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2020年12月30日 (水) 09:33時点における版
野田 貞雄(のだ さだお、1892年(明治25年)1月12日 - 1945年(昭和20年)6月21日)は、日本の教育者。沖縄師範学校校長在任中、鉄血勤皇隊及びひめゆり学徒隊を編成し、沖縄戦にて戦死した。墓は多磨霊園[1]。熊本県出身。
経歴
熊本県生まれ。後に東京府に転居し、麹町小学校[2]、東京高等師範学校東京高師専攻科卒業。卒業後、京都・岡山の高等女学校でそれぞれ教授を歴任。その後、岡山県視学官、茨城県女子師範学校校長を経て、1943年に沖縄師範学校校長に就任。1945年3月、アメリカ軍が沖縄に上陸し沖縄戦開戦。それに伴い、同校校長として職員・生徒による鉄血勤皇隊(男子)・ひめゆり学徒隊(女子)の編成を指揮し、日本軍の戦闘作戦に従事した。沖縄戦敗戦を迎えた6月20日、アメリカ軍の猛烈な艦砲射撃を受けて戦死。激しい戦闘の最中、生き残った職員・生徒を集めて労い「死を急がず生き永らえよ」と諭すなど、その明朗かつ情念に満ちた人柄は生徒から慈父として仰がれた。戦後、その業績から教育者の鑑として文部大臣表彰を受け、健児の塔・ひめゆりの塔に祀られた。
脚注
- ^ http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/okinawa-himeyuri.htm
- ^ 『麹町小學校の百年』麹町小学校創立百年記念会 1974.3
参考文献
- 『沖縄健児隊』大田昌秀、外間守善共編 日本出版協同 1953年
- 『沖縄のこころー沖縄戦と私ー』大田昌秀著 岩波新書1972年
- 『鉄血勤皇隊』大田昌秀著 ひるぎ社 1977年
- 『ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』仲宗根政善著 角川書店 1980年、のち文庫