「ポーランド回廊」の版間の差分
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ポーランド回廊に当たる地域、[[プロイセン]]地方は何百年もの間、[[神聖ローマ帝国]]領であった。[[ポモージェ|ポンメルン]]および[[ブランデンブルク州|ブランデンブルク]]の東プロイセンと、西側の西プロイセン(ポメラニア東部の[[ポメレリア]]地方と呼ばれる地域)は、[[1466年]]から[[1772年]]までは[[ |
ポーランド回廊に当たる地域、[[プロイセン]]地方は何百年もの間、[[神聖ローマ帝国]]領であった。[[ポモージェ|ポンメルン]]および[[ブランデンブルク州|ブランデンブルク]]の東プロイセンと、西側の西プロイセン(ポメラニア東部の[[ポメレリア]]地方と呼ばれる地域)は、[[1466年]]から[[1772年]]までは[[王領プロイセン]]になった。[[十字軍]]と[[東方植民]]以来、スラブ系であるポーランド人が定住する前からドイツの影響は何世紀にもわたってこの地に及んでいた。ポンメルンからバルト地方にかけて住むドイツ系住民は、[[バルト・ドイツ人]](あるいはドイツ騎士団である[[チュートン人]])と呼ばれ、また[[プロイセン]]には元々バルト民族の[[プロイセン人]]が住んでいた。 |
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[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]は、かつて[[ウィーン会議]]で決定された([[ロシア帝国]]支配下の)[[ポーランド立憲王国]]の領域を、復興ポーランド領土の範囲を決める叩き台とした。しかしこの状態のポーランドは、北東側は[[バルト三国]]、北側は[[プロイセン王国]]の[[東プロイセン]]と[[西プロイセン]]によって[[バルト海]]への出口が塞がれていた。このため[[アメリカ合衆国大統領]][[ウッドロウ・ウィルソン]]が[[十四か条の平和原則]]でポーランドに海への出口を与えると声明し、それを受けて西プロイセンにポーランドの[[バルト海]]への出口として設定されたのがポーランド回廊である。ドイツは回廊の成立を[[ヴェルサイユ条約]]によって受け入れることとなった。[[ヴィスワ川]]の河口に近い港湾都市[[ダンツィヒ]](後のグダニスク)はドイツ人が大多数を占める街だったが、ポーランドも海運・水運をダンツィヒに依存しているため双方が譲らず、結局ポーランド領でもドイツ領でもない国際連盟の下にある「[[自由都市ダンツィヒ]]」となった。しかしダンツィヒとポーランドの対立が深まったため、ポーランド政府はポーランド回廊の海岸にある[[グディニャ]]という小さな港町に当時最先端の埠頭を建設して100%ポーランドが管理できる港を作りあげ、ダンツィヒと激しく競合するようになった。 |
[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]は、かつて[[ウィーン会議]]で決定された([[ロシア帝国]]支配下の)[[ポーランド立憲王国]]の領域を、復興ポーランド領土の範囲を決める叩き台とした。しかしこの状態のポーランドは、北東側は[[バルト三国]]、北側は[[プロイセン王国]]の[[東プロイセン]]と[[西プロイセン]]によって[[バルト海]]への出口が塞がれていた。このため[[アメリカ合衆国大統領]][[ウッドロウ・ウィルソン]]が[[十四か条の平和原則]]でポーランドに海への出口を与えると声明し、それを受けて西プロイセンにポーランドの[[バルト海]]への出口として設定されたのがポーランド回廊である。ドイツは回廊の成立を[[ヴェルサイユ条約]]によって受け入れることとなった。[[ヴィスワ川]]の河口に近い港湾都市[[ダンツィヒ]](後のグダニスク)はドイツ人が大多数を占める街だったが、ポーランドも海運・水運をダンツィヒに依存しているため双方が譲らず、結局ポーランド領でもドイツ領でもない国際連盟の下にある「[[自由都市ダンツィヒ]]」となった。しかしダンツィヒとポーランドの対立が深まったため、ポーランド政府はポーランド回廊の海岸にある[[グディニャ]]という小さな港町に当時最先端の埠頭を建設して100%ポーランドが管理できる港を作りあげ、ダンツィヒと激しく競合するようになった。 |
2020年12月31日 (木) 23:58時点における版
20世紀における ドイツの領土の変遷 |
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20世紀における ポーランドの領土の変遷 |
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ポーランド回廊(ポーランドかいろう、ドイツ語: Polnischer Korridor、ポーランド語: Korytarz polski)は、第一次世界大戦後のポーランド国家復興の際にドイツ国から割譲された領土のうち、自由都市ダンツィヒ(現グダニスク)とドイツ領プロイセン州に挟まれ、バルト海に面した回廊地帯を指す。ポーランド第二共和国(1918–1939)時代においての、バルト海への往来を確保するための回廊であった。
概要
ポーランド回廊に当たる地域、プロイセン地方は何百年もの間、神聖ローマ帝国領であった。ポンメルンおよびブランデンブルクの東プロイセンと、西側の西プロイセン(ポメラニア東部のポメレリア地方と呼ばれる地域)は、1466年から1772年までは王領プロイセンになった。十字軍と東方植民以来、スラブ系であるポーランド人が定住する前からドイツの影響は何世紀にもわたってこの地に及んでいた。ポンメルンからバルト地方にかけて住むドイツ系住民は、バルト・ドイツ人(あるいはドイツ騎士団であるチュートン人)と呼ばれ、またプロイセンには元々バルト民族のプロイセン人が住んでいた。
連合国は、かつてウィーン会議で決定された(ロシア帝国支配下の)ポーランド立憲王国の領域を、復興ポーランド領土の範囲を決める叩き台とした。しかしこの状態のポーランドは、北東側はバルト三国、北側はプロイセン王国の東プロイセンと西プロイセンによってバルト海への出口が塞がれていた。このためアメリカ合衆国大統領ウッドロウ・ウィルソンが十四か条の平和原則でポーランドに海への出口を与えると声明し、それを受けて西プロイセンにポーランドのバルト海への出口として設定されたのがポーランド回廊である。ドイツは回廊の成立をヴェルサイユ条約によって受け入れることとなった。ヴィスワ川の河口に近い港湾都市ダンツィヒ(後のグダニスク)はドイツ人が大多数を占める街だったが、ポーランドも海運・水運をダンツィヒに依存しているため双方が譲らず、結局ポーランド領でもドイツ領でもない国際連盟の下にある「自由都市ダンツィヒ」となった。しかしダンツィヒとポーランドの対立が深まったため、ポーランド政府はポーランド回廊の海岸にあるグディニャという小さな港町に当時最先端の埠頭を建設して100%ポーランドが管理できる港を作りあげ、ダンツィヒと激しく競合するようになった。
西側の住民は、ドイツ領であった東プロイセンや西のポンメルンと比べると、カシューブ人やポーランド人といったスラブ系人の割合が比較的多かった。しかし過去にはドイツ騎士団国家で文化的にはドイツ人の影響の濃い地域でもあった。ドイツ人の数も都市部を中心に無視できないほど大きかった。1910年、ドイツ人 421,029人 がこの回廊地域に居住していた、全体の42.5%にあたる[1]。 ポーランド回廊の設定によって領土を東西に分割されたドイツ人はポーランドの国に定住する事を受け入れなかった[2]。第二次世界大戦でドイツが敗れると、東プロイセンはポーランド領となり、ポーランドの海に面した地域は大きくなった。またポーランド・ソビエト戦争の際には[3]、赤軍がこの地域でドイツ人追放を行なった。