p=164}}。このような市場ではヴァイタスコープが売れることはなく、同年10月までにヴァイタスコープ社の事業は崩壊した{{Sfn|マッサー|1994|p=164}}。また、上映用フィルムも地域的独占権を与えた投資家にのみ販売していたため、利益にはならなかった<ref name="ラフとガモン"/>。そこでエジソン社はラフとガモンとの関係を見直し、フィルムを誰にでも販売できるようにした{{Sfn|マッサー|2015|pp=41-42}}。[[1897年]]2月にはエジソンが独自に開発した「映写式キネトスコープ(またはプロジェクトスコープ)」を制限なしに販売し、ヴァイタスコープの販売を止めた{{Sfn|サドゥール|1993|p=164}}{{Sfn|マッサー|2015|p=44}}。 |
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同じ時期にC. Francis JenkinsとThomas ArmatはJenkinsの特許のPhantoscopeを改良した。これは1895年秋にアトランタのCotton States Expositionで発表された。2人はすぐに分かれそれぞれが発明を主張した。 |
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=== アメリカ国外 === |
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Armatはキネトスコープ事業の衰退に直面しその利益の可能性を認識したKinetoscope Companyのオーナーであった[[:en:Raff & Gammon|Raff & Gammon]]にPhantoscopeを見せた。彼らはPhantoscopeの権利を買うためにArmatと交渉し、エジソンに承認を求め接近した。Edison Manufacturing Companyはそのための機械とフィルムを製造することに同意したが、それを条件としてPhantoscopeはヴァイタスコープという新たなエジソンの発明として宣伝された。エジソンの懐疑論者はヴァイタスコープには色あせた過去があると主張している。さらに、批評家はヴァイタスコープはPhantoscopeにわずかに変更を加えた再パッケージ化にすぎないと主張している<ref name=":0" />。 |
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ラフとガモンはヨーロッパでヴァイタスコープを販売するため、これに興味を抱く奇術師のポール・シンクヴァリをロンドンに派遣した。シンクヴァリはヴァイタスコープのヨーロッパでの権利を2万5000ドルで売り込むことを考えていたが、すでにロンドンではリュミエール兄弟のシネマトグラフや、ロバート・W・ポールのシアトログラフなどの映写機が成功を収めていたため、買い手を見つけることができなかった{{Sfn|サドゥール|1993|pp=141-142}}。それでもヨーロッパ市場の開拓に熱心なラフとガモンは、1896年4月22日に代理人のチャールズ・ウェブスターをロンドンに派遣した<ref name="ウェブスター">{{Cite web |last=McKernan |first=Luke |url=https://www.victorian-cinema.net/webster |title=Charles Webster |website=Who's Who of Victorian Cinema |accessdate=2021年4月29日}}</ref>。ウェブスターはシネマトグラフの上映を見て感銘を受け、ラフとガモンにシネマトグラフがヴァイタスコープよりも優れていることを報告した{{Sfn|サドゥール|1993|pp=141-142}}。ウェブスターはヨーロッパ各地でヴァイタスコープを上映して回ったが、大きな成功を収めることはできなかった{{Sfn|サドゥール|1993|pp=141-142}}<ref name="ウェブスター"/>。 |
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[[カナダ]]では、1896年7月21日に[[オタワ]]のウエスト・エンド・パークでヴァイタスコープの興行が行われた。興行者はエジソン社の代理人であるホランド兄弟で、オタワ電気鉄道の経営者が興行を後援し、鉄道料金とセットで格安の入場券が販売された。興行は野外で2週間にわたり行われ、約4万5000人の観客が訪れた。しかし、その前の6月27日にシネマトグラフが[[モントリオール]]で上映されていたため、ヴァイタスコープがカナダで最初の映画上映というわけではなかった{{Sfn|永冶|1997|pp=131-132}}。同年8月31日には[[トロント]]でもヴァイタスコープが上映された{{Sfn|永冶|1997|p=133}}。 |
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ヴァイタスコープの最初の劇場展示会は、1896年4月23日、ニューヨーク市のKoster and Bial's Music Hallで行われた。他の競合他社はすぐにアメリカの劇場で独自の投影システムを展示した。投影システムには、ヴァイタスコープのイノベーションをコピーした再設計のEidoloscope、1895年にヨーロッパではすでに発表されていた[[リュミエール兄弟|リュミエール]]シネマトグラフ、American Mutoscope Companyにより販売されたBirt Acres' Kineopticonが含まれる。ヴァイタスコープの初演は、ボードビルのマネージャーが投資しようとしていたリュミエールのシネマトグラフに非常に多額のお金を失うという脅威への迅速な対応であった。リュミエールのシネマトグラフは1895年より存在していたが、すでに英国で人気があったため、米国では人気となっていなかった。特にロンドンでは人々がリュミエールのシネマトグラフに夢中になっていた<ref name=":0" />。Raff and Gammonは米国のリュミエールのシネマトグラフに先駆けて技術をリリースすることでより大金を得ることができると認識した<ref name=":1" />。ヴァイタスコープがマンハッタンで悪名高くデビューした後、この装置は、ボストン、フィラデルフィア、アトランティックシティ、ポートランド、スクラントン、ニューヘイブン、ニューオーリンズ、ニューロンドン、クリーブランド、バッファロー、サンフランシスコ、アズブリーパーク、ボルチモア、デトロイト、シカゴ、ロサンゼルスなどでの展示会含む全国に配布された。この展示会は1つの夏に25の都市で開催された。 |
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[[ラテンアメリカ]]では、1896年9月27日に[[メキシコ]]の[[グアダラハラ (メキシコ)|グアダラハラ]]、同年10月26日に[[グアテマラ]]の[[グアテマラシティ]]、1897年2月13日に[[キューバ]]の[[ハバナ]]でヴァイタスコープが初公開されたが、これらの国でもヴァイタスコープよりも先にシネマトグラフが上映されている{{Sfn|永冶|1997|pp=135-137}}。 |
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<ref name=":0" /><ref name=":1" /> |
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== ヴァイタスコープ映画 == |
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ヴァイタスコープは、競合する多くの映写機と共に、全米の都市のバラエティ劇場やボードビル劇場で人気の呼び物になった。映画はすぐにボートビルのプログラムでの主要な呼び物になった。出展者はエジソンの目録から映画を展示することができた。 |
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[[File:May Irwin Kiss.ogv|thumb|『[[M・アーウィンとJ・C・ライスの接吻]]』(1896年)。]] |
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キネトスコープ時代のエジソン社の作品は、[[映画スタジオ]]の{{仮リンク|ブラック・マリア (映画スタジオ)|label=ブラック・マリア|en|Edison's Black Maria}}でダンスや曲芸などの見世物を撮影したものが多かったが、撮影機の[[キネトスコープ|キネトグラフ]]は重くて持ち運びに不便なため、ブラック・マリアの外で撮影することはほとんどなかった{{Sfn|サドゥール|1993|p=50}}{{Sfn|サドゥール|1992|p=211}}。1896年4月のヴァイタスコープの初公開の時に最も人気を集めた作品は、ロバート・W・ポールが撮影した他社作品の『ドーヴァーの荒波』だったが、それは従来のエジソン社作品にはない屋外の情景を写した作品だった{{Sfn|マッサー|2015|pp=39-40}}。そのためエジソン社は、ヴァイタスコープが成功するために新しく魅力的な作品を作ることが必須であることを認識した{{Sfn|マッサー|2015|pp=39-40}}{{Sfn|マッサー|1994|p=118}}。1895年5月にカメラマンの[[ウィリアム・ハイセ|ウィリアム・ハイス]]は、携帯可能なポータブルカメラを使用して屋外での撮影を行い、エジソン社作品をブラック・マリアの制約から解放させた<ref name="ハイス">{{Cite web |last=Herbert |first=Stephen |url=https://www.victorian-cinema.net/heise |title=William Heise |website=Who's Who of Victorian Cinema |accessdate=2021年4月27日}}</ref>。ハイスは撮影部門の責任者である{{仮リンク|ジェームズ・H・ホワイト|en|James H. White}}と提携して、[[ナイアガラの滝]]や[[コニーアイランド]]の光景、事前に準備された2台の列車の正面衝突などを撮影した{{Sfn|マッサー|2015|pp=39-40}}。ヴァイタスコープ用映画の多くはロケーション撮影だったが、一部作品はヴァイタスコープ社のニューヨーク事務所の屋上に建てた仮設のスタジオで撮影された<ref name="ラフとガモン"/>{{Sfn|マッサー|2015|pp=39-40}}。 |
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ヴァイタスコープ用映画で最も人気を集めた作品は『[[M・アーウィンとJ・C・ライスの接吻]]』だった{{Sfn|マッサー|2015|pp=98, 101}}。これは人気舞台『未亡人ジョーンズ』の一場面であるキスシーンを[[クローズアップ]]で写した作品で、1896年4月中旬にその舞台の出演俳優をブラック・マリアに招いて撮影した{{Sfn|マッサー|2015|pp=39-40}}<ref>{{Cite web |url=https://www.loc.gov/item/00694131/ |title=May Irwin kiss |website=Library of Congress |accessdate=2021年4月27日}}</ref>。この作品は多くのヴォードヴィル劇場でショーの終わりに上映され、その人気は1897年まで続いた{{Sfn|マッサー|2015|pp=39-40}}<ref>{{Cite book |last=Eagan |first=Daniel |title=America's film legacy : the authoritative guide to the landmark movies in the National Film Registry |date=2010 |publisher=Continuum |others=National Film Preservation Board (U.S.) |page=5}}</ref>。また、新聞漫画家の{{仮リンク|ジェームズ・スチュアート・ブラックトン|en|J. Stuart Blackton}}がエジソンの似顔絵を素早く描く様子を撮影した『世界的漫画家ブラックトンが描く発明家エジソン』(1896年)も人気があり、この作品が全米のヴォードヴィル劇場で上映されてから、主役のブラックトンはヴォードヴィルの人気スターになった{{Sfn|マッサー|2015|pp=40, 115}}。ブラックトンはこの成功で映画業界に関心を持ち、エジソン社の競合会社となる{{仮リンク|ヴァイタグラフ社|en|Vitagraph Studios}}の共同設立者になった{{Sfn|マッサー|2015|pp=41-42}}{{Sfn|サドゥール|1993|p=172}}。 |
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エジソン・カンパニーは1896年11月にProjectoscopeまたはProjecting Kinetoscopeとして知られる独自の映写機を開発し、ヴァイタスコープの販売を止めた。 |
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== 日本での公開 == |
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[[1897年]]2月15日に[[稲畑勝太郎]]が輸入したシネマトグラフが大阪南地演舞場で初公開され、これが日本初のスクリーンに映写する方式による映画上映とされている{{Sfn|片岡|2020|pp=38-39}}{{Refnest|group="注"|ただし、その前の1896年12月25日に[[神戸市|神戸]]で覗き穴式のキネトスコープが一般公開されている{{Sfn|片岡|2020|p=34}}。}}。ヴァイタスコープはシネマトグラフに遅れる形で、同年に2つの興行系統により日本国内で上映された。1つは[[大阪市|大阪]]の[[荒木和一]]が輸入したもの(荒木系ヴァイタスコープ)で、2月21日に大阪新町演舞場で初公開された。もう1つは東京の新居商会が輸入したもの(新居系ヴァイタスコープ)で、3月6日に[[東京府|東京]][[神田区|神田]]の[[錦輝館]]で初公開された。それぞれの興行には作品や映写方法などを説明する口上役がいたとされ、それは[[活動弁士]]の先駆けと考えられている{{Sfn|片岡|2020|pp=49, 57-58}}。 |
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トーマス・エジソンとThomas Armatは大きな利益を上げたが、多くの投資家は債務不履行に陥り、赤字になった者もいた。投資家はヴァイタスコープが観客にどのように販売されたかにより、お金を失った<ref name=":0">Musser, Charles. “The Vitascope.” The Emergence of Cinema: The American Cinema to 1907 1.1 (1990): 109-132. Gale Virtual Reference Library. Web. 18 Oct. 2014.</ref>。Raff and Gammonは米国とカナダでフランチャイズを担当し、投資家に彼らの州で独占的にヴァイタスコープを使用する権利を購入する機会を提供した。これは短期間の独占効果をいくらか生み出し、本質的に観客が展示者が与えるものを何でも受け取らざるを得なくなった。Raff & Gammonはマーケティングのキャンペーンを開始したときに、順序を間違えてしまった。当時、彼らはボードビルのマネージャーが使用できる映画を約20本しか持っていなかった。彼らには観客の映画経験を新しい映画で継続的に更新するためのリソースがなかった<ref name=":1">Allen, Robert C. “Vitascope/Cinématographe: Initial Patterns of American Film Industrial Practice.” Journal of the University Film Association 31.2 (1979): 13-18. JSTOR. Web. 18 Oct. 2014.</ref>。 |
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=== 荒木系ヴァイタスコープ === |
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日本で最初にヴァイタスコープを輸入公開したのは、大阪[[心斎橋]]で雑貨商を営む荒木和一である{{Sfn|塚田|1980|p=168}}。荒木は1896年にアメリカに渡航し、シカゴでヴァイタスコープを見たことから、それを購入して日本に持ち込んだ<ref name="荒木">荒木和一「エヂソン氏の活動写真器と私」({{Harvnb|日本映画事業総覧|1927|pp=441-442}})</ref>。日本にヴァイタスコープが到着した正確な日付は不明だが、映画史研究家の塚田嘉信は1896年12月に到着したと推定している{{Sfn|片岡|2020|pp=38-39}}{{Sfn|塚田|1980|pp=186-187}}。荒木は[[大阪電灯]]の技師とともにヴァイタスコープの操作方法を研究し、動かすためには[[直流]]電気が必要であることが判明したが、大阪には直流電気を扱う場所がほとんどなかった。技師が方々を探し回り、ようやく[[難波]]の鉄工場に直流の[[ダイナモ]]があるのを見つけ、そこで試写を行った<ref name="荒木"/>。稲畑のシネマトグラフよりも先に輸入された荒木系ヴァイタスコープは、本来ならばシネマトグラフよりも早い1月に上映する予定だったが、1月11日に[[英照皇太后]]が崩御し、服喪として1ヶ月間歌舞音曲が自粛されたため、初公開に向けて動くことができなくなった{{Sfn|片岡|2020|pp=38-39}}<ref name="映画史料">「関西映画発達史談4」『映画史料』第11集、1964年1月15日。{{Harvnb|塚田|1980|p=70}}に引用。</ref>。荒木曰く「そんなわけでグズグズしている内<ref name="荒木"/>」に、喪明け早々の2月15日にシネマトグラフが南地演舞場で初公開され、結果的に日本初の映画上映の座を奪われる形となった{{Sfn|片岡|2020|pp=38-39}}。 |
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荒木系ヴァイタスコープの初公開は、シネマトグラフの初公開に遅れること1週間、1897年2月22日から24日まで大阪の新町演舞場で「蓄動射影会」と称して行われた{{Sfn|片岡|2020|pp=40-41}}{{Sfn|塚田|1980|p=169}}。会場の手配を担当した[[上田布袋軒]]によると、新町演舞場は当初貸し出しに難色を示していたが、2月4日に起きた三光丸沈没事故{{Refnest|group="注"|三光丸沈没事故は、2月4日に汽船三光丸が[[愛媛県]]沖で汽船尾張丸と衝突して沈没し、63人が死亡した事故のことである{{Sfn|塚田|1980|p=169}}。}}の遭難者遺族の義捐を名目に興行することで会場側を説得したという{{Sfn|片岡|2020|pp=40-41}}{{Sfn|塚田|1980|p=171}}。なお、上田は荒木系ヴァイタスコープ興行での口上役も任されており、その後も弁士としての活動を続けたことから、日本初の活動弁士と言われている{{Sfn|片岡|2020|pp=40-41}}。新町演舞場での興行を終えると、3月1日から14日まで[[名古屋市|名古屋]]の末広座、3月15日から東京の浅草座(楽日は不明)、3月22日から26日まで大阪の[[道頓堀]]朝日座で上映した{{Sfn|塚田|1980|pp=172-175}}。その後、荒木はヴァイタスコープを[[名古屋]]の樋口虎澄に譲渡したが、それ以後の行方は不明である{{Sfn|片岡|2020|p=69}}。 |
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*[http://memory.loc.gov/ammem/edhtml/edshift.html History of Edison Motion Pictures: The Shift to Projectors and the Vitascope (1895-1896)] |
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=== 新居系ヴァイタスコープ === |
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==アーカイブ== |
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東京[[京橋区|京橋]]の貿易商である新居商会は、荒木とは別の経路でヴァイタスコープを日本に輸入した{{Sfn|片岡|2020|pp=40-41}}。新居商会社員の柴田忠次郎は、[[1893年]]の[[シカゴ万国博覧会 (1893年)|シカゴ万国博覧会]]で日本式庭園を出品するために渡米し、その後もアメリカ各地で同様の催しをしていたが、1896年に友人の勧めでヴァイタスコープの上映を見ると、それを日本に輸入して上映しようと思い立ち、直ちに装置と16本のフィルムを3500円で購入した<ref>{{Harvnb|日本映画論言説大系|2006|p=246}}(吉山旭光『日本映画界事物起源』1933年)</ref>{{Sfn|前川|2008|pp=344-346}}{{Sfn|田中|1975|pp=59-60}}。しかし、代金が不足したため残額を日本で支払うことになり、それを取り立てる付き馬としてアメリカ人の映写技師ダニエル・クロースが日本に同行することになった{{Sfn|前川|2008|pp=344-346}}。1896年末に柴田とクロースは、装置とフィルムを携えて日本に到着した{{Sfn|片岡|2020|pp=40-41}}{{Sfn|田中|1975|pp=59-60}}。新居商会もヴァイタスコープで使う電気の確保に苦労したが、[[三吉正一|三吉電機工場]]の直流ダイナモと十文字商会の石油発動機を使用し、自家発電を起すことで問題を解決した{{Sfn|田中|1975|pp=59-60}}{{Sfn|吉田|1978|p=29}}。なお、十文字商会の経営者である[[十文字大元]]は、演説が上手くて英語力も堪能だったことから、新居系ヴァイタスコープ興行での口上役を務めることになった{{Sfn|片岡|2020|p=42}}<ref name="十文字">[[十文字大元]]「『活動写真』といふ名の由来」({{Harvnb|日本映画事業総覧|1927|pp=443-444}})</ref>。 |
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*[http://nrs.harvard.edu/urn-3:HBS.Baker.EAD:bak00343 Raff and Gammon records] at Baker Library Special Collections, Harvard Business School |
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ヴァイタスコープの試写会は、1897年2月27日に[[歌舞伎座]]で行われた{{Sfn|片岡|2020|p=42}}。十文字によると、1897年1月に新居商会の会社内で試験的映写を行い、これが成功したため大々的に公開することを考えていたところ、英照皇太后の崩御で1ヶ月間歌舞音曲が禁止され、時期をうかがっていたときに、[[福地源一郎]]の紹介で歌舞伎座での上映が実現したという<ref name="十文字"/>。試写会は折柄公演中だった『[[積恋雪関扉]]』の終演後の午後7時に始まり、まず口上役である十文字が上映作品や装置の構造、映写方法などについて1時間かけて説明し、その後にヴァイタスコープで数本のフィルムを2、3回ずつ繰り返して上映した<ref name="十文字"/><ref name="日本映画史年表">{{Harvnb|日本映画論言説大系|2006|p=567}}(吉山旭光『日本映画史年表』1940年)</ref>。出席者には名士や新聞記者などがいたが、その中には舞台を終えたばかりの[[市川團十郎 (9代目)|九代目市川團十郎]]、[[尾上菊五郎 (5代目)|五代目尾上菊五郎]]、[[守田勘彌 (12代目)|十二代目守田勘彌]]もおり、上映を見た勘彌は菊五郎に「これはやがて芝居を蹴るような恐ろしい強敵になるぞ」と囁いたという<ref name="日本映画史年表"/>。試写会は成功を収め、気を良くした新居商会は3月1日から歌舞伎座で一般上映を始めようとしたが、舶来物を嫌う團十郎が「どうしてもやるというなら舞台を鉋で削り直しておけ」と激怒したため中止したという{{Sfn|田中|1975|pp=57-58}}。 |
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そこで新居商会は[[神田錦町]]にある貸席の[[錦輝館]]に会場を変更し、1897年3月6日から22日まで「活動大写真」の名称で一般上映を行った{{Sfn|田中|1975|pp=57-58}}{{Sfn|塚田|1980|p=198}}。興行は毎日午後1時と午後7時の2回行われ、『メアリー女王の処刑』『ナイヤガラ瀑布』『群鳩飼養の図』『新約克火事場の景』『李鴻章ウヲルドルフ旅館を去るの図』『蝶々踊』などの作品が上映された{{Sfn|田中|1975|pp=57-58}}{{Sfn|塚田|1980|pp=196, 199-200, 222}}。口上は十文字とクロースが担当し、クロースが英語で何かを話したあと、それを通訳するような形で十文字が話すという順序で説明が行われた{{Sfn|吉田|1978|p=30}}{{Sfn|前川|2008|p=383}}。宣伝を受け持っていた[[広目屋]]の店員の[[駒田好洋]]によると、上映中は広目屋が派遣した楽隊による伴奏音楽が演奏されたという{{Sfn|田中|1975|pp=61-62}}。 |
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錦輝館での興行が終了した翌日の3月23日には、同会場で職工徒弟学校演芸会の催しのひとつとして上映された{{Sfn|塚田|1980|p=202}}。3月27日から4月5日までは歌舞伎座で子供芝居の余興に上映されたが、映画史家の[[田中純一郎]]によると、この時には團十郎もヴァイタスコープの上映に文句を言わなかったという{{Sfn|塚田|1980|p=202}}{{Sfn|田中|1975|pp=65-66}}。4月14日から30日までは浅草座で上映したが、その間の4月26日は興行を休み、[[赤坂離宮]]で[[大正天皇|皇太子嘉仁親王]](後の大正天皇)の上覧を受けた{{Sfn|塚田|1980|pp=204-207}}{{Sfn|前川|2008|pp=326-327}}。さらに5月1日に[[本郷中央教会|本郷中央会堂]]の慈善演芸会、5月4日から13日まで再び錦輝館{{Refnest|group="注"|この時は[[滝乃川学園]]の白痴教育部設立のための義捐公演として上映が行われた{{Sfn|塚田|1980|pp=204-207}}。}}、5月21日から[[横浜]]の蔦座(楽日は不明)で上映した{{Sfn|塚田|1980|pp=204-207}}。その後、新居商会はヴァイタスコープを広目屋に譲渡し、映画興行から身を引いた{{Sfn|田中|1975|pp=65-66}}。広目屋に興行を任された駒田好洋は、6月15日の[[静岡市|静岡]]の[[若竹座]]を皮切りに全国各地を巡業したが、その際に活動弁士としても活躍し、「頗る非常」のフレーズを多用した芸風で知られた{{Sfn|田中|1975|pp=65-66}}{{Sfn|片岡|2020|pp=78-79}}<ref name="駒田">[[駒田好洋]]「珍談百出初期の興行法と世相」({{Harvnb|日本映画事業総覧|1927|pp=445-446}})</ref>。 |
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== 備考 == |
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⚫ | ヴァイタスコープは、[[1930年]]に[[ワーナー・ブラザース]]が『''[[:en:Song of the Flame (film)|Song of the Flame]]''』などの映画で使われた{{仮リンク|ワイドスクリーンプロセス|en|Widescreen}}の商標名として一時的に用いられた。当時ワーナーは[[パラマウント映画]]のマグナスコープ、[[RKO]]のナチュラルビジョン(後の[[立体映画|3Dフィルム]]プロセスとは関係ない)、{{仮リンク|フォックス社|en|Fox Film}}の{{仮リンク|フォックス・グランデュール|en|70 mm Grandeur film}}などの他のワイドスクリーンプロセスと競争しようとしていた<ref name="">{{Cite web |url=https://www.in70mm.com/newsletter/2001/64/grandeur/index.htm |title=Magnified Grandeur The Big Screen 1926-31 |website=in70mm.com |accessdate=2021年4月30日}}</ref>。 |
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== 脚注 == |
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=== 注釈 === |
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{{Reflist|group="注"}} |
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== 参考文献 == |
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* {{Cite book|和書 |author=[[片岡一郎]] |date=2020-10 |title=活動写真弁史 映画に魂を吹き込む人びと |publisher=共和国 |isbn=978-4907986643 |ref={{Harvid|片岡|2020}}}} |
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* {{Cite book|和書 |author=ジョルジュ・サドゥール |translator=村山匡一郎、出口丈人、小松弘 |date=1992-11 |title=世界映画全史1 映画の発明 諸器械の発明1832-1895:プラトーからリュミエールへ |publisher=[[国書刊行会]] |isbn=978-4336034410 |ref={{Harvid|サドゥール|1992}}}} |
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* {{Cite book|和書 |author=ジョルジュ・サドゥール |translator=村山匡一郎、出口丈人、小松弘 |date=1993-10 |title=世界映画全史2 映画の発明 初期の見世物1895-1897 |publisher=国書刊行会 |isbn=978-4336034427 |ref={{Harvid|サドゥール|1993}}}} |
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* {{Cite book|和書 |author=[[田中純一郎]] |date=1975-12 |title=[[日本映画発達史|日本映画発達史Ⅰ 活動写真時代]] |series=中公文庫 |publisher=[[中央公論社]] |isbn=978-4122002852 |ref={{Harvid|田中|1975}}}} |
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* {{Cite book|和書 |author=塚田嘉信 |date=1980-11 |title=日本映画史の研究 活動写真渡来前後の事情 |publisher=[[現代書館]] |isbn=978-4768477052 |ref={{Harvid|塚田|1980}}}} |
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* {{Cite journal|和書 |author=永冶日出雄 |date=1997-3 |title=カナダ, メキシコ, キューバ, グアテマラにおけるリュミエール映画の受容 シネマトグラフの世界的浸透<その4> |url=http://www.hnagaya.net/cinemato04.pdf |format=PDF |journal=愛知教育大学研究報告 人文科学 |issue=46 |pages=131-139 |publisher=愛知教育大学 |ref={{Harvid|永冶|1997}}}} |
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* {{Cite book|和書 |author=前川公美夫 |date=2008-8 |title=頗る非常! 怪人活弁士・駒田好洋の巡業奇聞 |publisher=[[新潮社]] |isbn=978-4103090311 |ref={{Harvid|前川|2008}}}} |
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* {{Cite book|和書 |author=牧野守監修 |date=2006-2 |title=日本映画論言説大系 第29巻 |publisher=[[ゆまに書房]] |isbn=978-4843309704 |ref={{Harvid|日本映画論言説大系|2006}}}} |
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* {{Cite book |author=チャールズ・マッサー |year=1994 |title=The Emergence of Cinema: The American Screen to 1907 |publisher=University of California Press |location=Berkeley, Los Angeles, and London |isbn=978-0520085336 |ref={{Harvid|マッサー|1994}}}} |
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* {{Cite book|和書 |editor=岩本憲児編・監訳 |date=2015-4 |title=エジソンと映画の時代 |author=チャールズ・マッサー |translator=仁井田千絵、藤田純一 |publisher=森話社 |isbn=978-4864050777 |ref={{Harvid|マッサー|2015}}}} |
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* {{Cite book|和書 |author=吉田智恵男 |date=1978-8 |title=もう一つの映画史 活弁の時代 |publisher=[[時事通信社]] |isbn=978-4788778207 |ref={{Harvid|吉田|1978}}}} |
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* {{Cite book|和書 |date=1927 |title=日本映画事業総覧 昭和二年版 |url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1225228?tocOpened=1 |publisher=国際映画通信社 |ref={{Harvid|日本映画事業総覧|1927}}}} |
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== 関連文献 == |
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* Deocampo, Nick ed. ''Early cinema in Asia'', Indiana University Press, 2017. |
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* Gaudreault, André, Nicolas Dulac, and Santiago Hidalgo eds. ''A companion to early cinema,'' John Wiley & Sons, 2012. |
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* Keil, Charlie. ''Early American cinema in transition : story, style, and filmmaking, 1907-1913,'' University of Wisconsin Press, 2001. |
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* Koszarski, Richard. ''History of the American Cinema: An evening’s entertainment the age of the silent feature picture, 1915-1928'', Scribner, 1990. |
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* Popple, Simon, and Joe Kember. ''Early Cinema: From Factory Gate to Dream Factory,'' Wallflower Books, 2004. |
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* Slide, Anthony. ''Early American cinema,'' Scarecrow Press, 1994. |
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{{Commonscat|Vitascope}} |
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* {{URL|https://www.loc.gov/collections/edison-company-motion-pictures-and-sound-recordings/about-this-collection/| Inventing Entertainment: The Early Motion Pictures and Sound Recordings of the Edison Companies}} - [[アメリカ議会図書館]] |
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* {{URL|http://www.victorian-cinema.net/machines.htm|Machines}} - ''Who's Who of Victorian Cinema''内の初期の映画装置の紹介 |
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2021年5月18日 (火) 02:17時点における版
ヴァイタスコープ(英: Vitascope)は、映画史初期の映写機である。フィルムがレンズの前で1コマずつ一瞬停止する仕組みの間欠機構を使用して、映像をスクリーン上に映写する仕組みである[1][2]。使用するフィルムは長さが約15メートルで、ループ状になっているため何度も繰り返して映写できた[3]。1895年にアメリカの発明家チャールズ・フランシス・ジェンキンスとトーマス・アーマットが「ファントスコープ」の名称で開発し、1896年にその権利を手に入れたトーマス・エジソンの映画会社エジソン社が商品化した。エジソンは発明に関与していないが、商業的価値を高めるために「エジソンのヴァイタスコープ」として宣伝された。1896年4月にニューヨークで初公開され、アメリカ国内で広く普及したが、すぐにシネマトグラフなどの競合する映写機に淘汰され、1年足らずで販売を終えた。アメリカ国外のいくつかの国でも上映されており、日本でも1897年に2つの興行系統により上映された。
商品化の経緯
キネトスコープとファントスコープ
ヴァイタスコープを商品化するエジソン社は、1890年代前半にトーマス・エジソンの助手ウィリアム・K・L・ディクソンが中心となり開発した「キネトスコープ」の商品化で映画事業を始めた[4]。キネトスコープはスクリーンに映写する方式ではなく、覗き穴式による映画鑑賞装置であり、1台につき1人しか見ることができなかった[5]。エジソン社は販売代理人であるノーマン・ラフとフランク・ガモンを通じてキネトスコープを販売し、1894年4月にニューヨークでキネトスコープ・パーラーの1号店を開いて一般興行を始めた[4][6]。やがてニューヨーク以外のアメリカの都市をはじめ、ロンドンやパリにもキネトスコープ・パーラーが開店し、エジソン社は大きな利益を獲得した[7]。しかし、翌1895年3月には早くも需要が落ち込み、キネトスコープの人気は衰退していった[1]。苦境に立たされたラフとガモンは、エジソンに映写機を開発するよう求めたが、エジソンの研究所はこれを進展させることができなかった[8]。
1895年を通して、欧米では多くの発明家により映写機の開発が進められていた。例えば、ディクソンとレイサム兄弟はパントプティコン、ドイツのスクラダノフスキー兄弟はビオスコープ、フランスのリュミエール兄弟はシネマトグラフ、イギリスのロバート・W・ポールはシアトログラフを開発した[9]。ヴァイタスコープの前身であるファントスコープも、この時期に開発された映写機のひとつである。ワシントンD.C.の発明家チャールズ・フランシス・ジェンキンスは、1890年代初めから動く映像装置の研究に取り組んでいたが、1895年3月にトーマス・アーマットと提携を結び、2人で間欠機構を備えた映写機を開発し、「ファントスコープ」と名付けた[10][11]。2人は8月28日にその特許を申請し[12][注 1]、9月にはアトランタで開かれた綿の市で商業公開した[10]。しかし、ファントスコープの上映興行は失敗に終わり、ジェンキンスとアーマットは関係を解消した[1]。
エジソン社による商品化
ジェンキンスと別れたアーマットは、エジソン社販売代理人のラフとガモンに接近し、1895年12月に彼らに向けてファントスコープの試写を行った[6][13]。ラフとガモンはこれに感銘を受け、キネトスコープ事業が衰退していたエジソン社を復活させることができると確信し、ファントスコープの権利を買い取った[13]。1896年1月15日にエジソンはこれを承認し、エジソン社が映写機を製造し、必要なフィルムを供給することに同意した[1][13]。ラフとガモンはこの装置に独自の商品名を付ける必要があることを認識し、ラテン語の「vita (生命)」とギリシャ語の「scope (見るもの)」を語源とする「ヴァイタスコープ」に改名した[14]。また、この装置から十分な利益を引き出すためには、エジソンが発明に何も関わっていないにもかかわらず、大きな商業的価値を持つエジソンの名前を使う必要があることから、アーマットとエジソンの同意のもと「エジソンのヴァイタスコープ」として宣伝することにした[1][13]。ラフとガモンはアーマット宛の手紙で次のように述べている。
いかにエジソン以外の者によって発明された装置が優れていて、その成果が満足すべきもので勝っていたとしても、顧客の大部分は何よりもまず、彼らがその発売を期待しているエジソンによって発明された装置に投資したがっています。彼らはエジソンの成果を確かめるまでは、他の何ものにも満足しないに違いありません…すなわち、最小の時間で最大の利益を手に入れるには、私どもはエジソンの名前を用いらなければならないということです[15]。
アーマットはヴァイタスコープに小さな変更を加えて再パッケージ化し、ラフとガモンはその装置が「これまでに見たものよりも大幅に改善された」ことを認識した[16]。ラフとガモンがヴァイタスコープを商品化する準備を進めていた3月中旬、パリやロンドンでシネマトグラフが上映され、人気を集めているという報告がアメリカに届いた[17]。シネマトグラフはまだアメリカに上陸していないものの、すでにヴォードヴィル劇場の経営者がシネマトグラフに投資しようとしていた[17]。ヴァイタスコープにとって脅威となるシネマトグラフがアメリカに到達するのは避けられないため、ラフとガモンはそれよりも先にヴァイタスコープを売り出せば大きな利益を得ることができると認識した[18][19]。そこでヴァイタスコープを売り出す計画を早め、1896年4月3日にはウエスト・オレンジにあるエジソンの研究所に新聞記者を招いて試写を行った[3]。
公開と普及
ヴァイタスコープの最初の商業上映は、1896年4月23日にニューヨークのブロードウェイにある劇場コスター・アンド・バイアル・ミュージック・ホールで行われた[3]。ヴァイタスコープの上映は「トーマス・エジソンの最新の驚異、ヴァイタスコープ」という演目名で、曲芸や芝居などのバラエティ・ショーと並ぶプログラムに組み込まれた[22]。上映プログラムには12本の作品が記されていたが、実際に上映されたのはキネトスコープ用作品の『傘のダンス』『バンド・ドリル』『滑稽なボクシング』『アナベルのサーペンタインダンス』と、新作の『モンロー主義』、イギリスのロバート・W・ポールが撮影した『ドーヴァーの荒波』の6本だけだった[23][24]。そのうち『アナベルのサーペンタインダンス』は手彩色による着色版で上映された[25]。この上映会はアメリカで最初に高い商業的成功を収めた、映写式による有料映画上映となった[26]。
1896年5月、ラフとガモンはエジソン社の販売代理店であるヴァイタスコープ社を設立し[6]、アメリカの投資家に特定の州や地域で独占的にヴァイタスコープを公開する権利を販売した[1]。それ以後ヴァイタスコープはアメリカのさまざまな都市で上映され、ボストンでは5月18日、フィラデルフィアでは5月25日、プロビデンスでは6月4日、サンフランシスコでは6月8日、ボルチモアでは6月15日、ニューオーリンズでは6月28日、デトロイトでは7月1日、シカゴとロサンゼルスでは7月5日、ミルウォーキーとカンザスシティでは7月26日、デンバーでは8月16日に初公開された[27]。多くの場合、ヴァイタスコープはヴォードヴィル劇場で人気の出し物として上映されたり、店舗を改装した興行施設で見せられたりした[28][29]。
しかし、すぐにヴァイタスコープは競合会社との市場競争に直面した。1896年6月下旬にはシネマトグラフがアメリカに上陸し、9月までに10数台のシネマトグラフが全米の主要都市で上映された[30]。その他にも数多くの映写機が市場に出回っていたが、それらの多くはヴァイタスコープよりも安価で質が良く、地域的独占権による制限なしに購入することができた[30][31]。このような市場ではヴァイタスコープが売れることはなく、同年10月までにヴァイタスコープ社の事業は崩壊した[31]。また、上映用フィルムも地域的独占権を与えた投資家にのみ販売していたため、利益にはならなかった[6]。そこでエジソン社はラフとガモンとの関係を見直し、フィルムを誰にでも販売できるようにした[30]。1897年2月にはエジソンが独自に開発した「映写式キネトスコープ(またはプロジェクトスコープ)」を制限なしに販売し、ヴァイタスコープの販売を止めた[32][33]。
アメリカ国外
ラフとガモンはヨーロッパでヴァイタスコープを販売するため、これに興味を抱く奇術師のポール・シンクヴァリをロンドンに派遣した。シンクヴァリはヴァイタスコープのヨーロッパでの権利を2万5000ドルで売り込むことを考えていたが、すでにロンドンではリュミエール兄弟のシネマトグラフや、ロバート・W・ポールのシアトログラフなどの映写機が成功を収めていたため、買い手を見つけることができなかった[34]。それでもヨーロッパ市場の開拓に熱心なラフとガモンは、1896年4月22日に代理人のチャールズ・ウェブスターをロンドンに派遣した[35]。ウェブスターはシネマトグラフの上映を見て感銘を受け、ラフとガモンにシネマトグラフがヴァイタスコープよりも優れていることを報告した[34]。ウェブスターはヨーロッパ各地でヴァイタスコープを上映して回ったが、大きな成功を収めることはできなかった[34][35]。
カナダでは、1896年7月21日にオタワのウエスト・エンド・パークでヴァイタスコープの興行が行われた。興行者はエジソン社の代理人であるホランド兄弟で、オタワ電気鉄道の経営者が興行を後援し、鉄道料金とセットで格安の入場券が販売された。興行は野外で2週間にわたり行われ、約4万5000人の観客が訪れた。しかし、その前の6月27日にシネマトグラフがモントリオールで上映されていたため、ヴァイタスコープがカナダで最初の映画上映というわけではなかった[36]。同年8月31日にはトロントでもヴァイタスコープが上映された[37]。
ラテンアメリカでは、1896年9月27日にメキシコのグアダラハラ、同年10月26日にグアテマラのグアテマラシティ、1897年2月13日にキューバのハバナでヴァイタスコープが初公開されたが、これらの国でもヴァイタスコープよりも先にシネマトグラフが上映されている[38]。
ヴァイタスコープ映画
キネトスコープ時代のエジソン社の作品は、映画スタジオのブラック・マリアでダンスや曲芸などの見世物を撮影したものが多かったが、撮影機のキネトグラフは重くて持ち運びに不便なため、ブラック・マリアの外で撮影することはほとんどなかった[39][40]。1896年4月のヴァイタスコープの初公開の時に最も人気を集めた作品は、ロバート・W・ポールが撮影した他社作品の『ドーヴァーの荒波』だったが、それは従来のエジソン社作品にはない屋外の情景を写した作品だった[41]。そのためエジソン社は、ヴァイタスコープが成功するために新しく魅力的な作品を作ることが必須であることを認識した[41][42]。1895年5月にカメラマンのウィリアム・ハイスは、携帯可能なポータブルカメラを使用して屋外での撮影を行い、エジソン社作品をブラック・マリアの制約から解放させた[43]。ハイスは撮影部門の責任者であるジェームズ・H・ホワイトと提携して、ナイアガラの滝やコニーアイランドの光景、事前に準備された2台の列車の正面衝突などを撮影した[41]。ヴァイタスコープ用映画の多くはロケーション撮影だったが、一部作品はヴァイタスコープ社のニューヨーク事務所の屋上に建てた仮設のスタジオで撮影された[6][41]。
ヴァイタスコープ用映画で最も人気を集めた作品は『M・アーウィンとJ・C・ライスの接吻』だった[27]。これは人気舞台『未亡人ジョーンズ』の一場面であるキスシーンをクローズアップで写した作品で、1896年4月中旬にその舞台の出演俳優をブラック・マリアに招いて撮影した[41][44]。この作品は多くのヴォードヴィル劇場でショーの終わりに上映され、その人気は1897年まで続いた[41][45]。また、新聞漫画家のジェームズ・スチュアート・ブラックトンがエジソンの似顔絵を素早く描く様子を撮影した『世界的漫画家ブラックトンが描く発明家エジソン』(1896年)も人気があり、この作品が全米のヴォードヴィル劇場で上映されてから、主役のブラックトンはヴォードヴィルの人気スターになった[46]。ブラックトンはこの成功で映画業界に関心を持ち、エジソン社の競合会社となるヴァイタグラフ社の共同設立者になった[30][47]。
日本での公開
1897年2月15日に稲畑勝太郎が輸入したシネマトグラフが大阪南地演舞場で初公開され、これが日本初のスクリーンに映写する方式による映画上映とされている[48][注 2]。ヴァイタスコープはシネマトグラフに遅れる形で、同年に2つの興行系統により日本国内で上映された。1つは大阪の荒木和一が輸入したもの(荒木系ヴァイタスコープ)で、2月21日に大阪新町演舞場で初公開された。もう1つは東京の新居商会が輸入したもの(新居系ヴァイタスコープ)で、3月6日に東京神田の錦輝館で初公開された。それぞれの興行には作品や映写方法などを説明する口上役がいたとされ、それは活動弁士の先駆けと考えられている[50]。
荒木系ヴァイタスコープ
日本で最初にヴァイタスコープを輸入公開したのは、大阪心斎橋で雑貨商を営む荒木和一である[51]。荒木は1896年にアメリカに渡航し、シカゴでヴァイタスコープを見たことから、それを購入して日本に持ち込んだ[52]。日本にヴァイタスコープが到着した正確な日付は不明だが、映画史研究家の塚田嘉信は1896年12月に到着したと推定している[48][53]。荒木は大阪電灯の技師とともにヴァイタスコープの操作方法を研究し、動かすためには直流電気が必要であることが判明したが、大阪には直流電気を扱う場所がほとんどなかった。技師が方々を探し回り、ようやく難波の鉄工場に直流のダイナモがあるのを見つけ、そこで試写を行った[52]。稲畑のシネマトグラフよりも先に輸入された荒木系ヴァイタスコープは、本来ならばシネマトグラフよりも早い1月に上映する予定だったが、1月11日に英照皇太后が崩御し、服喪として1ヶ月間歌舞音曲が自粛されたため、初公開に向けて動くことができなくなった[48][54]。荒木曰く「そんなわけでグズグズしている内[52]」に、喪明け早々の2月15日にシネマトグラフが南地演舞場で初公開され、結果的に日本初の映画上映の座を奪われる形となった[48]。
荒木系ヴァイタスコープの初公開は、シネマトグラフの初公開に遅れること1週間、1897年2月22日から24日まで大阪の新町演舞場で「蓄動射影会」と称して行われた[55][56]。会場の手配を担当した上田布袋軒によると、新町演舞場は当初貸し出しに難色を示していたが、2月4日に起きた三光丸沈没事故[注 3]の遭難者遺族の義捐を名目に興行することで会場側を説得したという[55][57]。なお、上田は荒木系ヴァイタスコープ興行での口上役も任されており、その後も弁士としての活動を続けたことから、日本初の活動弁士と言われている[55]。新町演舞場での興行を終えると、3月1日から14日まで名古屋の末広座、3月15日から東京の浅草座(楽日は不明)、3月22日から26日まで大阪の道頓堀朝日座で上映した[58]。その後、荒木はヴァイタスコープを名古屋の樋口虎澄に譲渡したが、それ以後の行方は不明である[59]。
新居系ヴァイタスコープ
東京京橋の貿易商である新居商会は、荒木とは別の経路でヴァイタスコープを日本に輸入した[55]。新居商会社員の柴田忠次郎は、1893年のシカゴ万国博覧会で日本式庭園を出品するために渡米し、その後もアメリカ各地で同様の催しをしていたが、1896年に友人の勧めでヴァイタスコープの上映を見ると、それを日本に輸入して上映しようと思い立ち、直ちに装置と16本のフィルムを3500円で購入した[60][61][62]。しかし、代金が不足したため残額を日本で支払うことになり、それを取り立てる付き馬としてアメリカ人の映写技師ダニエル・クロースが日本に同行することになった[61]。1896年末に柴田とクロースは、装置とフィルムを携えて日本に到着した[55][62]。新居商会もヴァイタスコープで使う電気の確保に苦労したが、三吉電機工場の直流ダイナモと十文字商会の石油発動機を使用し、自家発電を起すことで問題を解決した[62][63]。なお、十文字商会の経営者である十文字大元は、演説が上手くて英語力も堪能だったことから、新居系ヴァイタスコープ興行での口上役を務めることになった[64][65]。
ヴァイタスコープの試写会は、1897年2月27日に歌舞伎座で行われた[64]。十文字によると、1897年1月に新居商会の会社内で試験的映写を行い、これが成功したため大々的に公開することを考えていたところ、英照皇太后の崩御で1ヶ月間歌舞音曲が禁止され、時期をうかがっていたときに、福地源一郎の紹介で歌舞伎座での上映が実現したという[65]。試写会は折柄公演中だった『積恋雪関扉』の終演後の午後7時に始まり、まず口上役である十文字が上映作品や装置の構造、映写方法などについて1時間かけて説明し、その後にヴァイタスコープで数本のフィルムを2、3回ずつ繰り返して上映した[65][66]。出席者には名士や新聞記者などがいたが、その中には舞台を終えたばかりの九代目市川團十郎、五代目尾上菊五郎、十二代目守田勘彌もおり、上映を見た勘彌は菊五郎に「これはやがて芝居を蹴るような恐ろしい強敵になるぞ」と囁いたという[66]。試写会は成功を収め、気を良くした新居商会は3月1日から歌舞伎座で一般上映を始めようとしたが、舶来物を嫌う團十郎が「どうしてもやるというなら舞台を鉋で削り直しておけ」と激怒したため中止したという[67]。
そこで新居商会は神田錦町にある貸席の錦輝館に会場を変更し、1897年3月6日から22日まで「活動大写真」の名称で一般上映を行った[67][68]。興行は毎日午後1時と午後7時の2回行われ、『メアリー女王の処刑』『ナイヤガラ瀑布』『群鳩飼養の図』『新約克火事場の景』『李鴻章ウヲルドルフ旅館を去るの図』『蝶々踊』などの作品が上映された[67][69]。口上は十文字とクロースが担当し、クロースが英語で何かを話したあと、それを通訳するような形で十文字が話すという順序で説明が行われた[70][71]。宣伝を受け持っていた広目屋の店員の駒田好洋によると、上映中は広目屋が派遣した楽隊による伴奏音楽が演奏されたという[72]。
錦輝館での興行が終了した翌日の3月23日には、同会場で職工徒弟学校演芸会の催しのひとつとして上映された[73]。3月27日から4月5日までは歌舞伎座で子供芝居の余興に上映されたが、映画史家の田中純一郎によると、この時には團十郎もヴァイタスコープの上映に文句を言わなかったという[73][74]。4月14日から30日までは浅草座で上映したが、その間の4月26日は興行を休み、赤坂離宮で皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)の上覧を受けた[75][76]。さらに5月1日に本郷中央会堂の慈善演芸会、5月4日から13日まで再び錦輝館[注 4]、5月21日から横浜の蔦座(楽日は不明)で上映した[75]。その後、新居商会はヴァイタスコープを広目屋に譲渡し、映画興行から身を引いた[74]。広目屋に興行を任された駒田好洋は、6月15日の静岡の若竹座を皮切りに全国各地を巡業したが、その際に活動弁士としても活躍し、「頗る非常」のフレーズを多用した芸風で知られた[74][77][78]。
備考
ヴァイタスコープは、1930年にワーナー・ブラザースが『Song of the Flame』などの映画で使われたワイドスクリーンプロセスの商標名として一時的に用いられた。当時ワーナーはパラマウント映画のマグナスコープ、RKOのナチュラルビジョン(後の3Dフィルムプロセスとは関係ない)、フォックス社のフォックス・グランデュールなどの他のワイドスクリーンプロセスと競争しようとしていた[79]。
脚注
注釈
出典
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関連文献
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外部リンク
- Inventing Entertainment: The Early Motion Pictures and Sound Recordings of the Edison Companies - アメリカ議会図書館
- Machines - Who's Who of Victorian Cinema内の初期の映画装置の紹介