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日本の妻は2007年に<ref name="knp">{{Cite news|url=http://www.kyoto-np.co.jp/info/bongo/20150703_2.html|title=凡語 蜂谷弥三郞さん|newspaper=[[京都新聞]]|date=2015-07-03|accessdate=2018-01-28}}</ref>、クラウディアは2014年9月に死去<ref name="sankei"/>。クラウディアは死去の一週間前に、蜂谷の声が聞きたいというメッセージを送ったが、蜂谷はすでに病床にあったため実現しなかった<ref name="sankei"/>。その9か月後に蜂谷も世を去った<ref name="ynp"/>。
日本の妻は2007年に<ref name="knp">{{Cite news|url=http://www.kyoto-np.co.jp/info/bongo/20150703_2.html|title=凡語 蜂谷弥三郞さん|newspaper=[[京都新聞]]|date=2015-07-03|accessdate=2018-01-28}}</ref>、クラウディアは2014年9月に死去<ref name="sankei"/>。クラウディアは死去の一週間前に、蜂谷の声が聞きたいというメッセージを送ったが、蜂谷はすでに病床にあったため実現しなかった<ref name="sankei"/>。その9か月後に蜂谷も世を去った<ref name="ynp"/>。

2020年12月26日 (土) 01:03時点における版

蜂谷 彌三郎(はちや やさぶろう、1918年大正7年) - 2015年平成27年)6月)は、日本シベリア抑留経験者。釈放後にソビエト連邦の女性と結婚して約40年間居住の後、日本に帰国した。名前は蜂谷三郞とも表記される。

経歴

滋賀県草津市出身[1]。1941年に結婚して妻および両親と朝鮮半島に移住し、陸軍の軍属として勤務する[1]。この間に1女をもうけた[1]

朝鮮半島で太平洋戦争の終戦を迎える[2]。翌1946年7月に、家宅捜索を受けてソ連[3]の軍隊に強制連行され、裁判を受けてシベリアで強制労働に従事する[1]。ソ連側からの容疑は身に覚えのないスパイ行為であった[2]。収容所内では理容とマッサージを修得することで、生き延びることができた[1]

1953年に収容所から釈放される[2]。しかし帰国を許可されなかったことからソ連の国籍取得を決断する[2][1]。釈放後、収容経験のあるクラウディア・レオニードヴナと知り合い[1][2]、1962年に結婚した[4]。 以来約40年間ソ連→ロシアに居住した[1][2][4]。この間、日本語を忘れないために漢字の書き取りや日本の歌や言葉の暗誦を欠かさなかったという[1]

ソビエト連邦の崩壊後も秘密警察への恐れから日本との連絡を控えたが、1996年に手紙で家族(妻子)の安否が確認され、娘夫婦がロシアに来て再会を果たす[1]。翌1997年に蜂谷は妻子がいる日本に帰国[2]。クラウディアは帰国のために助力し、帰国の荷物の中に「他人の悲しみの上に私だけの幸福を築き上げることは、私にはどうしてもできません」というメッセージをひそかに入れていた[2]。帰国後、蜂谷の経歴は、テレビドキュメンタリー化[4]やドラマ化・舞台化[5]もなされた。ロシアの妻からは毎週、蜂谷に手紙が送られてきたという[4]

日本の妻は2007年に[5]、クラウディアは2014年9月に死去[2]。クラウディアは死去の一週間前に、蜂谷の声が聞きたいというメッセージを送ったが、蜂谷はすでに病床にあったため実現しなかった[2]。その9か月後に蜂谷も世を去った[1]

著書

  • 『望郷 二つの国 二つの愛に生きて』致知出版、2012年

蜂谷を扱った作品

書籍
  • 村尾靖子『クラウディア 奇跡の愛』海跡者、2003年
  • 村尾靖子(文)小林豊(絵)『クラウディアのいのり』ポプラ社、2008年
  • 村尾靖子『クラウディアの祈り』ポプラ社、2009年
演劇
  • 『クラウディアからの手紙』2006年、世田谷パブリックシアター他[6]
テレビドキュメンタリー
テレビドラマ

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k “つなぐ 戦後70年 とっとり 過酷な運命生き抜く<1>”. 読売新聞. (2015年8月13日). http://www.yomiuri.co.jp/local/tottori/feature/CO018351/20150813-OYTAT50101.html 2018年1月28日閲覧。 
  2. ^ a b c d e f g h i j “【産経抄】最後の望み”. 産経新聞. (2014年9月9日). http://www.sankei.com/column/news/140909/clm1409090002-n1.html 2018年1月28日閲覧。 
  3. ^ 当時朝鮮半島北部を占領していた。
  4. ^ a b c d e NNNドキュメント'98 クラウディアからの手紙 - 放送ライブラリー
  5. ^ a b “凡語 蜂谷弥三郞さん”. 京都新聞. (2015年7月3日). http://www.kyoto-np.co.jp/info/bongo/20150703_2.html 2018年1月28日閲覧。 
  6. ^ “『クラウディアからの手紙』公開舞台稽古”. シアターガイド. (2006年1月17日). http://www.theaterg-ide.co.jp/theater_news/2006/01/17_02.php 2018年1月28日閲覧。 

外部リンク