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== 混乱は続く ==
== 混乱は続く ==
しかし、1954年6月15日、通学反対派が龍田寮そのものを廃止せよと訴えた。その後両者から入り乱れて陳情合戦ということになった。[[大達茂雄]][[文部大臣 (日本)|文部大臣]]も[[熊本県庁]]にきて両者から陳情攻めにあった。参議院文部委員会においても陳情合戦がおこなわれた。10月7日の参議院文部委員会での発言は<ref>『熊本市戦後教育史 通史編 I』 pp516</ref>
しかし、1954年6月15日、通学反対派が龍田寮そのものを廃止せよと訴えた。その後両者から入り乱れて陳情合戦ということになった。[[大達茂雄]][[文部大臣]]も[[熊本県庁]]にきて両者から陳情攻めにあった。参議院文部委員会においても陳情合戦がおこなわれた。10月7日の参議院文部委員会での発言は<ref>『熊本市戦後教育史 通史編 I』 pp516</ref>


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2020年12月30日 (水) 09:25時点における版

龍田寮事件
1954年4月8日に龍田寮の児童の通学をめぐって同盟休校に入った熊本市立黒髪小学校
場所 熊本市黒髪小学校区
日付
1954年4月8日(混乱開始) – 1955年4月18日
概要 菊池恵楓園長宮崎松記は龍田寮にいる、ハンセン病患者の子供の黒髪小学校通学不許可を人権問題と法務局に訴え、賛成派、反対派が1年ほど混乱した
原因 ハンセン病患者の子供の通学問題
攻撃手段 同盟休校、寺子屋式授業、ハンスト、講演会など
関与者 熊本市教育委員会、厚生省、法務局、菊池恵楓園園長、黒髪小学校PTAなど
対処 高橋守雄が児童を引き取り通学させた。その後龍田寮は消滅
謝罪 なし
賠償 なし
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龍田寮事件(たつたりょうじけん)とは、1953年昭和28年)から2年間、熊本県熊本市黒髪町下立田(現在は中央区黒髪5丁目)にあった龍田寮の児童(父母がハンセン病療養所菊池恵楓園の児童、いわゆる未感染児童)の通学をめぐっておきた教育行政上の問題である。人権教育権医療と科学など重要な課題を、学校、教育行政、父母、地域住民、さらに国政の場にも投げかけた、全国的に注目された問題であった。学校の名前をとって黒髪校事件ともいう。

問題発生まで 患者携帯児童と児童託児所

ハンセン病療養所に患者が入所するにあたって、その扶養するあるいは、携帯する健康な児童の取り扱いが問題となった。できるだけ親族に相談の上、これを引き取らせるか、それができない時は、九州療養所の場合は、待労院に委託した。その際は毎月委託料が必要であった。昭和6年にらい予防協会ができてからその一部の予算を使うなど、苦心があった。以前の患者携帯児の名簿を示す[1]

患者携帯児童名簿
児童 年齢 委託先 保育料
1 2歳 待労院 7円
2 7歳 - 7円
3 7歳 待労院 7円
4 8歳 待労院 1円50銭
5 8歳 待労院 1円50銭
6 8歳 待労院 1円50銭
7 8歳 - 7円
8 8歳 親族 7円
9 9歳 - 7円
10 9歳 親族 7円
11 9歳 親族 7円
12 9歳 待労院 5円
13 11歳 親族 1円50銭
14 11歳 待労院 1円50銭
15 11歳 待労院 1円50銭
16 12歳 待労院 1円50銭
17 12歳 待労院 1円50銭
18 13歳 待労院 1円50銭
19 14歳 待労院 1円50銭
20 14歳 待労院 1円50銭
21 14歳 親族 7円
22 14歳 親族 5円
23 15歳 待労院 1円50銭
24 16歳 待労院 1円50銭
25 16歳 待労院 1円50銭
26 19歳 待労院 1円50銭

恵楓園という保育施設

ハンセン病の療養所である九州療養所には、患者の子弟を収容する、らい予防協会立「恵楓園」という保育施設が1935年(昭和10年)設立された[2]1941年(昭和16年)九州療養所は国立療養所菊池恵楓園と改名した。ハンナ・リデルが創設したハンセン病病院回春病院も同年に廃止されて、らい予防協会に寄贈され、回春病院から寄贈された7万円のうちの、19,800円で菊池恵楓園での保育所と同規模の龍田寮が建築された[3]。以前の「恵楓園」に入所していた患者の子弟を収容することになった。学童もいたので、黒髪小学校龍田寮分校が開かれたが、教師も助教諭が一人と少なく、教育も行き届かなかった。中学生、高校生は地元の中学、高校に通学していた。菊池恵楓園は、1942年(昭和17年)より恵楓園は龍田寮の児童を黒髪校本校に通学させたいと要求し、熊本市は了解したが黒髪校の保護者の強い反対で、時期尚早として葬り去られていた[4]

菊池恵楓園園長の申し入れ

菊池恵楓園園長の宮崎松記は、1953年(昭和28年)11月黒髪校を訪れ、龍田寮児童の問題を1954年(昭和29年)4月まで解決してほしいと申し入れた。校長はPTAの反対があるので、了承があれば通学させていいと返事した。PTA会長瀬口龍之介(当時熊本県県会議長)を訪ねたが、瀬口は慎重に対処しなければならないと言い、話が進展しなかった。宮崎は熊本法務局に対して、12月2日に「龍田寮非らい健康児童の黒髪校本校通学に関する差別取扱い撤廃」の申告書を提出した[5]。これを聞いた瀬口は、「この問題は啓発活動が先行しなければならない。しまった。」と漏らしている。宮崎松記も瀬口龍之介も医師であり、前者は国の医療機関の代表者、後者は県の政治に関与している人である。出発から平行線であったが児童、教師、保護者、校区民を巻き込み全国的に注目する事件となった。

龍田寮に収容された58名中の小学校各学年

文献にある数を示す[4]

小学校各学年の児童数
学年
1年 1 3 4
2年 2 2 4
3年 1 3 4
4年 2 2 4
5年 3 2 5
6年 1 1 2
10 13 23

PTA総会と行政側の方針

12月9日、PTA総会が開かれ、宮崎、瀬口の外に市教育委員長、教育長、地元の市会議員も出席した。アンケートの結果家庭数1,266のうち、回答数1,229、通学を認める賛成は420 (34%)、反対は795 (64%)、中立14 (2%) であった[6]

熊本地方法務局は1)同じ条件である全国の外の5つの施設ではトラブルもなく仲良く勉強している。2)九州大学細菌学教授戸田忠雄、皮膚科教授樋口謙太郎は「現状なら、らい感染は考えられない」という意見書を出した。

法務・文部・厚生の3省は「通学拒否は妥当ではない」という線をうちだした。

厚生省としては、周到な健康管理を行っているので、らいを他に感染させる恐れはないと認める。
文部省としては、感染させる恐れのない児童である限り、一般児童と区別することなく就学させるべきであると判断する。
法務省としては、厚生・文部両省の見解より判断すれば、一般の学校に通学させるべきであると考える。

この3項に基づいて、3月1日、熊本法務局長室で、法務局、市教育委員、恵楓園側から出席して次の方針が決定された[7]

1)市教育委員会は昭和29年4月以降、龍田寮児童を全面的に黒髪小学校本校に通学させる。2)菊池恵楓園は、前記通学児童にたいする健康管理をいっそう厳密にする。

反対運動おこる

1954年3月1日、黒髪校校庭で町民大会が開かれた。当時の意見は

龍田寮の児童らは未感染といわれているが、過去すでに5名が隔離されている。未感染といい、伝染の危険性がないという学説は信じられない。全治の方法も発見されていない。未感染児童の発病率は0.7%となっている。これがゼロになれば通学に賛成する。約1,800名余の児童の健康を、犠牲にすることはできない。

1954年3月10日、岡本教育委員長は市議会において、「入学許可の結論に達した」と答えた。11日、ラジオでこれが放送されたが、PTAはますます態度を硬化させた。11日夜、反対派約500名が市教育委員会に陳情デモを行った。同12日、同盟休校を断行すると述べた。これより先、関係者委員会を主催した際に、反対派から「第3者の診断次第であえて反対しないという発言があった。[8]

同盟休校

4月2日、熊本大学皮膚科で、新入学生4人の診察がおこなわれ、異常がなかったので4月7日市教育委員会は明8日から通学させると通告した。これを不満とした反対派は4月8日から同盟休校に入った。4月8日、黒髪校校門に大きな字で「らいびょうのこどもと、いっしょにべんきょうせぬように、しばらくがっこうをやすみませう。」などと張り紙がでた。熊本日日新聞の社説(4月10日付)には、「ここには故意に子供たちに深い印象を与えることを目的として、愛情の名にふさわしからぬ憎しみが露呈する」と述べた[9]。龍田寮の1年生4人(男児1人、女児3人)は2人の保母とともに登校した。全校生徒1,928名のうち登校したのは76名であった。5日目は312名が出席した。反対派は17箇所の自習場で寺子屋式の授業となった。その後、市議会文教委員会4月21日に次の調停案が出された。4月末日までの休校を指示し、再度熊本大学の診断を受けること。それで、[10]4月27日、熊本大学皮膚科で再度診断を受けた。[11]。その結果、4名のうちの1名は要観察ということになった。このことで、入学反対の焔が再び燃え上がった[12]。5月1日、市文教委員会は3名を通学させ、1名を龍田寮内の分校から通学させるという最終的な調停案をだし、これが受け入れられた。当時の小学校長は心労のため健康を害し、小崎東紅が急遽、黒髪小学校校長に就任した[13]

混乱は続く

しかし、1954年6月15日、通学反対派が龍田寮そのものを廃止せよと訴えた。その後両者から入り乱れて陳情合戦ということになった。大達茂雄文部大臣熊本県庁にきて両者から陳情攻めにあった。参議院文部委員会においても陳情合戦がおこなわれた。10月7日の参議院文部委員会での発言は[14]

  • 通学賛成派:龍田寮生は中学、高校には普通に通学しているのに黒髪小学校だけ通学できないのは残念だ。文教委員会の助言をお願いする。
  • 反対派:恵楓園長の説明を聞いたが、あたかも法と科学の力で押さえるようにうかがわれた。すでにその時龍田寮から3名の発病をみている。桜山中学校はこっそり入学させたのだ。
  • PTA会長:まず啓発のための運動、地ならしが先行すべきで、地域住民が納得したうえでないと子供は幸福になりえない。
  • 宮崎松記:らい予防は大きな国策である。らいの疑いのない子を親と同居させ感染させるのはしのびないので、収容して保育しているのが龍田寮である。教育の機会均等の上から解決すべきで、危険なものを通学させているとは思わぬ。全国的にみても他の寮では地元の学校にあたたかく迎えられている。
  • 市教育委員長:根本的にはらい予防法から、医学的見地から、人道的、道義的観点から、の3点から考える。現段階では全員の通学は認められない。

[15]なお、宮崎園長は反対派のパンフレットの療児からの発病については、寮内の発病でないと説明している。その後、市教育委員会は次年度の児童を入学させる(一部は外の学校や残留がある)解決原案を発表したが、反対派から拒否されてしまった。PTAの通学賛成派と反対派は真相発表の集会を開き、ある時は100メートルも離れていない所でおこなった。1955年(昭和30年)、入学通知書を出すと、反対派の3名の会員が市教育委員会前でハンガー・ストライキに入った[16]

高橋守雄と鰐淵健之の調停

熊本商科大学学長高橋守雄と熊本大学学長鰐淵健之が斡旋にのりだし、高橋学長が責任をもって児童(男児1人、女児2人)をひきとり通学させることとなり、155時間にわたるハンストは中止となった[17]。前の文章は自宅に預かりとあるが、高橋守雄の自宅は別の校区である。この文献によると、某所に預かりとあり、黒髪校区である。[18]1955年度の入学式はそれでも4月18日に延期になった。つきそいは、保母でなく、他校の女性教師がつとめた。校長小崎東紅は、「寮児がはいった新1年のクラスに反対派のリーダーの孫が清掃に行かせてほしいと申し出たことが嬉しかった。このほかに反対派の子や孫たちが新しく入ってきた子供たちを、いとおしむ暖かい心があったことが救いだった」と述べている[19]

その後

黒髪校では、その学童が他の児童養護施設に引き取られるまで、きわめて微妙な対応に迫られていた。学童の周りには賛成派で固め、席替えもなく、特に給食にも気をつかった。学籍簿は校長にも知らされなかった。1955年秋から子供たちは、親戚や熊本県下10か所の児童養護施設に極秘に引き取られていった。それから2年後の1957年(昭和32年)10月には、龍田寮の用途廃止が決定された[20]

文献

  • 熊本市教育委員会 『熊本市戦後教育史 通史編 I』 1994年、pp503-526
  • 国立療養所菊池恵楓園入所者自治会 『壁をこえて 自治会八十年の軌跡』 2006年、pp82-89
  • 国立療養所菊池恵楓園 『菊池恵楓園50年史』1960年、pp67-71
  • 内田守編 『リデルとライトの生涯 ユーカリの実るを待ちて』1976年 1990年復刊 リデル・ライト記念老人ホーム

脚注

  1. ^ 『菊池恵楓園50年史』1960年、pp67
  2. ^ 『壁をこえて』pp158
  3. ^ 『菊池恵楓園50年史』 p68
  4. ^ a b 『熊本市戦後教育史 通史編 I』 pp504
  5. ^ 『熊本市戦後教育史 通史編 I』 pp505
  6. ^ 『熊本市戦後教育史 通史編 I』 pp506
  7. ^ 『熊本市戦後教育史 通史編 I』 pp507
  8. ^ 菊池恵楓園史 pp69
  9. ^ 『熊本市戦後教育史 通史編 I』 pp509
  10. ^ 菊池恵楓園50年史 pp69
  11. ^ らい予防法第5条を指摘して、ハンセン病患者でない学童の診察は大学となった。『壁をこえて』 pp86
  12. ^ 『熊本市戦後教育史 通史編 I』 pp512
  13. ^ 『熊本市戦後教育史 通史編 I』 pp513
  14. ^ 『熊本市戦後教育史 通史編 I』 pp516
  15. ^ 『熊本市戦後教育史 通史編 I』 pp518
  16. ^ 『熊本市戦後教育史 通史編 I』 pp520
  17. ^ 『熊本市戦後教育史 通史編 I』 pp521
  18. ^ 内田守[1976:347]
  19. ^ 『熊本市戦後教育史 通史編 I』 pp523
  20. ^ 『熊本市戦後教育史 通史編 I』 pp525