「シャフティ市電」の版間の差分
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大祖国戦争中の[[1942年]]にシャフティは[[ドイツ軍]]の占領下に置かれ、路面電車も運行停止を余儀なくされた。営業運転が再開されたのは解放後の[[1944年]][[11月5日]]で、以降は路線の復興が進み、[[1962年]]以降は5つの系統による運行が行われた。[[1979年]]の時点で全長35 km、車両数68両の路線網を有し、[[ボギー車]]の[[KTM-5|KTM-5M3]]が主力車両として使用されていた。また、区間によっては2分間隔の高頻度運転も実施されていた{{r|Shakhty-Tram_History_1}}{{r|Shakhty-Tram_History_2}}{{r|Russia_History_St-Petersburg_1}}。 |
大祖国戦争中の[[1942年]]にシャフティは[[ドイツ軍]]の占領下に置かれ、路面電車も運行停止を余儀なくされた。営業運転が再開されたのは解放後の[[1944年]][[11月5日]]で、以降は路線の復興が進み、[[1962年]]以降は5つの系統による運行が行われた。[[1979年]]の時点で全長35 km、車両数68両の路線網を有し、[[ボギー車]]の[[KTM-5|KTM-5M3]]が主力車両として使用されていた。また、区間によっては2分間隔の高頻度運転も実施されていた{{r|Shakhty-Tram_History_1}}{{r|Shakhty-Tram_History_2}}{{r|Russia_History_St-Petersburg_1}}。 |
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だが、[[ソ連崩壊]]後は経済の混乱の影響を受けてシャフティ郊外の鉱山が閉鎖し、シャフティの経済は大きな打撃を受けた。加えて職を失った市民による[[ミニバス]]運行業者の乱立を受けて市電の利用客は減少の一途を辿り、老朽化した車両や施設の更新もままならない状態となった。その結果、1990年代以降は路線網が次々に縮小していき、最後に残された路線も安全性低下を理由に交通警察から撤去要請が出された事で[[2001年]][[12月7日]]をもって廃止された。その後は線路、施設共に全て解体され、車両も現存しない{{r|Shakhty-Tram_History_1}}{{r|Shakhty-Tram_History_2}}{{r|Russia_History_St-Petersburg_1}}。 |
だが、[[ソビエト連邦の崩壊]]後は経済の混乱の影響を受けてシャフティ郊外の鉱山が閉鎖し、シャフティの経済は大きな打撃を受けた。加えて職を失った市民による[[ミニバス]]運行業者の乱立を受けて市電の利用客は減少の一途を辿り、老朽化した車両や施設の更新もままならない状態となった。その結果、1990年代以降は路線網が次々に縮小していき、最後に残された路線も安全性低下を理由に交通警察から撤去要請が出された事で[[2001年]][[12月7日]]をもって廃止された。その後は線路、施設共に全て解体され、車両も現存しない{{r|Shakhty-Tram_History_1}}{{r|Shakhty-Tram_History_2}}{{r|Russia_History_St-Petersburg_1}}。 |
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== 関連項目 == |
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2020年12月26日 (土) 01:16時点における版
シャフティ市電 | |
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基本情報 | |
国 | ロシア連邦 |
所在地 | シャフティ |
種類 | 路面電車 |
路線網 | 5系統(最大)[1] |
開業 | 1932年11月7日[1][2] |
廃止 | 2001年12月7日[1][2][3] |
路線諸元 | |
軌間 | 1,524 mm |
電化区間 | 全区間 |
シャフティ市電(ロシア語: Шахтинский трамвай)は、かつてロシア連邦の都市・シャフティに存在した路面電車。1932年に開通し、郊外の鉱山への通勤輸送を始め多くの市民に利用されたが、2001年に廃止された[1][2][3]。
概要
シャフティは、現:ロシア連邦ロストフ州に位置する、豊富な資源を有する炭鉱都市である。この街をより文化的にするというスローガンの元、路面電車が開通したのは10月革命から10周年を迎えた1932年11月7日で、翌11月13日から定期運転を開始した。翌1933年には2つの路線が完成し、以降もシャフティ近郊の炭鉱へ接続する路線や鉄道と交差する踏切を含めた延伸が続き、第二次世界大戦(大祖国戦争)直前までに総延長22 kmの路線網が築かれていた[1][2][4]。
大祖国戦争中の1942年にシャフティはドイツ軍の占領下に置かれ、路面電車も運行停止を余儀なくされた。営業運転が再開されたのは解放後の1944年11月5日で、以降は路線の復興が進み、1962年以降は5つの系統による運行が行われた。1979年の時点で全長35 km、車両数68両の路線網を有し、ボギー車のKTM-5M3が主力車両として使用されていた。また、区間によっては2分間隔の高頻度運転も実施されていた[1][2][3]。
だが、ソビエト連邦の崩壊後は経済の混乱の影響を受けてシャフティ郊外の鉱山が閉鎖し、シャフティの経済は大きな打撃を受けた。加えて職を失った市民によるミニバス運行業者の乱立を受けて市電の利用客は減少の一途を辿り、老朽化した車両や施設の更新もままならない状態となった。その結果、1990年代以降は路線網が次々に縮小していき、最後に残された路線も安全性低下を理由に交通警察から撤去要請が出された事で2001年12月7日をもって廃止された。その後は線路、施設共に全て解体され、車両も現存しない[1][2][3]。
関連項目
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d e f g h “Под лозунгом «Превратим Шахты в благоустроенный центр» 85 лет назад был запущен городской трамвай”. Блокнот Шахты (2017年11月6日). 2020年6月4日閲覧。
- ^ a b c d e f Зайцева (Ткачева) Александра (2017年11月7日). “Вернут трамвай в Шахты?”. kvu.su. 2020年6月4日閲覧。
- ^ a b c d e Газета "Транспорт России" (2016年9月8日). “Современный трамвай”. ГЭТ Электротранспорт Санкт-Петербурга. 2020年6月4日閲覧。
- ^ “ロシア南部の大農業地域 ロストフ州”. ロシアNIS調査月報: 65-67. (2016-8) 2020年6月4日閲覧。.