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喜多岡 勇平(きたおか ゆうへい、文政4年(1821年) - 慶応元年(1865年)年6月24日)は幕末福岡藩士。諱は元道。福岡藩士・喜多岡元賢の3男。

略伝

福岡下警固村に生まれる。筑前藩側筒組に属する。兄2人が養子に出たため、18歳で家督を継いだ。秀才で、(懲役刑)に関する案を作成して藩に提出し、それが採用されて徒罪方を創設して運営に力を発揮し、大頭役所の取締役も兼務した。その実績が認められ、文久2年(1862年)、家老の黒田山城牧市内の推挙を経て、祐筆中頭取に抜擢されて知行百石を受け、永世士籍となった。大蔵谷回駕問題で藩内は緊迫しており、藩の機密に係わるようになる。密命を帯びて京都や大阪を行き来するなど「隠れ目付」としての任務にあたった。

尊王攘夷運動家の平野国臣と親しく、平野が獄中にあるときは待遇改善に努めた。また隣家には野村望東尼が引っ越してきて、親しく近所づきあいをした。望東尼は勇平から藩や周辺の情報を得ている。

文久3年(1863年)の八月十八日の政変後、世子黒田長知の供として京都へ上る。帰国時は長州藩の名誉回復のために奔走した。長州と幕府の対立は、内乱となれば隣の福岡藩としても巻き込まれる恐れがある事で、双方の間に立たされる立場であった。翌年、禁門の変が起きると、京都にいた喜多岡は薩摩藩に対して周旋活動を依頼した。

暗殺

太宰府で5公卿の警護にあたり、交代で自宅に戻って一家で就寝中だった慶応元年6月24日深夜、自宅を刺客に襲われ、暗殺された。45歳。喜多岡宅が襲われた時の物音を、謹慎中であった隣家の望東尼が聞いている。突然戸板が倒れたような大きな音や表を走る足音が聞こえた後、「こんちくしょう、こんちくしょう」と言う声と、何かを打つ音がした。望東尼が家人と灯りを用意している間、夫が死んでいるのを見つけた妻の泣き声が聞こえてきた。喜多岡の妻と娘も斬られて傷を負っていた。

喜多岡を暗殺したのは、月形洗蔵の命を受けた筑前勤王党の伊丹真一郎、藤四郎、戸次彦之助の3人であった。勤王党は加藤司書と月形洗蔵の間で内部対立し、同志討ちや暗殺行動がエスカレートし、無法の過激派集団と化していたのである。

藩内外で信任を集め、長州周旋に多大な功のある重要人物であった喜多岡勇平の暗殺は、藩主・黒田長溥による勤王党一派への処断を決意させるに至った。

参考文献