「アルメニア第一共和国」の版間の差分
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しかし隣接する[[アゼルバイジャン民主共和国]]とは折り合いが悪く、[[ナゴルノ・カラバフ]]をめぐって交戦した。また[[1918年]]には[[グルジア民主共和国]]とも短期の戦争になった。そのうちに北からは[[ボリシェビキ]]の、西からは[[ムスタファ・ケマル・アタテュルク|ムスタファ・ケマル・パシャ]]の率いる[[トルコ]]のアンカラ政府からの圧迫を受け、[[1920年]]12月2日には[[赤軍]]が首都[[エレバン]]に入城し政権は崩壊、[[アルメニア・ソビエト社会主義共和国]]の樹立が宣言された。 |
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[[ソ連崩壊]]後のアルメニアは、自己を「第二共和国」と規定し、この時期の政体を「'''第一共和国'''」と呼称することで、両者の連続性を強調している<ref>{{Cite journal|和書|author = [[吉村貴之]]|date = 2002-04|title = アルメニア / 『第二共和国』の政治 - 安定か停滞か|journal = アジ研ワールド・トレンド|volume = 8|issue = 第4号(通巻第79号)|page = 31|publisher = [[アジア経済研究所]]広報部|issn = 13413406|naid = 40005089033}}</ref>。 |
[[ソビエト連邦の崩壊]]後のアルメニアは、自己を「第二共和国」と規定し、この時期の政体を「'''第一共和国'''」と呼称することで、両者の連続性を強調している<ref>{{Cite journal|和書|author = [[吉村貴之]]|date = 2002-04|title = アルメニア / 『第二共和国』の政治 - 安定か停滞か|journal = アジ研ワールド・トレンド|volume = 8|issue = 第4号(通巻第79号)|page = 31|publisher = [[アジア経済研究所]]広報部|issn = 13413406|naid = 40005089033}}</ref>。 |
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なお、1920年7月にアルメニア政府(首相ハモ・オハンジャニャン)によって駐日アルメニア共和国領事に任命されたダイアナ・アガベッグ・アプカー([[:en:Diana Abgar|Diana Agabeg Apcar]]、1859-1937)は、世界初の女性外交官と言われている<ref name=merine>[https://tohoku.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=66545&item_no=1&attribute_id=18&file_no=1 ダイアナ・アプカーの日本における人道的活動―アルメニア人大虐殺(1915-23)を逃れた避難民の救済]メスロピャン メリネ、国際文化研究22号、2016-03-31</ref>。ダイアナは1889年に新婚旅行で日本を訪れたのをきっかけに、1891年から夫ともに日本で商売を始め、1937年に横浜で亡くなった<ref name=merine/>。 |
なお、1920年7月にアルメニア政府(首相ハモ・オハンジャニャン)によって駐日アルメニア共和国領事に任命されたダイアナ・アガベッグ・アプカー([[:en:Diana Abgar|Diana Agabeg Apcar]]、1859-1937)は、世界初の女性外交官と言われている<ref name=merine>[https://tohoku.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=66545&item_no=1&attribute_id=18&file_no=1 ダイアナ・アプカーの日本における人道的活動―アルメニア人大虐殺(1915-23)を逃れた避難民の救済]メスロピャン メリネ、国際文化研究22号、2016-03-31</ref>。ダイアナは1889年に新婚旅行で日本を訪れたのをきっかけに、1891年から夫ともに日本で商売を始め、1937年に横浜で亡くなった<ref name=merine/>。 |
2020年12月26日 (土) 00:33時点における版
- アルメニア共和国
- Հայաստանի Հանրապետություն
-
← 1918年 - 1920年 →
→
→(国旗) (国章) - 国の標語: 無し
- 国歌: 我が祖国
- 実際の勢力圏領土主張圏セーヴル条約で与えられた領土
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公用語 アルメニア語 首都 エレバン - 首相
-
1918年5月30日 - 1919年12月2日 ホヴハンネス・カチャズヌニ 1919年 - 1920年 アレクサンドル・ハティシアン (ru) 1920年5月 - 11月 ハモ・オハンジャニアン (en:Hamo Ohanjanyan) 1920年11月 - 12月 ハモ・オハンジャニアン - 面積
-
1919年 70,000km² 1920年 160,000km² - 人口
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1918年 500,000人 1919年 1,300,000人 - 変遷
-
独立 1918年5月28日 ボリシェヴィキに権力を移譲 1920年12月2日
通貨 アルメニア・ルーブル
アルメニア共和国(アルメニアきょうわこく、アルメニア語: Հայաստանի Հանրապետություն)は、ロシア革命後、1918年から1920年にかけてアルメニアに存在した国家である。ザカフカース民主連邦共和国の崩壊にともない独立・建国されたもので、民族主義的な社会主義政党のアルメニア革命連盟(ダシュナク党)を政権の中軸としていた。またセーヴル条約ではオスマン帝国から広大な領土を編入することになっていた。
しかし隣接するアゼルバイジャン民主共和国とは折り合いが悪く、ナゴルノ・カラバフをめぐって交戦した。また1918年にはグルジア民主共和国とも短期の戦争になった。そのうちに北からはボリシェビキの、西からはムスタファ・ケマル・パシャの率いるトルコのアンカラ政府からの圧迫を受け、1920年12月2日には赤軍が首都エレバンに入城し政権は崩壊、アルメニア・ソビエト社会主義共和国の樹立が宣言された。
ソビエト連邦の崩壊後のアルメニアは、自己を「第二共和国」と規定し、この時期の政体を「第一共和国」と呼称することで、両者の連続性を強調している[1]。
なお、1920年7月にアルメニア政府(首相ハモ・オハンジャニャン)によって駐日アルメニア共和国領事に任命されたダイアナ・アガベッグ・アプカー(Diana Agabeg Apcar、1859-1937)は、世界初の女性外交官と言われている[2]。ダイアナは1889年に新婚旅行で日本を訪れたのをきっかけに、1891年から夫ともに日本で商売を始め、1937年に横浜で亡くなった[2]。
脚注
- ^ 吉村貴之「アルメニア / 『第二共和国』の政治 - 安定か停滞か」『アジ研ワールド・トレンド』第8巻第4号(通巻第79号)、アジア経済研究所広報部、2002年4月、31頁、ISSN 13413406、NAID 40005089033。
- ^ a b ダイアナ・アプカーの日本における人道的活動―アルメニア人大虐殺(1915-23)を逃れた避難民の救済メスロピャン メリネ、国際文化研究22号、2016-03-31