「帝国学士院」の版間の差分
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'''帝国学士院'''(ていこくがくしいん、{{Llang|言語記事名=英語|en|Imperial Academy}})は、[[大日本帝国]]にかつて存在した[[国立アカデミー]]。現在は[[日本学士院]]に改組されている。 |
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帝国学士院は、[[研究者]]に対する[[顕彰]]等の事業を通じ、[[日本]]の[[学術]]の発展を図る目的で設置された<ref name="kitei01">帝国学士院規程第1条。</ref>。設置根拠は、[[1906年]]に[[勅令]]として公布された「帝国学士院規程」などに基づく。[[文部大臣]]の管理下に位置づけられており、職員として置かれた[[書記]]にも[[文部省|文部]][[官僚]]が任じられた<ref name="kitei01"/><ref>帝国学士院規程第16条。</ref>。 |
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会員の定数は60名とされ、[[勅旨]]により任じられた<ref>帝国学士院規程第2条。</ref><ref>帝国学士院規程第5条。</ref>。当時の日本は帝国としての勃興期にあたり、それ以降は[[日本列島]]だけでなく[[台湾]]や[[南樺太]]といった[[外地]]にも版図を拡大していったが、その広大な領土の各地から優秀な研究者が会員として選任された。また、[[日本国籍]]を有しない研究者であっても、日本にとって功績があると認められた場合は客員として迎えられた<ref>帝国学士院規程第3条。</ref>。 |
2020年12月30日 (水) 08:41時点における版
帝国学士院 ていこくがくしいん | |
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帝国学士院が設置された 帝国学士院会館 | |
役職 | |
院長 | 長岡半太郎 |
組織 | |
上部組織 | 文部省 |
概要 | |
所在地 | 東京都台東区 |
定員 |
60名 (帝国学士院規程第5条) |
設置 | 1906年6月 |
前身 | 東京学士会院 |
帝国学士院(ていこくがくしいん、英語:Imperial Academy)は、大日本帝国にかつて存在した国立アカデミー。現在は日本学士院に改組されている。
帝国学士院は、研究者に対する顕彰等の事業を通じ、日本の学術の発展を図る目的で設置された[1]。設置根拠は、1906年に勅令として公布された「帝国学士院規程」などに基づく。文部大臣の管理下に位置づけられており、職員として置かれた書記にも文部官僚が任じられた[1][2]。
会員の定数は60名とされ、勅旨により任じられた[3][4]。当時の日本は帝国としての勃興期にあたり、それ以降は日本列島だけでなく台湾や南樺太といった外地にも版図を拡大していったが、その広大な領土の各地から優秀な研究者が会員として選任された。また、日本国籍を有しない研究者であっても、日本にとって功績があると認められた場合は客員として迎えられた[5]。
また、貴族院には帝国学士院会員の議席枠が4議席確保されており[6]、井上哲次郎、小野塚喜平次、田中館愛橘らが貴族院議員に就任するなど、帝国議会にも一定程度の影響力を保持した。また、帝国学士院規程第9条を根拠として、万国学士院連合会や国際学士院連盟に加盟しており[7]、日本を代表するアカデミーとして国際的にも認知されていた。1947年の政令により、帝国学士院規程は「日本学士院規程」に改正され、帝国学士院も日本学士院に改称された。
組織
内部組織は会員の専攻分野ごとに別れており、人文科学、社会科学系の会員は第一部、自然科学系の会員は第二部に所属していた[8]。組織の長として帝国学士院院長が設置され、幹部として帝国学士院幹事、および、各部の部長が置かれた[9]。
活動
紀要
紀要や、学術書、研究書などの刊行を行い、知識の普及、啓蒙に努めていた。帝国学士院としての紀要は、1912年からProceedings of the Imperial Academyとして刊行された[7]。それから30年が経過したのち、その日本語版である『帝国学士院紀事』の刊行が始まった[7]。なお、『帝国学士院紀事』は、のちに『帝国学士院紀要』に改題されている[7]。
顕彰
学術で顕著な功績を残した研究者に対して、帝国学士院賞を授与していた。特に功績が優れていた者に対しては恩賜賞が授与された。また、皇太子裕仁親王(のちの昭和天皇)と良子女王(のちの香淳皇后)との成婚を記念し、一時「大阪毎日新聞東京日日新聞寄附東宮御成婚記念賞」が授与されていた[10]。この賞は毎日新聞社からの寄附金を原資としていたが、その後、帝国学士院賞に統合された[11]。
歴代院長
帝国学士院院長 | ||||
---|---|---|---|---|
代 | 氏名 | 就任日 | 退任日 | 備考 |
- | 加藤弘之 | 1906年 | 1906年 | (院長代行) |
1 | 加藤弘之 | 1906年 | 1909年 | |
2 | 菊池大麓 | 1909年 | 1917年 | |
3 | 穂積陳重 | 1917年 | 1925年 | |
4 | 岡野敬次郎 | 1925年 | 1925年 | |
5 | 桜井錠二 | 1926年 | 1939年 | |
6 | 長岡半太郎 | 1939年 | 1947年 |
会員
脚注
参考文献
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関連項目
外部リンク
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