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「ウクライナ蜂起軍」の版間の差分

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== ウクライナにおける名誉回復 ==
== ウクライナにおける名誉回復 ==
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しかし、[[2014年ウクライナ騒乱|2014年マイダン革命]]により親露派の[[ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ]]大統領が失脚し、反露派の[[ペトロ・ポロシェンコ]]が大統領に就任した。ボロシェンコ政権(2014年 - 2019年)は、旧ソ連の「残滓」を取り除く政策を数多く行った<ref>{{Harvnb|グレンコ|2019|p=|pp=|loc=位置No. 2102/2114, 第4章 ウクライナはこうして共産主義を排除した - 4 2019年大統領選挙が示す不安 - なぜポロシェンコ政権が不人気なのか}}</ref>。その結果、ウクライナにおける歴史認識は大きく変化し<ref>{{Harvnb|グレンコ|2019|p=|pp=|loc=位置No. 1959/1969, 第4章 ウクライナはこうして共産主義を排除した - 2 共産主義プロパガンダ禁止法 - ウクライナ人の歴史認識の転換}}</ref>、ウクライナ蜂起軍も名誉回復がなされた<ref name=":0" />。ウクライナの祝日「祖国防衛者の日」は、2014年から、ウクライナ蜂起軍の創設日である10月14日に移動した<ref name=":0" />{{Efn|[[2014年]]にウクライナ蜂起軍の名誉回復がなされるまでは、ウクライナでは、旧ソ連時代から引き続き、[[赤軍]]の創設日である2月23日を「祖国防衛者の日」としていた<ref name=":0" />。}}。
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2020年12月26日 (土) 00:40時点における版

ウクライナ蜂起軍
独ソ戦に参加
ウクライナ蜂起軍の戦功十字章
活動期間 1942年-1954年
活動目的 反独反ソ反ポーランド反チェコスロバキアのウクライナ独立
指導者 ロマン・シュヘーヴィチ英語版
活動地域 ウクライナ
関連勢力 ウクライナ民族主義者組織
ウクライナ国民共和国亡命政府
敵対勢力 ナチス
ソ連
ポーランド国内軍
ポーランド軍
チェコスロバキア
赤軍パルチザン
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ウクライナ蜂起軍ウクライナ語: Українська повстанська армія, УПА英語: Ukrainian Insurgent Army、UPAとも)は、ウクライナに存在した反体制武装組織。独ソ戦中の1942年10月に結成され、おもに西ウクライナにおいて、赤軍ドイツ軍の双方に対するパルチザンレジスタンス活動を行い、第二次世界大戦終結後もソ連と戦った。

ソ連とその後継国家であるロシアにおいては「ナチス協力者」「戦争犯罪者」と扱われているが、ウクライナにおいては2014年に名誉回復がなされた。

概要

UPAを指揮したロマン・シュヘーヴィチ

ドイツ軍の暴虐にウクライナ人農民は各地で抵抗していたが、やがて1942年10月、ヴォルイニでウクライナ蜂起軍を結成し、ウクライナ民族主義者組織(OUN)の軍事組織と合体しロマン・シュヘーヴィチ英語版司令官となった。ドイツ軍や赤軍パルチザンと戦い、ポーランドでも活動した。1943年には4万の勢力を有していたが、外国からの援助はほとんど得られなかった。翌年、ドイツが敗走して再びソ連軍がやってくると、対ソゲリラ活動を開始し、西ウクライナのかなりの部分を掌握する。しかし、ベルリン陥落後、ソ連はUPA撲滅に全力を注ぎ、支持層の地域住民の追放、ポーランドやチェコスロバキアと共同軍事行動を起こし、ポーランドでは国内のウクライナ人を強制退去させる「ヴィスワ作戦」が行われた。また、農業集団化によって食糧を得にくくなり、戦略ミスによって支持者が離れ、1950年に司令官のシュヘーヴィチが戦死すると活動停止状態になる。数年間にわたって散発的に戦い続けたが、活動を終息した残党は西ヨーロッパ、特に西ドイツや、支援者の移民がいるアメリカ合衆国に逃亡した。

ウクライナにおける名誉回復

ウクライナ蜂起軍は、ソ連や後継のロシア連邦の歴史認識では「ナチス協力者」「戦争犯罪者」と扱われている[1]。ウクライナは1991年ソビエト連邦の崩壊によって独立を果たしたが、しばらくはソ連時代の歴史認識の影響が強いままだった[1]

しかし、2014年マイダン革命により親露派のヴィクトル・ヤヌコーヴィチ大統領が失脚し、反露派のペトロ・ポロシェンコが大統領に就任した。ボロシェンコ政権(2014年 - 2019年)は、旧ソ連の「残滓」を取り除く政策を数多く行った[2]。その結果、ウクライナにおける歴史認識は大きく変化し[3]、ウクライナ蜂起軍も名誉回復がなされた[1]。ウクライナの祝日「祖国防衛者の日」は、2014年から、ウクライナ蜂起軍の創設日である10月14日に移動した[1][注釈 1]

脚注

注釈

  1. ^ 2014年にウクライナ蜂起軍の名誉回復がなされるまでは、ウクライナでは、旧ソ連時代から引き続き、赤軍の創設日である2月23日を「祖国防衛者の日」としていた[1]

出典

  1. ^ a b c d e ナザレンコ 2019, pp. 26–29, 第1章 国を守るということ-ウクライナの教訓 - クリミアの悲劇と祖国回復の動き
  2. ^ グレンコ 2019, 位置No. 2102/2114, 第4章 ウクライナはこうして共産主義を排除した - 4 2019年大統領選挙が示す不安 - なぜポロシェンコ政権が不人気なのか
  3. ^ グレンコ 2019, 位置No. 1959/1969, 第4章 ウクライナはこうして共産主義を排除した - 2 共産主義プロパガンダ禁止法 - ウクライナ人の歴史認識の転換

参考文献

  • 黒川祐次著 『物語ウクライナの歴史 : ヨーロッパ最後の大国』 (中公新書; 1655)-東京 : 中央公論新社, 2002年. ISBN 4121016556
  • グレンコ・アンドリー『ウクライナ人だから気づいた日本の危機 - ロシアと共産主義者が企む侵略のシナリオ』(Amazon Kindle育鵬社、2019年。 
  • ウクライナ・ナショナリズム / 中井和夫. — 東京大学出版会, 1998.11
  • ナザレンコ・アンドリー『自由を守る戦い - 日本よ、ウクライナの轍を踏むな!』明成社、2019年。 
  • ポーランド・ウクライナ・バルト史 / 伊東孝之,井内敏夫,中井和夫. — 山川出版社, 1998.12. — (新版世界各国史; 20)

外部リンク