「ケーニヒスベルク条約 (1656年)」の版間の差分
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1655年、スウェーデンの[[ポーランド=リトアニア共和国|ポーランド=リトアニア]]戦役が急速に進展したため、ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムは自領の[[プロイセン公国]]の情勢を恐れた<ref name="Press401">Press (1991), p. 401.</ref>。当時、プロイセン公国はポーランドの封土だった<ref name="Press402" />。ブランデンブルクで軍勢1万4千を保有していた<ref name="Frost171" />フリードリヒ・ヴィルヘルムは軍をプロイセンに進めて<ref name="Press401" />11月12日の[[リンスク条約]]で[[王領プロイセン|王領プルシ]]の貴族と防衛同盟を結んだ。王領プルシの貴族は{{仮リンク|プロイセン議会|en|Prussian estates|label=プルシ議会|FIXME=1}}が招集した兵士600と徴兵の3,000から4,000を維持していた<ref name="Frost171" />。王領プルシではさらに正規軍と傭兵合計3,600人が駐留していた<ref name="Frost171" />。 |
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2021年1月1日 (金) 00:01時点における版
種類 | 同盟条約 |
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署名 | 1656年1月17日 |
署名場所 | ケーニヒスベルク城(現ロシア領カリーニングラード) |
署名国 | スウェーデン帝国 ブランデンブルク=プロイセン |
締約国 | スウェーデン帝国 ホーエンツォレルン家 |
言語 | ラテン語 |
ケーニヒスベルク条約(ケーニヒスベルク条約、ドイツ語: Vertrag von Königsberg、スウェーデン語: Fördraget i Königsberg)は、北方戦争中の1656年1月7日(ユリウス暦)/1月17日(グレゴリオ暦)に締結された条約[1]。条約により、ブランデンブルク選帝侯およびプロイセン公フリードリヒ・ヴィルヘルム(「大選帝侯」)はプロイセン公国とエルムラントにおけるスウェーデンの封臣になり、スウェーデン側で参戦することを余儀なくされた[2]。同年2月24日には同じくケーニヒスベルクでフランスとの防衛同盟が締結された[3]。
背景
1655年、スウェーデンのポーランド=リトアニア戦役が急速に進展したため、ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムは自領のプロイセン公国の情勢を恐れた[4]。当時、プロイセン公国はポーランドの封土だった[2]。ブランデンブルクで軍勢1万4千を保有していた[1]フリードリヒ・ヴィルヘルムは軍をプロイセンに進めて[4]11月12日のリンスク条約で王領プルシの貴族と防衛同盟を結んだ。王領プルシの貴族はプルシ議会[要リンク修正]が招集した兵士600と徴兵の3,000から4,000を維持していた[1]。王領プルシではさらに正規軍と傭兵合計3,600人が駐留していた[1]。
一方、スウェーデン王カール10世はポーランドのほぼ全土を占領、ポーランド王ヤン2世カジミェシュを追放した[1]。10月、カール10世は占領していたクラクフから北上して[5]王領プルシを屈服させてスウェーデンの県にさせようとした[4]。12月までに王領プルシのほぼ全土がスウェーデンに占領され[4]、ダンツィヒ(ポーランド語名グダニスク、戦争中を通して抵抗した)とマリエンブルク(ポーランド語名マルボルク、1656年3月に降伏)のみがまだ抵抗していた[1]。ソーン(ポーランド語名トルン)とエルビング(ポーランド語名エルブロンク)はリンスク条約での同盟に参加せず、すでに11月にスウェーデンに降伏していた[1]。カール10世は続いて東進してプロイセン公国に進軍、ブランデンブルク=プロイセン軍は撤退した[4]。ブランデンブルク=プロイセン軍の元帥ゲオルク・フリードリヒ・フォン・ヴァルデック伯爵はフリードリヒ・ヴィルヘルムにスウェーデン軍を迎撃するよう求めたが、フリードリヒ・ヴィルヘルムは抵抗しないことを選び、1月にスウェーデンが出した条件を飲んだ[6]。
ブランデンブルク=プロイセン・スウェーデン間の条約
プロイセン・スウェーデン間の条約により、フリードリヒ・ヴィルヘルムはカール10世からプロイセン公国を封土として受け取り、兵隊を供出した[2]。またブランデンブルク選帝侯領はスウェーデンの許可なしにバルト海で海軍を維持できないとされた[2]。フリードリヒ・ヴィルヘルムはその代償としてエルムラントを受け取った[2]。
また条約の第17条ではルター派に属したカール10世がカルヴァン派に属したフリードリヒ・ヴィルヘルムにプロイセンにおけるルター派の信仰の自由を認めさせた[7]。
ブランデンブルク=プロイセン・フランス間の条約
プロイセンとフランスの間の条約では両国の防衛同盟を定めた.[3]。条約は2月24日に起草され、4月12日にパリでフランス王ルイ14世に批准され、10月24日にケーニヒスベルクでフリードリヒ・ヴィルヘルムに批准された[3]。
結果
ケーニヒスベルク条約の後、スウェーデンの戦況が悪化するとともに6月25日にマリエンブルク条約が締結され、ブランデンブルク=プロイセンはスウェーデンの同盟国に昇格した[8]。
カール10世の封臣のままだった[2]フリードリヒ・ヴィルヘルムは参戦、スウェーデンとブランデンブルクの連合軍は7月のワルシャワの戦いでポーランド軍を撃破した[9]。ケーニヒスベルク条約以前にはフリードリヒ・ヴィルヘルムはポーランド王ヤン2世カジミェシュの封臣だったが、ヤン2世はタタールがスウェーデン人を朝食のように平らげた後[注 1]、自身がフリードリヒ・ヴィルヘルムを「日も月も昇らないところ」で逮捕すると宣言した[2]。8月、ヤン2世はヴィンツェンティ・コルヴィン・ゴシェフスキにプロイセンに侵攻させ、「フリードリヒ・ヴィルヘルムの裏切りに懲罰を与えた」[10]。ゴシェフスキが10月に撃退されるまで、13町250村が放火され、この出来事は20世紀までの現地の民話で言い伝えられた[11]。
数か国に宣戦布告されたカール10世は1656年1月にフリードリヒ・ヴィルヘルムとラビアウ条約を締結、フリードリヒ・ヴィルヘルムがエルムラントを放棄して、戦争への取り組みを強化する代償としてプロイセン公国がスウェーデンの封土ではなくなった[12]。その後のヴェーラウ条約とブロンベルク条約ではフリードリヒ・ヴィルヘルムがポーランド側に鞍替えしたためヤン2世がフリードリヒ・ヴィルヘルムのプロイセンにおける主権を確認した[13]。
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d e f g Frost (2000), p. 171.
- ^ a b c d e f g Press (1991), p. 402.
- ^ a b c von Moerner (1965), p. 201.
- ^ a b c d e Press (1991), p. 401.
- ^ Frost (2000), p. 172.
- ^ Press (1991), pp. 401-402.
- ^ Evans (1997), p. 54.
- ^ Frost (2000), p. 173.
- ^ Frost (2000), pp. 173-174.
- ^ Frost (2000), p. 177.
- ^ Frost (2000), p. 178.
- ^ Press (1991), pp. 402-403.
- ^ Press (1991), p. 403.
参考文献
- Evans, Malcolm (1997) (英語). Religious liberty and international law in Europe. Cambridge studies in international and comparative law. 6. Cambridge University Press. ISBN 0-521-55021-1
- Frost, Robert I (2000) (英語). The Northern Wars. War, State and Society in Northeastern Europe 1558-1721. Harlow: Longman. ISBN 978-0-582-06429-4
- von Moerner, Theodor, ed (1965) (ドイツ語). Königlich Geheimes Staatsarchiv. Kurbrandenburgs Staatsverträge von 1601-1700. de Gruyter
- Press, Volker (1991) (ドイツ語). Kriege und Krisen. Deutschland 1600-1715. Neue deutsche Geschichte. 5. Munich: Beck. ISBN 3-406-30817-1