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* 1466年–1569年 [[ |
* 1466年–1569年 [[王領プロイセン]]の一部、ポーランド王国と[[同君連合]] |
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* 1569年–1772年 [[ポーランド・リトアニア共和国]]領 |
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* 1772年–1919年 [[プロイセン王国]]の行政区[[西プロイセン]]の一部、1871年以降はさらに[[ドイツ帝国]]の一部 |
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2021年1月1日 (金) 00:01時点における版
ポンメルン公の一覧(ポンメルンこうのいちらん)は、ポンメルンを支配したポンメルン公爵の一覧である。
スラヴ系諸部族の支配
10世紀から11世紀まで、スラヴ系諸部族がポンメルンを支配した。
名前 | 出生 | 治世 | 死去 | 支配地域 | 配偶者 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
シェモミスウ | 1000年?または1020年? | 1000年以降-1046年 | 1046年6月29日 | ポンメルン全体 | 不明 | 現在知られているポメラニア公のうち、最初の一人である。ポーランド王ミェシュコ1世の父シェモミスウとは別人。 |
シュヴィエントボル | 1046年以前 | 1060年-1106年 | 1106年 | ポンメルン全体 | アンナ | シェモミスウの子。 |
シュヴィエントペウク1世 | 1080年ごろ | 1106年-1113年 | 1148年以前 | ダンツィヒ | 不明 |
1106年、ポンメルンはシュヴィエントボルの二人の子に分割された。ヴァルティスラフ1世はポンメルン家およびポンメルン公国を創設し、シュヴィエントペウク1世はダンツィヒを支配した。1109年、ナクロの戦いでポーランド大公ボレスワフ3世曲唇公がポンメルンの諸公を撃破し、ポンメルンを支配下においた。
ポンメルン公国
シュヴィエントボルによる分割で成立し、ヴァルティスラフ1世が相続した公国が後にポメラニア公国として知られるようになった。
ポンメルン分割
第一次分割(1155年-1264年)
1155年、ポンメルンはポンメルン=シュテッティンとポンメルン=デミーンに分割された。1190年、シュラファとシュトルプがポンメルン=シュテッティンから分離した。
1231年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世はブランデンブルク辺境伯ヨハン1世とオットー3世をポンメルンの領主として認め、1236年のクレンメン条約と1250年のランディーン条約で再確認した。これらの条約に従って、ポンメルンはブランデンブルクの封土になり、間接的には神聖ローマ帝国の封土にもなった。
ポンメルン=シュテッティン公国 1155年、独立。 1190年、ポンメルン=シュテッティンとポンメルン=シュラファに再分割。 |
ポンメルン=デミーン公国 1155年、独立。 |
ポンメルン=シュテッティン公国 1238年、シュラファを併合。 |
ポンメルン=シュラファ=シュトルプ公国 1227年、シュラファはポンメルン=シュテッティンに併合、シュトルプはポメレレンに併合。 |
ポンメルン=デミーン公国 独立を維持。 |
1227年、シュラファはポンメルン=シュテッティンに併合、シュトルプはポメレレンに併合された。1238年にはシュラファもポメレレンの一部になり、Swenzo家(ドイツ語: Swenzonen)の城主に統治された。1316年、ポンメルン=ヴォルガストの一部になり、1347年には完全にブランデンブルクに支配された。
ポンメルン=シュテッティン公国 1264年、ポンメルン=デミーンと統一。 |
ポンメルン=デミーン公国 1264年、ポンメルン=シュテッティンと統一。 |
1264年、ヴァルティスラフ3世が後継者を残さずに死亡し、バルニム1世がポンメルン公国を単独統治した。バルニム1世が1278年に亡くなるとその子ボギスラフ4世、バルニム2世、オットー1世が共同統治したが、弟たちが幼少だったこともあって長子のボギスラフ4世が政治を主導した。
第二次分割(1295年-1368年)
1295年、バルニム1世の子たちが成人し、ポンメルン公国はペーネ川とイナ川に沿って分割され、川の北はボギスラフ4世を公とするポンメルン=ヴォルガスト公国、南はオットー1世を公とするポンメルン=シュテッティン公国となった。
ポンメルン=シュテッティン公国 |
ポンメルン=ヴォルガスト公国 1368年に再分割。 |
第三次分割(1368年-1376年)
1368年、ポンメルン=ヴォルガスト公国はヴォルガストを含む西部(独: Wolgast diesseits der Swine)と東部(独: Wolgast jenseits der Swine)に分割された。東部はシュトルプを含むため「ポンメルン=シュトルプ公国」とも呼ばれている。
ポンメルン=シュテッティン公国 |
ポンメルン=ヴォルガスト公国 1368年の分割で領土が縮小。 |
ポンメルン=シュトルプ公国 ポンメルン=ヴォルガスト公国の旧領の一部。 |
第四次分割(1376年-1478年)
1376年、ヴォルガストを含むポンメルン=ヴォルガスト公国の西部が西のポンメルン=バース(名前はバースから来ている)と東のポンメルン=ヴォルガスト(ヴォルガストを含むため、便宜上分割前と同じ名前となっている)に分割された。翌年、ポンメルン=シュトルプ公国が西のポンメルン=スタルガルトと東のポンメルン=シュトルプに分割された。
シュテッティン ヴォルガスト バース ヴォルガスト=シュトルプ ヴォルガスト=シュトルプ=スタルガルト
ポンメルン=シュテッティン |
ポンメルン=ヴォルガスト公国 1376年に領土がさらに縮小、第二次分割時点のポンメルン=ヴォルガスト公国の西部の東部にあたる。 |
ポンメルン=バース公国 第二次分割時点のポンメルン=ヴォルガスト公国の西部の西部にあたる。 |
ポンメルン=シュトルプ公国 1377年に領土が縮小、第二次分割時点のポンメルン=ヴォルガスト公国の東部の東部にあたる。 |
ポンメルン=スタルガルト公国 第二次分割時点のポンメルン=ヴォルガスト公国の東部の西部にあたる。 |
1459年、ポンメルン=シュトルプ公国とポンメルン=スタルガルト公国が消滅、ポンメルン=ヴォルガスト公国に併合された。
ポンメルン=シュテッティン公国 |
ポンメルン=ヴォルガスト公国 |
ポンメルン=バース公国 |
200年間の分裂を経て、1478年、ボギスラフ10世が3公国をすべて相続し、ポンメルン公国は一時的に統一された。
第五次分割(1531年-1569年)
1531年、ポンメルンは再びポンメルン=シュテッティン公国とポンメルン=ヴォルガスト公国に分割された。第二次分割でも同じ名前の公国が創設されたが、第二次分割が南北で分けたのに対し、第五次分割は東西で分割した。ポンメルン=シュテッティン公国は東にあたる。
ポンメルン=ヴォルガスト公国 |
ポンメルン=シュテッティン公国 |
第六次分割(1569年-1625年)
1569年、ポンメルン=バース公国がポンメルン=ヴォルガスト公国から、ポンメルン=リューゲンヴァルデ公国がポンメルン=シュテッティン公国から分離した。
シュテッティン ヴォルガスト ヴォルガスト=バース リューゲンヴァルデ
ポンメルン=ヴォルガスト公国 1625年、ポンメルン=シュテッティン公国と再統一。 |
ポンメルン=バース公国 1603年、ポンメルン=シュテッティン公国に併合される。 |
ポンメルン=シュテッティン公国 1625年、ポンメルン=ヴォルガスト公国と再統一。 |
ポンメルン=リューゲンヴァルデ公国 1620年、ポンメルン=シュテッティン公国に併合される。 |
最後の統一とスウェーデンへの割譲
1625年、ボギスラフ14世は全ポンメルンを統一した。しかし、彼は1637年に後継者を残さずに死去し、同年スウェーデンがフォアポンメルンを占領した。この占領は1648年のヴェストファーレン条約で正式に承認され、スウェーデン領ポンメルンが成立した。またラウエンブルク=ビュートウは1637年から1657年までポーランド領となり、東部地域にあたるヒンターポンメルンは神聖ローマ帝国が消滅する1806年までブランデンブルク選帝侯領となった。その後、スウェーデン領のフォアポンメルンもプロイセン王国に併合された。
ポンメルン公
名前 | 出生 | 治世 | 死去 | 支配地域 | 配偶者 | 備考 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|
ヴァルティスラフ1世 | 1091年ごろ | 1121年-1135年 | 1135年 | ポンメルン | 異教徒の妻24人 ハイラ・フォン・ザクセン 1128年以前 1人の子女を儲ける イーダ・ア・ダンマーク 1129年 3人の子女を儲ける |
初代ポンメルン公、ポメラニア家を創設した。異教徒だったが、12世紀の初めにキリスト教に改宗。子のボギスラフ1世とともにオットー・フォン・バンベルクのポンメルンでの宣教を支持、成功させる。 | |
ラティボル1世 | 1124年ごろ | 1135年-1156年 | 1156年 | ポンメルン | プリブィスラヴァ・ヤロスラヴナ 1136年 4人の子女を儲ける |
後にシュラファ=シュトルプを支配するラティボル系ポンメルン家の先祖。 | |
ボギスラフ1世 | 1127年 | 1156年-1184年 | 1187年3月18日 | ポンメルン=シュテッティン | ヴァルブルガ・ア・ダンマーク 3人の子女を儲ける アナスタシア・ポルスカー 1177年4月26日 2人の子女を儲ける |
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カジミール1世 | 1130年以降 | 1156年-1180年 | 1180年秋 | ポンメルン=デミーン | プリトラヴァ 子を儲けず |
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ヴァルティスラフ2世 | 1160年ごろ | 1180年-1184年 | 1184年ごろ | ポンメルン=デミーン | ソフィア・ポルスカー 子を儲けず |
||
ボギスラフ1世 | 1127年 | 1184年-1187年 | 1187年3月18日 | ポンメルン=シュテッティンとポンメルン=デミーン | ヴァルブルガ・ア・ダンマーク 3人の子女を儲ける アナスタシア・ポルスカー 1177年4月26日 2人の子女を儲ける |
||
シュヴィエントペウク | 1156年以前 | 1156年-1190年ごろ | 1190年代 | ポンメルン=シュラファ=シュトルプ | 未婚 | ||
アナスタシア・ポルスカー (摂政) | 1164年ごろ | 1187年-1208年 | 1240年ごろ | ポンメルン=シュテッティンとポンメルン=デミーン | ボギスラフ1世 1177年4月26日 2人の子女を儲ける |
ボギスラフ1世の未亡人。 | |
ボギスラフ2世 | 1177年 | 1208年-1220年 | 1220年1月23日 | ポンメルン=シュテッティン | ミロスラヴァ・フォン・ポメレレン 1210年 3人の子女を儲ける |
ボギスラフ1世の子。 | |
カジミール2世 | 1180年ごろ | 1208年-1219年 | 1219年 | ポンメルン=デミーン | インガルド・ア・ダンマーク 1210年 2人の子女を儲ける |
||
ボギスラフ3世 | 1190年以前 | 1190年ごろ-1223年 | 1223年 | ポンメルン=シュラファ=シュトルプ | ポーランド大公ミェシュコ3世の娘 1223年以前 2人の子女を儲ける |
ボギスラフ2世の子、バルニム1世の弟。1190年、シュラファを父から譲り受ける。 | |
ミロスラヴァ・フォン・ポメレレン (摂政) | 1190年 | 1220年-1226年 | 1237年 | ポンメルン=シュテッティン | ボギスラフ2世 1210年 3人の子女を儲ける |
ボギスラフ2世の未亡人。 | |
バルニム1世善良公 | 1217年/1219年ごろ | 1226年-1264年 | 1278年12月13日 | ポンメルン=シュテッティン | アンナ・マリア・フォン・ザクセン 1238年9月4日と1242年7月18日の間 3人の子女を儲ける マルガレーテ・フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルク 1252年/1253年 1人の子女を儲ける マティルデ・フォン・ブランデンブルク 1263年3月29日と1267年5月20日の間 6人の子女を儲ける |
1227年以降、ポンメルン公は再び神聖ローマ帝国の臣下になる。 | |
インガルド・ア・デンマーク (摂政) | 1190年ごろ | 1219年-1226年 | 1248年 | ポンメルン=デミーン | カジミール2世 1210年 2人の子女を儲ける |
カジミール2世の未亡人。 | |
ヴァルティスラフ3世 | 1210年ごろ | 1226年-1264年 | 1264年5月17日 | ポンメルン=デミーン | ゾフィア 1236年 3人の子女を儲ける |
1264年に死去すると、バルニム1世が単独でポンメルンを統治した。 | |
ラティボル2世 | 1223年以前 | 1223年-1238年 | 1238年 | ポンメルン=シュラファ=シュトルプ | 未婚 | ボギスラフ3世の子。ボギスラフ2世の子かポメレレン公ムシチュイ1世の子とする文献もある。 | |
バルニム1世善良公 | 1217年/1219年ごろ | 1264年-1278年 | 1278年12月13日 | ポンメルン | アンナ・マリア・フォン・ザクセン 1238年9月4日と1242年7月18日の間 3人の子女を儲ける マルガレーテ・フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルク 1252年/1253年 1人の子女を儲ける マティルデ・フォン・ブランデンブルク 1263年3月29日と1267年5月20日の間 6人の子女を儲ける |
ポンメルン公国を再統一。 | |
ボギスラフ4世 | 1255年ごろ | 1278年-1295年 | 1309年2月19日/24日 | ポンメルン | マティルデ・フォン・ブランデンブルク=シュテンダル 1275年と1278年の間 子を儲けず マルガレーテ・フォン・リューゲン 1284年8月13日 6人の子女を儲ける |
義母と異母弟たちと共同統治。 | |
マティルデ・フォン・ブランデンブルク (摂政) | 不明 | 1278年-1294年 | 1316年12月20日 | ポンメルン | バルニム1世善良公 1263年3月29日と1267年5月20日の間 6人の子女を儲ける |
バルニム1世の未亡人。義子ボギスラフ4世と実子バルニム2世とオットー1世と共同統治。 | |
バルニム2世 | 1277年ごろ | 1294年-1295年 | 1295年5月28日 | ポンメルン | 未婚 | ボギスラフ4世とオットー1世と共同統治。 | |
オットー1世 | 1279年 | 1294年-1295年 | 1344年12月31日 | ポンメルン | エリーザベト・フォン・ホルシュタイン 1296年4月 2人の子女を儲ける |
バルニム2世とボギスラフ4世と共同統治。 | |
ボギスラフ4世 | 1255年ごろ | 1295年-1309年 | 1309年2月19日/24日 | ポンメルン=ヴォルガスト | マティルデ・フォン・ブランデンブルク=シュテンダル 1275年と1278年の間 子を儲けず マルガレーテ・フォン・リューゲン 1284年8月13日 6人の子女を儲ける |
ポンメルン=ヴォルガスト公国の初代公爵。 | |
オットー1世 | 1279年 | 1295年-1344年 | 1344年12月31日 | ポンメルン=シュテッティン | エリーザベト・フォン・ホルシュタイン 1296年4月 2人の子女を儲ける |
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ヴァルティスラフ4世 | 1290年以前 | 1309年-1326年 | 1326年8月1日 | ポンメルン=ヴォルガスト | エリーザベト・フォン・リンドー=ルピン 1316年/1317年4月11日 3人の子女を儲ける |
ボギスラフ4世の子。 | |
バルニム3世大公 | 1300年ごろ | 1344年-1368年 | 1368年8月14日 | ポンメルン=シュテッティン | アグネス・フォン・ブラウンシュヴァイク=グルベンハーゲン 1330年 5人の子女を儲ける |
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エリザベート・フォン・リンドー=ルピン (摂政) | 1300年 | 1326年-1330年ごろ | 1355年2月と1356年7月2日の間 | ポンメルン=ヴォルガスト | ヴァルティスラフ4世 1316年/1317年4月11日 3人の子女を儲ける |
ヴァルティスラフ4世の未亡人。 | |
ボギスラフ5世大公 | 1318年ごろ | 1330年ごろ-1368年 | 1374年4月23日 | ポンメルン=ヴォルガスト | エリシュカ・ポルスカー 1343年2月24日/25日 3人の子女を儲ける アーデルハイト・フォン・ブラウンシュヴァイク=グルベンハーゲン 1362年/1363年 4人の子女を儲ける |
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ヴァルティスラフ5世人民の父公 | 1326年11月1日ごろ | 1330年ごろ-1368年 | 1390年 | ポンメルン=ヴォルガスト | アンナ・フォン・メクレンブルク=スタルガルト 1390年以前 子を儲けず |
ボギスラフ5世と共同統治。未婚とする史料もある。 | |
バルニム4世善良公 | 1325年 | 1330年ごろ-1365年 | 1365年8月22日 | ポンメルン=ヴォルガスト | ゾフィア・フォン・メクレンブルク=ヴェルレ 1343年 3人の子女を儲ける |
ボギスラフ5世・ヴァルティスラフ5世と共同統治。 | |
カジミール3世 | 1348年 | 1368年-1372年 | 1372年8月24日 | ポンメルン=シュテッティン | 未婚 | バルニム3世の子。 | |
ボギスラフ5世大公 | 1318年ごろ | 1368年-1374年 | 1374年4月23日 | ポンメルン=ヴォルガスト=シュトルプ | エリシュカ・ポルスカー 1343年2月24日/25日 3人の子女を儲ける アーデルハイト・フォン・ブラウンシュヴァイク=グルベンハーゲン 1362年/1363年 4人の子女を儲ける |
ヴォルガストから分離したシュトルプの初代公爵。 | |
ボギスラフ6世 | 1350年ごろ | 1365年-1393年 | 1393年3月7日 | ポンメルン=ヴォルガスト | ユディト・フォン・ザクセン=ラウエンブルク 1369年と1377年の間 子を儲けず アグネス・フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルク 1389年9月14日/19日 ツェレ 2人の子女を儲ける |
バルニム4世の子。 | |
ヴァルティスラフ6世隻眼公 | 1345年 | 1365年-1377年 | 1394年6月13日 | ポンメルン=ヴォルガスト | アンナ・フォン・メクレンブルク=スタルガルト 1363年10月1日 4人の子女を儲ける |
ボギスラフ6世と共同統治。 | |
シュヴィエントボル3世 | 1351年ごろ | 1372年-1413年 | 1413年6月21日 | ポンメルン=シュテッティン | アンナ・フォン・ニュルンベルク 1363年9月17日 4人の子女を儲ける |
バルニム3世の子。 | |
ボギスラフ7世年長公 | 1355年以前 | 1372年-1404年 | 1404年 | ポンメルン=シュテッティン | 不明 1404年以前 子を儲けず |
シュヴィエントボル3世と共同統治。 | |
カジミール4世 | 1351年 | 1374年-1377年 | 1377年1月2日 | ポンメルン=ヴォルガスト=シュトルプ | ケンナ・フォン・リタウエン 1360年 子を儲けず マルガレーテ・フォン・マゾヴィーン 1368年/1369年 子を儲けず |
死後、ポンメルン=シュトルプからポンメルン=シュトルプ=スタルガルトが分離した。 | |
ボギスラフ8世偉大公 | 1364年ごろ | 1377年-1418年 | 1418年2月11日 | ポンメルン=ヴォルガスト=シュトルプ=スタルガルト | ゾフィア・フォン・ホルシュタイン 1398年ごろ 2人の子女を儲ける |
ヴァルティスラフ7世の兄弟、シュトルプから分離したスタルガルトの初代公。 | |
バルニム5世 | 1369年 | 1377年-1402年 | 1402年/1403年 | ポンメルン=ヴォルガスト=シュトルプ=スタルガルト | ヘートヴィヒ・フォン・リタウエン 1396年9月27日 1人の子女を儲ける |
1402年まで兄のボギスラフ8世と共同統治。 | |
ヴァルティスラフ7世 | 1363年/1365年 | 1377年-1394年/1395年 | 1394年/1395年 | ポンメルン=ヴォルガスト=シュトルプ | マリア・フォン・メクレンブルク=シュヴェリーン 1380年3月23日 1人の子女を儲ける |
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ヴァルティスラフ6世隻眼公 | 1345年 | 1377年-1393年 | 1394年6月13日 | ポンメルン=ヴォルガスト=バース | アンナ・フォン・メクレンブルク=スタルガルト 1363年10月1日 4人の子女を儲ける |
1377年、ヴォルガストから分離したバースの初代公爵になる。 | |
ボギスラフ8世偉大公 | 1364年ごろ | 1394年/1395年-1418年 | 1418年2月11日 | ポンメルン=ヴォルガスト=シュトルプ | ゾフィア・フォン・ホルシュタイン 1398年ごろ 2人の子女を儲ける |
ヴァルティスラフ7世の兄弟。 | |
バルニム5世 | 1369年 | 1395年-1403年 | 1402年/1403年 | ポンメルン=ヴォルガスト=シュトルプ | ヘートヴィヒ・フォン・リタウエン 1396年9月27日 1人の子女を儲ける |
1402年まで兄のボギスラフ8世と共同統治。 | |
ヴァルティスラフ6世隻眼公 | 1345年 | 1393年-1394年 | 1394年6月13日 | ポンメルン=ヴォルガスト | アンナ・フォン・メクレンブルク=スタルガルト 1363年10月1日 4人の子女を儲ける |
1393年に弟のボギスラフ6世が亡くなり、ポンメルン=ヴォルガストを再統一。 | |
オットー2世 | 1380年ごろ | 1413年-1428年 | 1428年3月27日 | ポンメルン=シュテッティン | アグネス・フォン・メクレンブルク=スタルガルト 1411年ごろ 子を儲けず |
シュヴィエントボル3世の子。 | |
カジミール5世 | 1380年以前 | 1413年-1435年 | 1435年4月13日 | ポンメルン=シュテッティン | カタリーナ・フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルク 1420年ごろまたはそれ以前 3人の子女を儲ける エリーザベト・フォン・ブラウンシュヴァイク=グルベンハーゲン 1439年ごろまたはそれ以前 1人の子女を儲ける |
弟オットー2世と共同統治。 | |
バルニム6世 | 1365年ごろ | 1393年-1405年 | 1405年9月22日 | ポンメルン=ヴォルガスト | フェローニカ・フォン・ホーエンツォレルン 1395年ごろまたはそれ以前 3人の子女を儲ける |
ヴァルティスラフ6世の子。 | |
ヴァルティスラフ8世 | 1373年 | 1393年-1415年 | 1415年8月20日/23日 | ポンメルン=ヴォルガスト | アグネス・フォン・ザクセン=ラウエンブルク 1398年ごろまたはそれ以前 4人の子女を儲ける |
兄のバルニム6世と共同統治。 | |
ボギスラフ9世 | 1407年/1410年 | 1418年-1446年 | 1446年12月7日 | ポンメルン=ヴォルガスト=シュトルプ(シュトルプとスタルガルト) | マリア・フォン・マゾヴィーン 1432年6月24日 ポーゼン 2人の子女を儲ける |
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アグネス・フォン・ザクセン=ラウエンブルク | 1373年以降 | 1415年-1417年/1425年 | 1435年 | ポンメルン=ヴォルガスト | ヴァルティスラフ8世 1398年ごろまたはそれ以前 4人の子女を儲ける |
バルニム8世、シュヴィエントボル4世、ヴァルティスラフ9世、バルニム7世の摂政。 | |
ヴァルティスラフ9世 | 1400年ごろ | 1417年/1425年-1457年 | 1457年4月17日 | ポンメルン=ヴォルガスト | ゾフィア・フォン・ザクセン=ラウエンブルク 1420年 4人の子女を儲ける |
バルニム6世の子。 | |
バルニム7世年長公 | 1390年 | 1417年/1425年-1450年 | 1450年9月22日 | ポンメルン=ヴォルガスト | 未婚 | 弟ヴァルティスラフ9世と共同統治。 | |
バルニム8世若公 | 1405年と1407年の間 | 1425年-1451年 | 1451年12月15日と19日の間 | ポンメルン=ヴォルガスト=バース | アンナ・フォン・ヴンストルフ 1434年ごろまたはそれ以前 1人の子女を儲ける |
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シュヴィエントボル4世平静公 | 1408年ごろ | 1425年-1432年 | 1432年 | ポンメルン=ヴォルガスト=バース | 未婚 | ||
ポンメルン=シュテッティンの摂政会議:1435年-1443年 | |||||||
ヨアヒム1世若公 | 1424年 | 1435年-1451年 | 1451年10月4日 | ポンメルン=シュテッティン | エリーザベト・フォン・ブランデンブルク 1440年9月29日 1人の子女を儲ける |
カジミール5世の子。 | |
マリア・フォン・マゾヴィーン (摂政) | 1408年/1415年 | 1446年-1449年 | 1454年2月14日 | ポンメルン=ヴォルガスト=シュトルプ(シュトルプとスタルガルト) | ボギスラフ9世 1432年6月24日 ポーゼン 2人の子女を儲ける |
エリク1世の摂政。 | |
エリク1世 | 1381年/1382年 | 1449年-1459年 | 1459年5月3日 | ポンメルン=ヴォルガスト=シュトルプ(シュトルプとスタルガルト) | フィリッパ・オブ・イングランド 1406年10月26日 ルンド 1人の子女を儲ける |
ヴァルティスラフ7世の子。カルマル同盟のノルウェー国王、デンマーク国王、およびスウェーデン国王。 | |
エリク2世 | 1418年と1425年の間 | 1457年-1474年 | 1474年7月5日 | ポンメルン=ヴォルガスト | アンナ・ゾフィア・フォン・ポンメルン=シュトルプ 1451年 12人の子女を儲ける |
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オットー3世 | 1444年5月29日 | 1460年-1464年 | 1464年9月7日 | ポンメルン=シュテッティン | 未婚 | ||
ヴァルティスラフ10世 | 1435年 | 1457年-1478年 | 1478年12月17日 | ポンメルン=ヴォルガスト=バース | エリーザベト・フォン・ブランデンブルク 1454年3月5日 2人の子女を儲ける マグダレーナ・フォン・メクレンブルク=スタルガルト 1472年 子を儲けず |
ヴァルティスラフ9世の子。 | |
エリク2世 | 1418年と1425年の間 | 1464年-1474年 | 1454年7月5日 | ポンメルン=シュテッティン | アンナ・ゾフィア・フォン・ポンメルン=シュトルプ 1451年 12人の子女を儲ける |
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ボギスラフ10世大公 | 1454年6月3日 | 1474年-1478年 | 1523年10月5日 | ポンメルン=ヴォルガストとポンメルン=シュテッティン | マルガレーテ・フォン・ブランデンブルク 1477年9月20日 プレンツラウ 子を儲けず アンナ・ヤギェロンカ 1491年2月2日 シュテッティン 8人の子女を儲ける |
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ボギスラフ10世大公 | 1454年6月3日 | 1478年-1523年 | 1523年10月5日 | ポンメルン | マルガレーテ・フォン・ブランデンブルク 1477年9月20日 プレンツラウ 子を儲けず アンナ・ヤギェロンカ 1491年2月2日 シュテッティン 8人の子女を儲ける |
1478年、公国を再統一する。 | |
ゲオルク1世 | 1493年4月11日 | 1523年-1531年 | 1531年5月10日 | ポンメルン | アマーリエ・フォン・バイエルン 1513年5月22日 シュテッティン 3人の子女を儲ける マルガレーテ・フォン・ブランデンブルク 1530年1月23日 ベルリン 1人の子女を儲ける |
ボギスラフ10世の子。 | |
ボギスラフ11世 (統治せず) |
1514年 | 1514年 | 1514年 | ポンメルン | 未婚 | ゲオルク1世の子。夭折したため統治しなかったが、11世として数えられる。公国を統治した11人目のボギスラフはボギスラフ13世である。 | |
バルニム9世敬虔公 | 1501年12月2日 | 1523年-1531年 | 1573年11月2日 | ポンメルン | アンナ・フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルク 1525年2月2日 シュテッティン 7人の子女を儲ける |
兄のゲオルク1世と共同統治。 | |
バルニム9世敬虔公 | 1501年12月2日 | 1531年-1569年 | 1573年11月2日 | ポンメルン=シュテッティン | アンナ・フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルク 1525年2月2日 シュテッティン 7人の子女を儲ける |
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ボギスラフ12世 (統治せず) |
1542年8月27日ごろ | 1542年 | 1542年9月15日以前 | ポンメルン=シュテッティン | 未婚 | バルニム9世の子。夭折したため統治しなかったが、12世として数えられる。ボギスラフ10世以降、実際に公国を統治したボギスラフは13世と14世のみである。 | |
フィリップ1世敬虔公 | 1515年7月14日 | 1531年-1560年 | 1560年2月14日 | ポンメルン=ヴォルガスト | マリア・フォン・ザクセン 1536年2月27日 トルガウ 10人の子女を儲ける |
ゲオルク1世の子。 | |
エルンスト・ルートヴィヒ平等公 | 1545年11月20日 | 1560年-1592年 | 1592年6月17日 | ポンメルン=ヴォルガスト | ゾフィア・ヘートヴィヒ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル 1577年10月20日 ヴォルガスト 3人の子女を儲ける |
フィリップ1世の子。 | |
ヨハン・フリードリヒ強健公 | 1542年8月27日 | 1560年-1569年 | 1600年2月9日 | ポンメルン=ヴォルガスト | エレオノーレ・フォン・ザクセン=アイゼナハ 1577年2月17日 シュテッティン 子を儲けず |
弟のエルンスト・ルートヴィヒと共同統治。 | |
ボギスラフ13世 (統治した公爵のみ数える場合はボギスラフ11世) |
1544年8月9日 | 1560年-1569年 | 1606年3月7日 | ポンメルン=ヴォルガスト | クララ・フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルク 1572年9月8日 11人の子女を儲ける アンナ・フォン・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク 1601年5月31日 子を儲けず |
兄弟のエルンスト・ルートヴィヒとヨハン・フリードリヒと共同統治。 | |
バルニム10世若公 | 1549年2月15日 | 1560年-1569年 | 1603年9月1日 | ポンメルン=ヴォルガスト | アンナ・マリア・フォン・ブランデンブルク 1581年1月8日 ベルリン 子を儲けず |
兄のエルンスト・ルートヴィヒ、ヨハン・フリードリヒ、ボギスラフ13世と共同統治。 | |
ヨハン・フリードリヒ強健公 | 1542年8月27日 | 1569年-1600年 | 1600年2月9日 | ポンメルン=シュテッティン | エレオノーレ・フォン・ザクセン=アイゼナハ 1577年2月17日 シュテッティン 子を儲けず |
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バルニム10世若公 | 1549年2月15日 | 1600年-1603年 | 1603年9月1日 | ポンメルン=シュテッティン | アンナ・マリア・フォン・ブランデンブルク 1581年1月8日 ベルリン 子を儲けず |
1600年、シュテッティンを継承。 | |
ボギスラフ13世 (統治した公爵のみ数える場合はボギスラフ11世) |
1544年8月9日 | 1569年-1603年 | 1606年3月7日 | ポンメルン=ヴォルガスト=バース | クララ・フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルク 1572年9月8日 11人の子女を儲ける アンナ・フォン・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク 1601年5月31日 子を儲けず |
1569年、ポンメルン=ヴォルガスト=バースとフランツブルクを獲得。フィリップ・ユリウスの家庭教師。1603年、ポンメルン=シュテッティンを継承。 | |
フィリップ・ユリウス | 1584年12月27日 | 1592年-1603年 | 1625年2月6日 | ポンメルン=ヴォルガスト | アグネス・フォン・ブランデンブルク 1604年6月25日 ベルリン 子を儲けず |
エルンスト・ルートヴィヒの子。 | |
ボギスラフ13世 (統治した公爵のみ数える場合はボギスラフ11世) |
1544年8月9日 | 1603年-1606年 | 1606年3月7日 | ポンメルン=シュテッティン | クララ・フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルク 1572年9月8日 11人の子女を儲ける アンナ・フォン・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク 1601年5月31日 子を儲けず |
1603年、ポンメルン=シュテッティンを継承し、子のフィリップ・ユリウスにバースとフランツブルクを譲る。 | |
フィリップ・ユリウス | 1584年12月27日 | 1603年-1625年 | 1625年2月6日 | ポンメルン=ヴォルガスト (バースとヴォルガスト) | アグネス・フォン・ブランデンブルク 1604年6月25日 ベルリン 子を儲けず |
エルンスト・ルートヴィヒの子。 | |
バルニム10世若公 | 1549年2月15日 | 1569年-1603年 | 1603年9月1日 | ポンメルン=シュテッティン=リューゲンヴァルデ | アンナ・マリア・フォン・ブランデンブルク 1581年1月8日 ベルリン 子を儲けず |
1569年、ポンメルン=シュテッティンから分割されたリューゲンヴァルデを獲得。 | |
フィリップ2世敬虔公 | 1573年7月29日 | 1606年-1618年 | 1618年2月3日 | ポンメルン=シュテッティン | ゾフィー・フォン・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク 1607年3月10日 トレプトー・アン・デル・レーガ 子を儲けず |
ボギスラフ13世の子。 | |
ゲオルク2世 | 1582年1月30日 | 1603年-1617年 | 1617年3月27日 | ポンメルン=シュテッティン=リューゲンヴァルデ | 未婚 | フィリップ2世、フランツ、ボギスラフ14世の兄弟。ボギスラフ14世と共同統治。 | |
ボギスラフ14世社交公 (統治した公爵のみ数える場合はボギスラフ12世) |
1580年3月31日 | 1603年-1625年 | 1637年3月10日 | ポンメルン=シュテッティン=リューゲンヴァルデ | エリーザベト・フォン・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク 1615年 子を儲けず |
ボギスラフ13世の子。1606年から1617年まで、リューゲンヴァルデを弟ゲオルク2世と共有している。 | |
フランツ | 1577年3月24日 | 1618年-1620年 | 1620年11月27日 | ポンメルン=シュテッティン | ゾフィー・フォン・ザクセン 1610年8月26日 ドレスデン 子を儲けず |
フィリップ2世の弟。 | |
ボギスラフ14世社交公 (統治した公爵のみ数える場合はボギスラフ12世) |
1580年3月31日 | 1620年-1625年 | 1637年3月10日 | ポンメルン=シュテッティン (シュテッティンとリューゲンヴァルデ) | エリーザベト・フォン・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク 1615年 子を儲けず |
1620年、フランツがなくなると、ボギスラフ14世はポンメルン=シュテッティンを継承した。 | |
ボギスラフ14世社交公 (統治した公爵のみ数える場合はボギスラフ12世) |
1580年3月31日 | 1625年-1637年 | 1637年3月10日 | ポンメルン | エリーザベト・フォン・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク 1615年 子を儲けず |
1625年、フィリップ・ユリウスが亡くなり、ボギスラフ14世はポンメルン公国を再統一した。 |
リューゲン公国
1168年–1325年、デンマークの臣下の支配
- 1162年–1170年 テツワフ
- 1170年–1217年 ヤロマル1世
- 1218年–1249年 ヴィスラフ1世
- 1249年–1260年 ヤロマル2世
- 1260年–1302年 ヴィスラフ2世
- 1303年–1325年 ヴィスラフ3世
1325年-1478年、ポンメルン=ヴォルガスト公国とポンメルン=バース公国の支配下:
- 1325年–1326年 ヴァルティスラフ4世
- 1326年–1368年 ボギスラフ5世、ヴァルティスラフ5世、バルニム4世
- 1368年–1372年 ヴァルティスラフ6世、ボギスラフ6世
- 1372年–1394年 ヴァルティスラフ7世
- 1394年–1415年 ヴァルティスラフ8世
- 1415年–1432年/1436年 スヴァンティボル2世
- 1432年/1436年–1451年 バルニム8世
- 1451年–1457年 ヴァルティスラフ9世
- 1457年–1478年 ヴァルティスラフ10世
1474年以降、ポンメルン=ヴォルガスト公国領になる。
ポメレレン公国
1155年、シュヴィエントペウク1世の領地がソビエスラフ1世の下で独立し、サンボル家とポメレレン公国を創設した。
ポメレレン公国の分割
1215年、公国は四分割された。
ポメレレン=ダンツィヒ公国 1215年に成立。 |
ポメレレン=ベルガルト公国 1215年に成立。 |
ポメレレン=リーブシャウ公国 1215年に成立。 |
ポメレレン=シュヴェッツ公国 1215年に成立。 |
1271年、ポメレレン公国は再統一され、1296年にポーランド王国領となった。
ポメレレン公
スラヴ系諸部族の支配
名前 | 出生 | 治世 | 死去 | 支配地域 | 配偶者 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
シュヴィエントペウク1世 | 1080年ごろ | 1106年-1113年 | 1148年以前 | ダンツィヒ | 不明 | ポメレレン公ではなかったが、ポメレレンにあたる土地を支配した。 |
ソビェスワフ家(1155年-1296年)
名前 | 出生 | 治世 | 死去 | 支配地域 | 配偶者 | 備考 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|
ソビェスワフ1世 | 1130年ごろ | 1155年-1178年 | 1178年 | ポメレレン | 不明 1150年以前 2人の子女を儲ける |
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サンボル1世 | 1150年ごろ | 1178年-1205年 | 1205年2月7日または12月30日 | ポメレレン | 不明 1205年以前 2人の子女を儲ける |
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ムシチュイ1世 | 1160年ごろ | 1205年-1220年 | 1220年7月1日/2日 | ポメレレン | ズヴィニスワヴァ・ポルスカー 1190年ごろ 4男5女を儲ける |
サンボル1世の弟。 | |
シフィエントペウク2世 | 1190年ごろ | 1220年-1266年 | 1266年1月11日 | ポメレレン=ダンツィヒ | サロメア・ハーリチャ 1220年以前 1人の子を儲ける エウフロジナ・ポルスカー 1220年ごろ 2人の子女を儲ける エルメネガルダ・フォン・メクレンブルク=シュヴェリーン 1230年ごろ 2人の子女を儲ける |
ムシチュイ1世の子。ダンツィヒを支配し、1227年以降Dux(公)を称した。 | |
ヴァルティスラフ1世 | 1195年ごろ | 1220年-1233年 | 1233年1月11日 | ポメレレン=ベルガルト=リーブシャウ=シュヴェッツ | 未婚 | ムシチュイ1世の子。シフィエチェを支配し、1227年以降Dux(公)を称した。死後、領地は弟たちに分割された。 | |
ラティボル1世 | 1212年ごろ | 1233年-1262年 | 1272年6月6日 | ポメレレン=ベルガルト | 未婚 | ムシチュイ1世の子。1262年にドイツ騎士団に加入したため、ポメレレン=ベルガルトはポメレレン=ダンツィヒに併合された。 | |
サンボル2世 | 1212年ごろ | 1233年-1270年 | 1277年12月30日 | ポメレレン=リーブシャウ | マティルダ・フォン・メクレンブルク=シュヴェリーン 6人の子女を儲ける |
ムシチュイ1世の子。初めはリーブシャウ=ディルシャウ付近に居を構え、ドイツの東方植民でディルシャウが建設されるとそこに移住した。 | |
ムシチュイ2世 | 1220年 | 1266年-1270年 | 1294年12月29日 | ポメレレン=シュヴェッツ | ユディス・フォン・ヴェッティン 1275年以前 2人の子女を儲ける エウフロジナ・オポルスカ 1275年結婚、1288年離婚 子を儲けず スリスワヴァ 1288年以降 子を儲けず |
シフィエントペウク2世の子。1270年、ポメレレン公国を再統一する。 | |
ヴァルティスラフ2世 | 1237年 | 1266年-1270年 | 1271年5月9日 | ポメレレン=ダンツィヒ | 未婚 | シフィエントペウク2世の子。後継者を残さず死去し、ダンツィヒはポメレレン公国に統合された。 | |
ムシチュイ2世 | 1220年 | 1270年-1294年 | 1294年12月29日 | ポメレレン | ユディス・フォン・ヴェッティン 1275年以前 2人の子女を儲ける エウフロジナ・オポルスカ 1275年結婚、1288年離婚 子を儲けず スリスワヴァ 1288年以降 子を儲けず |
1270年、ポメレレン公国を再統一する。1294年、ポメレレン公国はポーランド王国に併合された。 |
ポメレレンのその後
- 1296年–1299年 クヤヴィの一部
- 1299年–1308年 ポーランド領
- 1308年–1466年 ドイツ騎士団国領
- 1454年–1466年 十三年戦争の係争地
- 1466年–1569年 王領プロイセンの一部、ポーランド王国と同君連合
- 1569年–1772年 ポーランド・リトアニア共和国領
- 1772年–1919年 プロイセン王国の行政区西プロイセンの一部、1871年以降はさらにドイツ帝国の一部
- 1772年–1793年 第1次ポーランド分割ではダンツィヒなどいくつかの都市はポーランド領のままだったが、その後の第2次ポーランド分割でプロイセンに編入された
- 1807年–1814年 フランスの衛星国の自由都市ダンツィヒ。フランソワ・ジョゼフ・ルフェーヴルがダンツィヒ公爵の称号を1808年から1820年まで保持し、その後は西プロイセンに返還
- 1829年–1878年 プロイセン州
- 1920年–1939年 ポーランド第二共和国の一部、ただし、ダンツィヒは自由都市ダンツィヒとして国際連盟の保護下
- 1939年–1945年 ナチス・ドイツのダンツィヒ=西プロイセン帝国大管区
- 1945年– ポーランド領
脚注
参考文献
- Gerard Labuda (ed.), "Historia Pomorza", vol. 1–4, Poznan-Torun 1969–2003
- Edmund Kopicki, "Tabele dynastyczne", "Wykazy panujacych", in: "Katalog podstawowych monet i banknotow Polski oraz ziem z historycznie z Polska zwiazanych", vol. IX, part I
- Zugmunt Boras, "Ksiazeta Pomorza Zachdniego", Poznań 1969, 1978, 1996
- Casimir Kozlowski, George Podralski, "Poczet Ksiazat Pomorza Zachdniego", KAW, Szczecin 1985
- L. Badkowski, W.Samp. "Poczet ksiazat Pomorza Gdanskiego", Gdańsk 1974
- B. Sliwinski, "Poczet ksiazaat gdanskich", Gdańsk 1997
- Wojciech Myslenicki, "Pomorscy sprzymierzenscy Jagiellonczylow", Wyd. Poznanskie, Poznań 1979
- J. Spors, "Podzially administracyjne Pomorza Gdanskiego i Slawiensko-Slupksiego od XII do poczatkow XIV w", Słupsk 1983
- K. Slaski, "Podzially terytorialne Pomorza w XII–XII w.", Poznań 1960
- Edward Rymar, Krewni i powinowaci ksiazat pomorskich w zrodłach sredniowiecznych (XII–początek XVI w.), Materially Zachodniopomorskie, vol. XXXI