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1231年、ドイツ騎士団が城を建設。現在は城壁の跡が残っているだけである。1291年、[[都市法]]({{仮リンク|クルム法|de|Kulmer Recht}})が認められた。その後数年をかけて市壁が建設された。グルジョンツは14世紀まで穀物流通の拠点として繁栄し、最初の黄金期を迎える。
1231年、ドイツ騎士団が城を建設。現在は城壁の跡が残っているだけである。1291年、[[都市法]]({{仮リンク|クルム法|de|Kulmer Recht}})が認められた。その後数年をかけて市壁が建設された。グルジョンツは14世紀まで穀物流通の拠点として繁栄し、最初の黄金期を迎える。


[[プロイセン同盟]]に参加したクルマーラントは、[[第二次トルンの和約]]によって[[ポーランド王領プロシア]]に編入された。クルマーラントは地理的な優位性から、ポーランド王領プロシアの政治を主導していく。1522年、グルジョンツで、[[ニコラウス・コペルニクス|コペルニクス]]の貨幣制度に関する講演が行われた。16世紀には手工業と交易の一大拠点として栄えたグルジョンツだが、17世紀には[[北方戦争]]の戦火に見舞われることになる。1655年に[[スウェーデン]]が占領。1659年にポーランドが奪還したが、街は完全に破壊されてしまった。戦争や内部闘争は続いたが、街並みは[[バロック様式]]で再建された(グルジョンツ・バロック)。
[[プロイセン同盟]]に参加したクルマーラントは、[[第二次トルンの和約]]によって[[王領プロイセン]]に編入された。クルマーラントは地理的な優位性から、ポーランド王領プロシアの政治を主導していく。1522年、グルジョンツで、[[ニコラウス・コペルニクス|コペルニクス]]の貨幣制度に関する講演が行われた。16世紀には手工業と交易の一大拠点として栄えたグルジョンツだが、17世紀には[[北方戦争]]の戦火に見舞われることになる。1655年に[[スウェーデン]]が占領。1659年にポーランドが奪還したが、街は完全に破壊されてしまった。戦争や内部闘争は続いたが、街並みは[[バロック様式]]で再建された(グルジョンツ・バロック)。


1772年、[[ポーランド分割#第1次分割|第1次ポーランド分割]]で、グルジョンツを含む地域は[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]の[[プロイセン王国]]に支配下に入る。フリードリヒ2世はここに巨大な要塞を建設した。[[西プロイセン]]州の一部となり、{{仮リンク|マリーエンヴェルダー県|de|Regierungsbezirk Marienwerder}}の県都となった。19世紀、まず、[[トルン]]とマリーエンブルク([[マルボルク]])を結ぶ鉄道が建設される。さらに、[[ヴィスワ川]]に鉄道橋が架けられてコーニッツ({{仮リンク|ホイニツェ|de|Chojnice}})からプロイシッシュ・アイラウ([[バグラティオノフスク]])までの路線が完成すると、グルジョンツは製鉄、機械、自動車、繊維といった工業で急速に発展した。1880年から1905年の間に人口は17,321人から35,958人に倍増している。1900年には[[独立市#ドイツにおける独立市|独立市]]となった。
1772年、[[ポーランド分割#第1次分割|第1次ポーランド分割]]で、グルジョンツを含む地域は[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]の[[プロイセン王国]]に支配下に入る。フリードリヒ2世はここに巨大な要塞を建設した。[[西プロイセン]]州の一部となり、{{仮リンク|マリーエンヴェルダー県|de|Regierungsbezirk Marienwerder}}の県都となった。19世紀、まず、[[トルン]]とマリーエンブルク([[マルボルク]])を結ぶ鉄道が建設される。さらに、[[ヴィスワ川]]に鉄道橋が架けられてコーニッツ({{仮リンク|ホイニツェ|de|Chojnice}})からプロイシッシュ・アイラウ([[バグラティオノフスク]])までの路線が完成すると、グルジョンツは製鉄、機械、自動車、繊維といった工業で急速に発展した。1880年から1905年の間に人口は17,321人から35,958人に倍増している。1900年には[[独立市#ドイツにおける独立市|独立市]]となった。

2021年1月1日 (金) 00:00時点における版

グルジョンツ
Grudziądz
市場広場
市場広場
グルジョンツの市旗 グルジョンツの市章
市旗 市章
位置
グルジョンツの位置の位置図
グルジョンツの位置
座標 : 北緯53度29分 東経18度46分 / 北緯53.483度 東経18.767度 / 53.483; 18.767
歴史
都市法 1291年6月18日
行政
ポーランドの旗 ポーランド
 県 クヤヴィ=ポモージェ県
 市 グルジョンツ
市長 Maciej Glamowski
地理
面積  
  市域 57,76 km2 (22.3 mi2)
標高 50 m (164 ft)
人口
人口 (2010年6月30日現在)
  市域 98,987[1]
その他
等時帯 中央ヨーロッパ時間 (UTC+1)
夏時間 中央ヨーロッパ夏時間 (UTC+2)
郵便番号 86-300 ~ 86-311
市外局番 +48 56
ナンバープレート CG
公式ウェブサイト : www.grudziadz.pl

グルジョンツポーランド語: Grudziądz)はポーランドクヤヴィ=ポモージェ県の都市。ドイツ語名はグラウデンツドイツ語: Graudenz)。ワルシャワから北西へ200km、グダニスクから南へ100kmの位置で、ヴィスワ川のほとりにある。

歴史

定住の痕跡は10世紀まで遡ることができる。「Grudenc」という名前が1222年の文献に残っている。グルジョンツを含むクルマーラントドイツ語版は、1225/1226年、マゾフシェ公コンラトによって、ドイツ騎士団プルーセンを攻撃する見返りに譲渡された。1230年には(クルシュヴィッツ条約)が締結されたとされる。

1231年、ドイツ騎士団が城を建設。現在は城壁の跡が残っているだけである。1291年、都市法クルム法ドイツ語版)が認められた。その後数年をかけて市壁が建設された。グルジョンツは14世紀まで穀物流通の拠点として繁栄し、最初の黄金期を迎える。

プロイセン同盟に参加したクルマーラントは、第二次トルンの和約によって王領プロイセンに編入された。クルマーラントは地理的な優位性から、ポーランド王領プロシアの政治を主導していく。1522年、グルジョンツで、コペルニクスの貨幣制度に関する講演が行われた。16世紀には手工業と交易の一大拠点として栄えたグルジョンツだが、17世紀には北方戦争の戦火に見舞われることになる。1655年にスウェーデンが占領。1659年にポーランドが奪還したが、街は完全に破壊されてしまった。戦争や内部闘争は続いたが、街並みはバロック様式で再建された(グルジョンツ・バロック)。

1772年、第1次ポーランド分割で、グルジョンツを含む地域はフリードリヒ2世プロイセン王国に支配下に入る。フリードリヒ2世はここに巨大な要塞を建設した。西プロイセン州の一部となり、マリーエンヴェルダー県ドイツ語版の県都となった。19世紀、まず、トルンとマリーエンブルク(マルボルク)を結ぶ鉄道が建設される。さらに、ヴィスワ川に鉄道橋が架けられてコーニッツ(ホイニツェドイツ語版)からプロイシッシュ・アイラウ(バグラティオノフスク)までの路線が完成すると、グルジョンツは製鉄、機械、自動車、繊維といった工業で急速に発展した。1880年から1905年の間に人口は17,321人から35,958人に倍増している。1900年には独立市となった。

1920年、第一次世界大戦ヴェルサイユ条約)の結果、いわゆるポーランド回廊の一部としてポーランドに割譲され、ポモージェ県に編入された。人口約40,300人(1910年時点)のうち多数派はドイツ系住民であったとされるが、このとき住民投票などは行われなかった。グルジョンツは文化と教育の拠点となる。ポーランドで最も大きい軍事基地のひとつが置かれた。この基地は騎兵の訓練所として知られた。

ナチス・ドイツポーランド侵攻を開始すると、1939年9月3日、ドイツ国防軍に占領され、その後、ダンツィヒ=西プロイセン帝国大管区に編入された。1945年2月9日、赤軍に包囲され、激しい戦闘のすえ、3月6日に降服。この戦闘で市街の約60%が破壊されたという。グルジョンツは再びポーランドの一部(回復領)となり、ドイツ系住民は脱出するか、そうでなくても追放された(ドイツ人追放)。

グルジョンツ出身の人物

姉妹都市

脚注