「中正暦」の版間の差分
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工藤は以前村長をしており、4〜5万円の財産があったが、暦法研究のため大半を使い果たし、上京後は質素な生活をしていたと当時の新聞は報じている。 |
工藤は以前村長をしており、4〜5万円の財産があったが、暦法研究のため大半を使い果たし、上京後は質素な生活をしていたと当時の新聞は報じている。 |
2020年12月30日 (水) 09:28時点における版
中正暦(ちゅうせいれき)とは、明治時代に工藤茂三郎によって提案された改暦案。北斗中正暦、北斗中正百年暦とも呼ばれる。
歴史
工藤は徳島県出身の人物で、1897年(明治30年)に中正暦を発案し、翌1898年(明治31年)より帝国議会に3回にわたって請願した。1900年(明治33年)にパリ万国博覧会に中正暦を出品した。1906年(明治39年)に上京し、有志を集めて中正暦の宣伝普及に努めた。1910年(明治43年)3月、中正暦が第26回帝国議会を通過したが、まず交付に先立って東京帝国大学の理学博士、寺尾寿に意見を仰ぐことにした。3月24日、『東京朝日新聞』に「天文台長理学博士の中正批判評あり衆議院を誹毀侮辱しありたり」という記事が掲載されている。寺尾の反対があったためか(後述)、その後うやむやになってしまい、1910年(明治44年)5月15日に徳島県市町村長聯合会が満場一致で文部大臣に建議書を提出したほか、大正時代に徳島県で中正暦採用運動があったのを最後に世間から姿を消した。
工藤は以前村長をしており、4〜5万円の財産があったが、暦法研究のため大半を使い果たし、上京後は質素な生活をしていたと当時の新聞は報じている。
概要
年始を立春に置き、30日の月12ヶ月と付加日5日(閏年は6日)からなる。2・5・8・11月の15日と16日の間に付加日を挿入してそれぞれ春分中日、夏至中日、秋分中日、冬至中日と呼ぶ。これらは閏16日とも呼ばれる(閏の付かない日の前日)。更に6月末に付加日を挿入して歳中日と呼ぶ。閏年には12月末にも付加日を追加して大歳中日と呼ぶ。これらは閏30日とも呼ばれる(閏の付かない日の翌日)。二十四節気は毎月1日と16日に固定されている(平気法の変形)。
中正暦の最大の目的は干支(十干十二支)と曜日、六曜、九星を毎年固定することにある。干支については付加日を除いた360日に配列し、ちょうど6周期で循環する。奇数月の1日が甲子、偶数月の1日が甲午となる。付加日の干支は閏の付かない日と同じである。曜日については閏16日を含めた364日に配列し、閏30日については閏の付かない日と同じである。六曜は付加日を除いた360日に配列し、旧暦の日付をそのまま置き換える。付加日の六曜は閏の付かない日と同じである。九星も付加日を除いた360日に配列し、正月〜6月が陽遁(一白→二黒→…→九紫→一白)、7月〜12月が陰遁(九紫→八白→…→一白→九紫)となる。付加日の九星は閏の付かない日と同じである。これにより、各暦注も毎年同じ日に固定されることになる。
暦表
現代の形式に直した中正暦の暦表(カレンダー)を以下に示す。下線の日付は閏日で、日付の前に「閏」を付けて表す。
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批判
天文学者の寺尾寿は『天文月報』大正3年10月号〜12月号で「太陽暦の改良に就て」という論文を投稿し、中正暦について「(常に60日で循環する)干支を破壊する」「唯一ヶ国限りの改暦は全く好ましくない」などと様々な批判を行っている[1][2][3]。
関連項目
参照文献
- 渡邊敏夫『暦(こよみ)入門―暦のすべて―』雄山閣、1994年。ISBN 4-639-01219-5。
脚注
- ^ “天文年鑑 大正3年10月号”. 2013年11月8日閲覧。
- ^ “天文年鑑 大正3年11月号”. 2013年11月8日閲覧。
- ^ “天文年鑑 大正3年12月号”. 2013年11月8日閲覧。