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「モロトフ (巡洋艦)」の版間の差分

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モロトフは当時の[[赤軍|赤色黒海艦隊]]の艦艇で唯一レーダーを装備していたため、[[バルバロッサ作戦]]の主要な期間中には[[セヴァストポリ]]で対空警戒任務に従事した<ref name=y94/> 。[[1941年]]10月後半、[[ドイツ陸軍 (国防軍)|ドイツ陸軍]]が[[クリミア半島]]に侵攻すると、モロトフは[[トゥアプセ]]へ移動を余儀なくされ、そこで再び対空警戒に従事した<ref name=y94/><ref>Rohwer, p. 111</ref> 。だが11月9日にトゥアプセへ戻る前には、[[フェオドシヤ]]付近のドイツ軍部隊に対して200発近い180mm砲弾を撃ち込んでいる。1941年12月24日から28日にかけ、モロトフは[[ポティ]]からセヴァストポリへ第386狙撃師団の輸送を行った。12月29日に兵員を揚陸中にドイツ軍から砲撃を受け艦尾に損傷を受けた。モロトフは反撃し、180mm砲弾205発と100mm砲弾107発を敵陣地に向けて発射している。翌日には脱出する負傷者600名を乗艦させてセヴァストポリから戻った<ref name=y94/>。
モロトフは当時の[[赤軍|赤色黒海艦隊]]の艦艇で唯一レーダーを装備していたため、[[バルバロッサ作戦]]の主要な期間中には[[セヴァストポリ]]で対空警戒任務に従事した<ref name=y94/> 。[[1941年]]10月後半、[[ドイツ陸軍 (国防軍)|ドイツ陸軍]]が[[クリミア半島]]に侵攻すると、モロトフは[[トゥアプセ]]へ移動を余儀なくされ、そこで再び対空警戒に従事した<ref name=y94/><ref>Rohwer, p. 111</ref> 。だが11月9日にトゥアプセへ戻る前には、[[フェオドシヤ]]付近のドイツ軍部隊に対して200発近い180mm砲弾を撃ち込んでいる。1941年12月24日から28日にかけ、モロトフは[[ポティ]]からセヴァストポリへ第386狙撃師団の輸送を行った。12月29日に兵員を揚陸中にドイツ軍から砲撃を受け艦尾に損傷を受けた。モロトフは反撃し、180mm砲弾205発と100mm砲弾107発を敵陣地に向けて発射している。翌日には脱出する負傷者600名を乗艦させてセヴァストポリから戻った<ref name=y94/>。


モロトフは[[1942年]]1月の最初の一週間、輸送任務を継続したが、1月21日から22日にかけてトゥアプセで大嵐に遭遇し防波堤に乗り上げたため艦首を損傷してしまった。そのためモロトフは2月の大部分を修理に費やしたが、それでも艦首は完全に直らず速度は数ノット低下した。モロトフは[[セヴァストポリ (第二次世界大戦)|セヴァストポリ]]を支援するため艦砲射撃任務を継続し、3月20日からはポティでより本格的な修理を実施した。6月12日、モロトフは第138狙撃旅団の兵員2,998名をセヴァストポリへ輸送してドイツ軍陣地を砲撃する間に上陸させ、戻る際には1,065名の負傷兵と婦女子350名を乗せて避難させた<ref name=y94/>。6月14日から15日にも他の艦艇と共同で3,855名の兵員を輸送し、艦砲射撃を実施するとともに2,908名の避難民を救出した<ref>Rohwer, p. 172</ref>。
モロトフは[[1942年]]1月の最初の一週間、輸送任務を継続したが、1月21日から22日にかけてトゥアプセで大嵐に遭遇し防波堤に乗り上げたため艦首を損傷してしまった。そのためモロトフは2月の大部分を修理に費やしたが、それでも艦首は完全に直らず速度は数ノット低下した。モロトフは[[セヴァストポリ包囲戦 (1941年-1942年)|セヴァストポリ包囲戦]]を支援するため艦砲射撃任務を継続し、3月20日からはポティでより本格的な修理を実施した。6月12日、モロトフは第138狙撃旅団の兵員2,998名をセヴァストポリへ輸送してドイツ軍陣地を砲撃する間に上陸させ、戻る際には1,065名の負傷兵と婦女子350名を乗せて避難させた<ref name=y94/>。6月14日から15日にも他の艦艇と共同で3,855名の兵員を輸送し、艦砲射撃を実施するとともに2,908名の避難民を救出した<ref>Rohwer, p. 172</ref>。


[[File:KOR-2-Molotov1941.jpg|thumb|left|モロトフに搭載された[[Be-4 (航空機)|KOR-2]]。1941年。]]
[[File:KOR-2-Molotov1941.jpg|thumb|left|モロトフに搭載された[[Be-4 (航空機)|KOR-2]]。1941年。]]

2020年12月27日 (日) 05:29時点における版

モロトフ
左舷から見るモロトフの艦影
左舷から見るモロトフの艦影
基本情報
建造所 マルティ南工廠ロシア語版
運用者 ソビエト連邦労農赤色海軍
ソビエト連邦ソ連海軍
艦種 軽巡洋艦
級名 26-bis型
艦歴
起工 1937年1月14日
進水 1939年12月4日
竣工 1941年1月14日
除籍後 1972年4月4日にスクラップとして売却
要目
基準排水量 8,177 t
満載排水量 9,728 t
全長 191.4 m
最大幅 17.66 m
吃水 6.3 m(満載時)
機関 TB-7蒸気タービンエンジン 2 基
主缶 ヤーロウ・ノーマンド石油専焼 6 基
電源
出力 129,750 hp (96,750 kW)
推進器 直径4.7 mスクリュー 2 軸
最大速力 36.1 kn (66.9 km/h)
燃料 通常 : 640 t
満載 : 1,311 t
最大 : 1750 t
航続距離 4,220海里 (7,820 km) / 18 kn
1,120海里 (2,070 km) / 35 kn
乗員 士官 : 57 名
水兵 : 906 名
兵装
  • 57口径180 mm3連装 : 3 基
  • 58口径100 mm単装高角砲B34 : 6 基
  • 46口径45 mm単装半自動高角砲21K : 3 基(1943年撤去)
  • 67.5口径37 mm高角砲70K : 12 基(1943年装備)
  • 12.7 mm連装機銃DShK : 4 基(1943年:6 基)
  • 533 mm3連装魚雷発射管 : 2 基
  • 機雷 : 164 - 100 個
  • 爆雷投射機BMB-1 : 2 基
装甲
  • 舷側 : 70 mm
  • 甲板 : 50 mm
  • 砲塔 : 70 - 50 mm
  • 司令塔 : 150 - 100 mm
  • 搭載機
  • 射出機3K-2a(1942年撤去) / ZK-1a(1943年-1947年) : 1 基
  • KOR-1またはKOR-2水上偵察機 : 2 機
  • スーパーマリン スピットファイア : 1 機(試験のみ)
  • レーダー 291型水上捜索レーダー : 1 基
    その他
    射撃管制装置
    • モールニヤATs : 1 基
    • ゴリゾーント2 : 2 基
    魚雷発射管管制装置
    • モールニヤAK : 1 基
    測距儀
    • DM-3 : 2 基
    • DM-1,5 : 4 - 5 基
    • 282型電波測距儀 : 2 基
    テンプレートを表示

    モロトフロシア語: Молотов)は、ソ連巡洋艦(Крейсер)。マクシム・ゴーリキー級。艦名は同国首相外務人民委員、外相(1946年以後)英語版を歴任したヴャチェスラフ・モロトフに因む。彼の失脚後の1957年には「栄光」を意味するスラヴァ(Slava/Слава)に改名された。艦の規模からは軽巡洋艦、ソ連には無関係であるが、ロンドン海軍軍縮条約の規定に沿った分類では重巡洋艦に分類される。

    概要

    モロトフと同型艦マクシム・ゴーリキー26号計画 に基づく最初の2隻より装甲が強化されており、26-bis号計画として区別されている[1]

    モロトフはレドュートKレーダーを搭載しており、ソ連の艦艇で初めてレーダーを装備した艦となった。1944年にはソ連製のマーズ1射撃指揮レーダーも追加されている[2]

    1943年にモロトフにはより高性能のZK-1aカタパルトが搭載され、レンドリースイギリスから提供されたスーパーマリン スピットファイア戦闘機の発進試験に成功している。しかしながらこの計画は1947年に放棄され、カタパルトも撤去された[3]

    艦歴

    モロトフは1937年1月14日にムィコラーイウマルティ南工廠ロシア語版で起工、1939年12月4日に進水し、1941年6月14日竣工した[1]

    第二次世界大戦

    砲撃するモロトフ。1941年から1942年頃。

    モロトフは当時の赤色黒海艦隊の艦艇で唯一レーダーを装備していたため、バルバロッサ作戦の主要な期間中にはセヴァストポリで対空警戒任務に従事した[1]1941年10月後半、ドイツ陸軍クリミア半島に侵攻すると、モロトフはトゥアプセへ移動を余儀なくされ、そこで再び対空警戒に従事した[1][4] 。だが11月9日にトゥアプセへ戻る前には、フェオドシヤ付近のドイツ軍部隊に対して200発近い180mm砲弾を撃ち込んでいる。1941年12月24日から28日にかけ、モロトフはポティからセヴァストポリへ第386狙撃師団の輸送を行った。12月29日に兵員を揚陸中にドイツ軍から砲撃を受け艦尾に損傷を受けた。モロトフは反撃し、180mm砲弾205発と100mm砲弾107発を敵陣地に向けて発射している。翌日には脱出する負傷者600名を乗艦させてセヴァストポリから戻った[1]

    モロトフは1942年1月の最初の一週間、輸送任務を継続したが、1月21日から22日にかけてトゥアプセで大嵐に遭遇し防波堤に乗り上げたため艦首を損傷してしまった。そのためモロトフは2月の大部分を修理に費やしたが、それでも艦首は完全に直らず速度は数ノット低下した。モロトフはセヴァストポリ包囲戦を支援するため艦砲射撃任務を継続し、3月20日からはポティでより本格的な修理を実施した。6月12日、モロトフは第138狙撃旅団の兵員2,998名をセヴァストポリへ輸送してドイツ軍陣地を砲撃する間に上陸させ、戻る際には1,065名の負傷兵と婦女子350名を乗せて避難させた[1]。6月14日から15日にも他の艦艇と共同で3,855名の兵員を輸送し、艦砲射撃を実施するとともに2,908名の避難民を救出した[5]

    モロトフに搭載されたKOR-2。1941年。

    8月2日、フェオドシヤ付近への艦砲射撃任務から戻る際、モロトフはイタリア海軍魚雷艇MAS艇 と共同したドイツ空軍第26爆撃航空団第6飛行隊(6./KG 26)の攻撃によって艦首を20mにわたって吹き飛ばされた[6]。この損傷によりモロトフの速度は10ノット(19km/h)に低下し、後進しながら帰投を余儀なくされた。モロトフはポティで1943年7月31日まで修理に費やしたが、この修理には建造中だった巡洋艦フルンゼの艦首、同ジェレズニャコフの舵、同ラーザリ・カガノーヴィチの主機、そして潜水艦L-25ソナーがそれぞれ流用されている[1]

    1943年10月6日、駆逐艦3隻がドイツ空軍の爆撃で失われると、スターリンは大型艦を許可なしに出撃することを禁じた。これはモロトフにとって戦争中における活動の終わりを意味した[7]

    戦後

    モロトフは終戦から間もない1945年11月に、戦争中に負った損傷の最終的な修理を行った。1946年10月5日にモロトフの第2砲塔の砲弾取扱室から出火し、誘爆を避けるため弾薬庫と砲弾取扱室に注水が行われた。最悪の事態は避けられたものの、この事故によって22名が死亡、20名が負傷した。モロトフは1940年代終り頃にかけてチャパエフ級巡洋艦スヴェルドロフ級巡洋艦に搭載されるレーダーの試験艦として活動し[8]1952年から1955年1月28日まで近代化改装を実施した[9]

    この改装で、モロトフにはギュイス対空レーダーとリフ対水上レーダー、ザルプ射撃レーダー、ヤコール対空射撃レーダーが搭載された。対空兵装も一新され、水冷式の61-K 37mm連装機関砲11基が搭載されたほか100mm砲は電動式のB-34USMA砲架に載せられた。対空射撃指揮装置はスタビライズ機能を持つSPN-500方位盤付きのゼニット-26に置き換えられ、魚雷発射管、対潜兵装、艦載艇用クレーン、航空艤装が撤去された。この改装には、スヴェルドロフ級巡洋艦の建造費の半分から4分の3に相当する20億ルーブルが費やされた[10]

    航行するモロトフ。1941年から1942年頃。

    1955年10月29日、モロトフは爆沈した戦艦ノヴォロシースク(元イタリア海軍ジュリオ・チェザーレ)の救援活動に参加した。この救援活動中、ノヴォロシースクに派遣されていたモロトフの乗員5名が、爆発から3時間後ノヴォロシースクが転覆した際に巻き込まれ犠牲となった[11]。艦名の元となったヴャチェスラフ・モロトフが最高指導者ニキータ・フルシチョフソ連共産党第一書記との政争に敗れ失脚した(反党グループ事件)ことを受け、 1957年8月3日にモロトフは「栄光」を意味するスラヴァ(Slava / Слава)に改名された[12]

    1961年8月3日、モロトフ改めスラヴァは練習巡洋艦に類別変更された。スラヴァは1967年6月5日から30日にかけて地中海へ展開し、第三次中東戦争シリアに対するソ連の支援を示すため行動した。1970年9月から12日にかけて再び地中海へ展開し、1970年11月9日に駆逐艦ブラーヴイイギリス海軍空母アークロイヤルが衝突事故を起こした際には支援を行った。スラヴァは1972年4月4日にスクラップとして売却された[8]

    脚注

    1. ^ a b c d e f g Yakubov and Worth, p. 94
    2. ^ Yakubov and Worth, p. 88
    3. ^ Yakubov and Worth, p. 89
    4. ^ Rohwer, p. 111
    5. ^ Rohwer, p. 172
    6. ^ Rohwer, p. 184
    7. ^ Whitley, p. 211
    8. ^ a b Yakubov and Worth, p. 95
    9. ^ Cruiser Ave 26-bis "Molotov"” (Russian). navsource.narod.ru. 10 March 2019閲覧。
    10. ^ Yakubov and Worth, p. 91
    11. ^ McLaughlin, Stephen (2007). “The Loss of the Novorossiisk: Accident or Sabotage”. In John Jordan. Warship 2007. London: Conways. pp. 139, 142. ISBN 1-84486-041-8 
    12. ^ Кузин, В. П. (1996) (Russian). Санкт-Петербург 

    出典

    • Mandel, Vladimir, "Cold War Duty in the Black Sea Fleet," Naval History (Annapolis, Md., April 2011), pp. 42–48
    • Rohwer, Jürgen (2005). Chronology of the War at Sea 1939-1945: The Naval History of World War Two (Third Revised ed.). Annapolis, MD: Naval Institute Press. ISBN 1-59114-119-2 
    • Whitley, M. J. (1995). Cruisers of World War Two: An International Encyclopedia. London: Cassell. ISBN 1-86019-874-0 
    • Yakubov, Vladimir; Worth, Richard (2009). “The Soviet Light Cruisers of the Kirov Class”. In Jordan, John. Warship 2009. London: Conway. pp. 82–95. ISBN 978-1-84486-089-0 

    外部リンク