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1793年の[[第2次ポーランド分割]]によって[[帝政ロシア]]領となり、[[ミンスク県 (ロシア帝国)|ミンスク県]]ミンスク郡[[:ru:Минский уезд|(ru)]]の[[メステチコ]]となった。その後1921年の[[ポーランド・ソビエト・リガ平和条約|リガ条約]]によって[[ポーランド第二共和国]]領に、1939年の同国の消滅([[ポーランド侵攻]])により[[白ロシア・ソビエト社会主義共和国]]領となった。1939年の人口は約800人であり、うち600人が[[ユダヤ人]]であった<ref>А. Шульман. [http://shtetle.co.il/Shtetls/miory/vstrecha.html Миорские встречи]</ref>。1941年7月3日から1944年7月4日にかけて[[ナチス・ドイツ]]軍に占領されており<ref>[http://archives.gov.by/index.php?id=447717 Периоды оккупации населенных пунктов Беларуси]</ref>、ほぼ全てのユダヤ人が[[ゲットー]](ミョールィ・ゲットー[[:ru:Гетто в Миорах|(ru)]])に送られ、殺害された。
1793年の[[第2次ポーランド分割]]によって[[帝政ロシア]]領となり、[[ミンスク県 (ロシア帝国)|ミンスク県]]ミンスク郡[[:ru:Минский уезд|(ru)]]の[[メステチコ]]となった。その後1921年の[[ポーランド・ソビエト・リガ平和条約|リガ条約]]によって[[ポーランド第二共和国]]領に、1939年の同国の消滅([[ポーランド侵攻]])により[[白ロシア・ソビエト社会主義共和国]]領となった。1939年の人口は約800人であり、うち600人が[[ユダヤ人]]であった<ref>А. Шульман. [http://shtetle.co.il/Shtetls/miory/vstrecha.html Миорские встречи]</ref>。1941年7月3日から1944年7月4日にかけて[[ナチス・ドイツ]]軍に占領されており<ref>[http://archives.gov.by/index.php?id=447717 Периоды оккупации населенных пунктов Беларуси]</ref>、ほぼ全てのユダヤ人が[[ゲットー]](ミョールィ・ゲットー[[:ru:Гетто в Миорах|(ru)]])に送られ、殺害された。


1972年に市に昇格した<ref>[https://dic.academic.ru/dic.nsf/enc3p/198986 МИОРЫ] // Большой Энциклопедический словарь</ref>。[[ソ連崩壊]]を経て[[ベラルーシ共和国]]の市となり、現在に至る。
1972年に市に昇格した<ref>[https://dic.academic.ru/dic.nsf/enc3p/198986 МИОРЫ] // Большой Энциклопедический словарь</ref>。[[ソビエト邦の崩壊]]を経て[[ベラルーシ共和国]]の市となり、現在に至る。


==脚注==
==脚注==

2020年12月26日 (土) 01:03時点における版

座標: 北緯55度37分00秒 東経27度37分00秒 / 北緯55.61667度 東経27.61667度 / 55.61667; 27.61667

ミョールィの位置(ベラルーシ内)
ミョールィ

ミョールィベラルーシ語: Мёры)はベラルーシヴィツェプスク州ミョールィ地区(ru)の市(Горад / ホラド)である。また同地区の行政中心地である[1]

ミョールィ湖(ru)湖岸に位置し、州都ヴィツェプスクから西に190kmの位置にある。人口は2017年の時点で8001人[2]

交通

ドルヤ(ru)とバラパエヴァ(ru)をつなぐ鉄道路線上の駅・ミョールィ駅(ru)がある。自動車道としては、ポラツクブラスラウをつなぐР-14(ru)、ロシア国境(カストロヴァ(be))からコジャヌィ(ru)に至るР-18が市内を通る。

歴史

史料上の初出は1514年であり、リトアニア大公国のブレスラウヤ郡(ru)の1領地として名が記されている[注 1][注 2]。ミョールィとは、フィン・ウゴル系言語で「低地の湖」を意味する言葉が語源であるとする説がある[4]。また、16世紀より知られるミルスキー家(後にスヴャトポルク=ミルスキー家)の家名はミョールィに由来する[5][6]

1793年の第2次ポーランド分割によって帝政ロシア領となり、ミンスク県ミンスク郡(ru)メステチコとなった。その後1921年のリガ条約によってポーランド第二共和国領に、1939年の同国の消滅(ポーランド侵攻)により白ロシア・ソビエト社会主義共和国領となった。1939年の人口は約800人であり、うち600人がユダヤ人であった[7]。1941年7月3日から1944年7月4日にかけてナチス・ドイツ軍に占領されており[8]、ほぼ全てのユダヤ人がゲットー(ミョールィ・ゲットー(ru))に送られ、殺害された。

1972年に市に昇格した[9]ソビエト連邦の崩壊を経てベラルーシ共和国の市となり、現在に至る。

脚注

注釈

  1. ^ 「ブレスラウヤ」はリトアニア語: Breslaujaによる。ベラルーシ語: Браслаў:ブラスラウ。
  2. ^ 「領地」はロシア語: Поместьеの訳(他に封地・知行所の訳語があてられる)[3]。詳しくはru:Поместьеを参照されたし。

出典

  1. ^ Миоры // Географическая энциклопедия
  2. ^ Колькасць насельніцтва на 1 студзеня 2017 г. і сярэднегадавая колькасць насельніцтва за 2016 год па Рэспубліцы Беларусь у разрэзе абласцей, раёнаў, гарадоў і пасёлкаў гарадскога тыпу
  3. ^ 井桁貞義編 『コンサイス露和辞典』 三省堂、2009年。P772
  4. ^ Умпирович, Дмитрий. Люди и птицы на болоте.
  5. ^ Святополк-Мирские — владельцы Мирского замка
  6. ^ 服部倫卓・越野剛編著 『ベラルーシを知るための50章』明石書店、2017年。P95
  7. ^ А. Шульман. Миорские встречи
  8. ^ Периоды оккупации населенных пунктов Беларуси
  9. ^ МИОРЫ // Большой Энциклопедический словарь