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[[大日本帝国海軍]]法務[[大尉]]等を経て、[[1946年]]九州帝国大学法文学部講師、1948年九州大学法文学部助教授、[[1951年]]同法学部教授、[[1953年]][[広島大学]]政経学部教授兼務、[[1967年]]第30代九州大学法学部長。
[[大日本帝国海軍]]法務[[大尉]]等を経て、[[1946年]]九州帝国大学法文学部講師、1948年九州大学法文学部助教授、[[1951年]]同法学部教授、[[1953年]][[広島大学]]政経学部教授兼務、[[1967年]]第30代九州大学法学部長。


[[1969年]][[3月11日]]、九州大学評議会から[[学長]][[事務取扱]]に選考されたが、[[テレビ]]で「警察は敵」と発言したことなどから[[任命権者]]たる[[文部大臣 (日本)|文部大臣]]から発令を拒否された。これに抗議し[[1970年]]九州大を辞職し、[[名城大学]]法学部教授、[[弁護士]]登録。九州大[[名誉教授]]。のちに、この件について[[名誉毀損]]を受けたとして名誉回復の措置を求める訴訟を起こす([[九大井上事件]])。
[[1969年]][[3月11日]]、九州大学評議会から[[学長]][[事務取扱]]に選考されたが、[[テレビ]]で「警察は敵」と発言したことなどから[[任命権者]]たる[[文部大臣]]から発令を拒否された。これに抗議し[[1970年]]九州大を辞職し、[[名城大学]]法学部教授、[[弁護士]]登録。九州大[[名誉教授]]。のちに、この件について[[名誉毀損]]を受けたとして名誉回復の措置を求める訴訟を起こす([[九大井上事件]])。


弁護士としては[[連合赤軍事件]]、破防法裁判の弁護等を務めた。[[1974年]]に革マル派の襲撃を受け重傷を負う。
弁護士としては[[連合赤軍事件]]、破防法裁判の弁護等を務めた。[[1974年]]に革マル派の襲撃を受け重傷を負う。

2020年12月30日 (水) 08:51時点における版

井上 正治(いのうえ まさじ、"まさはる"は誤り。1920年2月11日 - 1997年12月18日)は福岡県出身の法学者。専門は刑事法過失犯理論等を研究。

来歴

福岡県宗像市生まれ、山口県下関市育ち。旧制下関中学校(現山口県立下関西高等学校)、旧制福岡高等学校(現九州大学の前身校の一つ)を経て、1942年九州帝国大学法文学部卒業、高等試験司法科合格。1950年法学博士(九州大学)。

大日本帝国海軍法務大尉等を経て、1946年九州帝国大学法文学部講師、1948年九州大学法文学部助教授、1951年同法学部教授、1953年広島大学政経学部教授兼務、1967年第30代九州大学法学部長。

1969年3月11日、九州大学評議会から学長事務取扱に選考されたが、テレビで「警察は敵」と発言したことなどから任命権者たる文部大臣から発令を拒否された。これに抗議し1970年九州大を辞職し、名城大学法学部教授、弁護士登録。九州大名誉教授。のちに、この件について名誉毀損を受けたとして名誉回復の措置を求める訴訟を起こす(九大井上事件)。

弁護士としては連合赤軍事件、破防法裁判の弁護等を務めた。1974年に革マル派の襲撃を受け重傷を負う。

岳父は、不破武夫(九州帝国大学法文学部刑法講座担任、第18代九州帝国大学法文学部長)。長男は民事訴訟法学者の井上治典