「佐々木吉郎 (経営学者)」の版間の差分
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[[1960年]][[明治大学]]総長<ref name=jinbutsu/>。[[1965年]][[水田三喜男]]が創設した[[城西大学]]の初代経済学部長、[[1967年]]明治大学[[名誉教授]]。同年[[札幌大学]]初代学長。[[1962年]]、1963年度の大学開設申請などについて[[文部大臣|文相]]諮問にこたえる大学設置審議会長に選ばれた。この他、日本経営学会常任理事<ref name=jinbutsu/>、日本会計研究学会常任理事<ref name=jinbutsu/>、日本世論協会理事などを務めた。[[1962年]]、[[私学]]振興の功により[[褒章|藍綬褒章]]<ref name=jinbutsu/>、[[1967年]][[勲二等]][[旭日重光章]]受章<ref name=jinbutsu/>。 |
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[[明治大学駿河台キャンパス]]の大学会館と[[リバティタワー (明治大学)|リバティタワー]]の間、[[山の上ホテル]]に向かう坂道「吉郎坂」は、佐々木にちなむもの。 |
2020年12月30日 (水) 09:19時点における版
佐々木 吉郎(ささき きちろう、1897年3月25日 - 1970年5月28日)は、昭和期の経営学者。明治大学教授、総長。明治大学経営学部創設者。札幌大学初代学長。
来歴・人物
広島県双三郡川地村(現三次市)出身[1]。旧制三次中学(現三次高校)を経て1924年明治大学商学部卒業[1]。同大学商学部特選研究生。1927年から3年間、ベルリン大学留学(経営経済学専攻)[1]。1933年同大学商学部教授[1]。恩師・小林丑三郎の勧めで経営経済学という新分野を開き「佐々木経営学」を講じた[1]。1946年商学部長兼商科専門部長、同大学理事。1950年商学博士の学位を受く[1]。1953年、「経営学」を商学部から分離させ経営学部を創設し初代学部長を務める[1]。国立では先例として神戸大学があったが、私立大学としては日本初の経営学部であった。また戦前はレスリング部長、戦後は武田孟部長・島岡吉郎監督就任前の野球部長を務めた。同時に六大学野球連盟理事長として、当時米軍専用の神宮球場開放にねばり抜いた。
1960年明治大学総長[1]。1965年水田三喜男が創設した城西大学の初代経済学部長、1967年明治大学名誉教授。同年札幌大学初代学長。1962年、1963年度の大学開設申請などについて文相諮問にこたえる大学設置審議会長に選ばれた。この他、日本経営学会常任理事[1]、日本会計研究学会常任理事[1]、日本世論協会理事などを務めた。1962年、私学振興の功により藍綬褒章[1]、1967年勲二等旭日重光章受章[1]。
明治大学駿河台キャンパスの大学会館とリバティタワーの間、山の上ホテルに向かう坂道「吉郎坂」は、佐々木にちなむもの。
主な著書
- 『経営経済学の成立』(厳松堂書店 1930年)
- 『商業経営論』(章華社 1933年)
- 『広告経済総論』(中央書房 1937年)
- 『小売商と販売計画』(厳松堂書店 1938年)
- 『経営経済学への道』(白山書房 1948年)
- 『続・経営経済学の成立』(白山書房 1950年)
監修・編集
- 『経営経済学』(東洋書館 1948年)
- 『P.Rの基礎知識』(東洋書館 1951年)
- 『販売事典』(東洋書館1952年)
- 『広告事典』(東洋書館1952年)
- 『経営管理』(青林書院 1960年)
参考文献
- 『産経日本紳士年鑑〈第四版〉』 (1979年) 産業経済新聞社年鑑局
- 『佐々木吉郎博士古稀記念論文集』 (1968年) 明治大学経営学研究所
- 『新・人国記〉』 (1963年) 朝日新聞社
- 明治大学史資料センター 『明治大学小史―人物編』 学文社、2011年 ISBN 978-4-7620-2217-3
門下生
- 藤芳誠一 - 明治大学名誉教授
脚注
外部リンク
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