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「張作霖爆殺事件ソ連特務機関犯行説」の版間の差分

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2020年12月26日 (土) 00:24時点における版

爆破直後の状況、列車の残骸から黒煙が上がっている

張作霖爆殺事件ソ連特務機関犯行説(ちょうさくりんばくさつじけんそれんとくむきかんはんこうせつ)とは1928年6月4日に発生した張作霖爆殺事件は、通説の日本人軍人であった河本大作による策謀ではなく、ソ連赤軍特務機関による犯行であるとする説である。ロシア人歴史作家[1][2]ドミトリー・プロホロフが最初に主張した。

概要

ソビエト連邦の崩壊以前から旧ソ連・ロシアの特務機関活動を専門に執筆活動していた、ドミトリー・プロホロフは、2000年に共著『GRU[3]帝国』[4]を出版したが、そのなかで分析の結果として、張作霖殺害にソ連の特務機関が関与していることを唱えた。それによれば、ソ連の職業的諜報員だったナウム・エイチンゴンが日本軍の仕業に見せかけて実行したという説である。

2005年に出版されたユン・チアンジョン・ハリデイの共著による『マオ 誰も知らなかった毛沢東』に、張作霖謀殺に関して「張作霖爆殺は一般的には日本軍が実行したとされているが、ソ連情報機関の資料から最近明らかになったところによると、実際にはスターリンの命令にもとづいてナウム・エイチンゴンが計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだという」との記述[5]がある。

プロホロフによれば[6][7]、日本の支援で満州を支配していたが、ソ連政府は張作霖と1924年9月に「中国東北鉄道条約[8]」を締結し友好関係[9]を結んでいた。

しかし張作霖軍の鉄道代金未納が1400万ルーブルに及んだ為に、ソ連政府が鉄道使用禁止を通達したところ、張作霖はソ連人の鉄道管理官を逮捕し[10]、実効支配[11]したとしている。これら張作霖の反ソ的な姿勢に加え、ソ連が支援した対中国国民党に対する軍事行動に失敗したことから、1926年9月に張作霖排除を決行を決定しフリストフォル・サルヌイン[12]が立案し、特務機関のレオニード・ブルラコフ[13]によって奉天にある張作霖の宮殿に地雷を敷設して爆殺する計画を立てたが、ブルラコフらが逮捕されたため失敗した。

だが、張作霖が1928年に反ソ反共の満州共和国創設を日本政府と協議したことから、ソ連特務機関は再度暗殺計画を立案し、実行責任者としてナウム・エイチンゴンが任命され爆殺に成功したとしている。また、プロホロフは極東国際軍事裁判(東京裁判)で関東軍元幹部が犯行を認める証言をしたことについて「その幹部は戦後、ソ連に抑留され、ソ連国家保安省が準備した内容の証言をさせられた。日本が張作霖を暗殺しなければならない理由はなく、ソ連が実行した」と主張している[14]。なお、プロホロフは2009年12月に訪日している。またアパグループ元谷外志雄代表はプロホロフの住むサンクトペテルブルクを訪問し彼と対談しているが、そのなかで実行犯の名指しはしていないが、日本軍の仕業に見せかけるために「日本軍に属していたエージェント(ソ連の工作員)が、サルヌインの指令を受けて、爆弾を仕掛けたと考えられます」と主張[1]している。

また、中西輝政加藤康男らはイギリスの秘密外交文書に、ソ連が事件を引き起こした可能性には一定の形跡があるとの指摘があるとする。その理由としてソ連は日本に劣らない満州進出・開拓計画を持っていたこと、1927年4月の在北京ソ連大使館襲撃以来、張作霖は万里の長城の内外でソ連に最も強硬に反抗してきたこと、ソ連は張作霖と日本を反目させ、間接的にソ連自身の計画を進展させたいと願っていたこと、張作霖の強い個性と中国での権利を守ろうとする決意は、ソ連が満州での野望を実現する上での一番の障害であったことなどを挙げている。そして、もっともあり得るシナリオは、ソ連がこの不法行為のお膳立てをし、日本に疑いが向くような場所を選び、張作霖に敵意を持つような人物を使った、ということだろう、と記載されているという[15][16]

日本での評価

本説紹介直後の議論

除隊後の河本大作

本説がユン・チアンマオ 誰も知らなかった毛沢東』日本語訳版の中で簡単に触れられていたことから、2006年、一部ジャーナリズムで注目され、何人かの言論人の間で賛否双方の立場から議論が交わされたことがあった。

否定側の論者である秦郁彦は、肯定側が「事実や因果関係の論証」よりも「政治的次元でのキャンペーンを優先したせいで」「論点はあまり噛み合わなかった」としている[17]

肯定論者の主張

中西輝政は著書『歴史の書き換えが始まった!』において、『文藝春秋』1954年12月号に載った「私が張作霖を爆殺した」(いわゆる、河本告白記)が、河本の義弟で作家の平野零児による口述筆記であり、平野が戦前は治安維持法で何度か警察に捕まったとされる人物[18]であると主張[19]し、事件に関する内容の「殆ど全部が伝聞資料」であるとし、文藝春秋に平野が持ち込んだ原稿ではない[20]ことや、当時の英国情報部も独自の調査でソ連犯人説を採用している事などを根拠[21]にソ連の関与を肯定する主張をしている。

中西は文藝春秋の『諸君!』2006年6月号の瀧澤一郎(元防衛大学校教授)らによる『あの戦争の仕掛人は誰だったのか!?』と題する座談会の中の「張作霖爆殺の犯人はソ連諜報員か」との中で『日本側の史料として特に重要なのは、田中隆吉証言です。彼は東京裁判で「河本大佐の計画で実行された」などと検察側証人として証言していますが、その根拠はすべて伝聞[22]で、特にこの人物の背景をもう一度掘り下げて調べる必要があります。またそれ以降に出た数々の「河本大佐供述書」も、二十数年後に中共が作成したもの[23]で信憑性はずいぶん低い』と主張している。中西はまた事件当時、英国の陸軍情報部極東課が調査し、ソ連の仕業だとの報告を本国へ報告。報告を受けた英国政府は日本政府が関東軍の仕業と判断した事を知り、念のために再調査した所、やはりソ連の謀略であるとの結論を出したと主張している。また河本がやったと主張したのは「そういう洗脳工作によって河本大作は本当に「自分でやった」と信じていたのかも知れません」とソ連工作員に洗脳されたと主張している。

この説を前述の「誰も知らなかった毛沢東」を根拠[24]に「実証」されたものであると、田母神俊雄「真の近現代史観」懸賞論文第一回最優秀藤誠志賞受賞論文および著作『田母神塾―これが誇りある日本の教科書だ』のなかで、爆破は下方の線路側からのものではないとの判断を根拠にソ連コミンテルン陰謀説を主張[25]している。それによれば、張作霖が乗車していた客車の破壊は車両上部に集中している事から、車両の走る線路路盤に仕掛けた爆弾が炸裂したのではなく、上から攻撃された[26]とし、客車の上部が破損しているが、客車の足回りが破損していない。よって状況が違うから関東軍の関与はなかったと主張している。また加藤康男も『謎解き「張作霖爆殺事件」』の中で当時の写真を基に列車の上部が破壊し客室内部が焼損しているのに対し、客車の側面や足回りが破損しておらず、外部からの強い衝撃を受けたにも関わらず殆ど脱線もしていないことに疑問を呈している。

『正論』2006年5月号[27]によれば、この謀殺は周到に計画されたものであり、日本軍特務機関がやったように見せかけたとしている。特別列車が爆破されたとき、張作霖の乗っていた車両の隣の客車にはソ連諜報員のイワン・ヴィナロフ[28]が乗車[29]しており、事件現場の写真を撮った[30]としており、中西は『諸君!』2006年6月号で『エイティンゴは、橋梁や線路の爆破ぐらいでは致命傷は与えられないから、自分たちが爆破に直接関係したと言って、客車の写真を撮って、それを自分の功績、証拠として、その壊れた客車の写真を自分の回顧録にわざわざ載せて、そして自分がやったんだとはっきり言っているんですね』と、写真はソ連工作員が直接撮影したとしている。

前述の田母神と親交があり彼の歴史観に影響を与えたといわれている元谷外志雄は『日本は東京裁判史観に苦しんでいるのです。「日本が侵略戦争を始めた」という嘘の歴史を基に、中国や韓国アメリカが日本をいまだに貶めている』と述べて[1]いる。プロホロフは、これにたいし「そうかもしれません。ただ、東から西への大規模な軍の移動というのは、ありませんでした。強兵で知られていた極東のソ連軍は、配備されたままでした」として、対日戦をせずに対独戦にソ連が勝利できたという元谷の主張に同意[1]したほか、「東京裁判でも、日本人の実行者や命令者の証言があり、関東軍犯行説が定説化していったのです。しかし東京裁判でも、ニュールンベルグ裁判でも、ソ連は自国の国益のために、日本人を含む多くの証人に偽証をさせているのです。これらの裁判の証言を信用してはいけません」[1]としている。なお彼は物的証拠があるとすればロシア連邦大統領の古文書保管所にあるはずだと主張」[1]している。

瀧澤は、「日本犯行説」の根拠としてよく引用される河本大作の「手記」と立野信之の小説『昭和軍閥』に関して疑問を呈しており、「なぜ中国の歴史家たちが学術論文の傍証に小説を引用するのか理解に苦しむ。」とし、立野宅には党員作家小林多喜二が隠れており逮捕されたこともあるように、立野とは「プロレタリア作家であり、このような人物が書いたものは「自虐史観」に囚われる可能性は十分に考えられる」としている。また河本大作の手記が世に出ると「日本犯行説」を当然のものとして疑わない多くの著者たちは、この「手記」をこぞって引用したが、しかしこれは河本の自筆ではなく、義弟で作家の平野零児が「私が河本の口述を基にして筆録したもの」と主張しているものであり、本当に口述を基としているのかの証拠もなく信頼性が低いもので、また平野は「中共」の収容所から帰国した人物で「マインド・コントロール」が解けないまま、特殊目的を持ってこの「手記」を記述したことも十分に考えられるとしている。そして著書『GRU帝国』について「出版されて間もない頃、筆者はたまたまモスクワの本屋で見つけ、おもしろいので一気に読み終えた。とりわけ張作霖爆殺の「ソ連犯行説」は興味深く読んだが、情報の出所が明示されていないのが気になり、他の裏付け情報が現れるのを待っていた。ところが、出版から五年以上たった今でも、なにも出てこないのである。ここが「ソ連犯行説」の最大の弱みなのだ。この「新説」はロシアの新聞や雑誌でも紹介されてはいるが、根拠となっているのはいつもコルパキヂ=プロホロフ説なのである。」と批判しつつ、一方で「ソ連犯行説」も「日本犯行説」も、現段階では決定的説得力に欠けており、特に「日本犯行説」に数々の捏造疑惑があるのに反して、「ソ連犯行説」は、あと一つか二つのソ連側の資料が出てくれば決着し、これは時間の問題だとしている[31]

疑問点の指摘

この説は「旧ソ連共産党や特務機関に保管されたこれまで未公開の秘密文書から判明した事実」として紹介されているが、『正論』2006年4月号のインタビュー記事のプロホロフの説明によると「従来未公開のソ連共産党や特務機関の秘密文書を根拠とする」ものではなく「ソ連時代に出版された軍指導部の追想録やインタビュー記事、ソ連崩壊後に公開された公文書などを総合し分析した結果から、張作霖の爆殺はソ連特務機関が行ったのはほぼ間違いない」としている。これについて「実行の様子の説明がない」と、インタビューした内藤泰郎産経新聞モスクワ支局長と解説を担当した藤岡信勝拓殖大学教授新しい歴史教科書をつくる会(以下、つくる会)会長)は指摘し、藤岡は以下の3つのシナリオが考えられるとした。

  1. ソ連特務機関が関東軍のやったことを自分達がやったように報告した。
  2. プロホロフの情報が真実で日本側のこれまでの記録、証言などがすべて作り話だった。
  3. 河本大佐以下の関東軍軍人が丸ごとソ連特務機関に取り込まれ事件を起こした。

秦郁彦は「プロホロフが引用しているヴィナロフ撮影の写真なるものは未見なので評価しにくいが、爆破現場にかけつけたカメラマンによって撮影され新聞や雑誌に掲載したものは数多いので、そのコピーという可能性もある」としている。そのため、伊藤隆は、一応ソ連情報機関の内部資料は存在すると仮定した上で「私はエイティンゴンが自分の手柄にするために、報告書でもデッチ上げて書いたんじゃないかという印象を受けましたね」「私はやはり日本の軍部がやったと考えています」[32]と主張している。

また、秦は「ソ連犯行説は西郷隆盛が西南戦争で死なず生き延びたたぐいの妄想に見える。プロホロフによる張作霖と日本およびソ連との事件直前の状況が、「張作霖爆殺はコミンテルンの仕業」と主張する人間たちを事実に基づかない妄言であり歴史を捏造するもの」(下記論稿を参照)と主張している。また田母神の一連の主張に対し田岡俊次との対談で張作霖事件も含めて「コミンテルンの陰謀論が四つも五つも出てくる。歴史上の出来事はすべて特定の人間や団体の陰謀によって起きたという「陰謀史観」を唱える人は少なくないが、ふつうは一つか二つしか出さないものなのに」「このソ連情報機関の資料というのは、元KGB職員だったプロホルフという若い作家が書いた本を指しているのだと思いますが、彼は文書資料によって書いたわけではない。メディアの取材にも「そういう話を聞いたことがある、というだけだ」と語っています。泡みたいな話ですよ」と主張している[33]。また秦は保守言論誌『Will』 2009年2月号で反論『陰謀史観のトリックを暴く』を投稿し、中西のソ連犯行説を批判している。また前述の田母神の主張に影響を与えたと『週刊朝日』(朝日新聞出版)に指摘された元谷外志雄は、後述の会談の中で「河本が中華民国政府に収容所に入れられていた」などの事実ではない[34]事を述べた。

『マオ 誰も知らなかった毛沢東』の日本語版の当該箇所は「張作霖爆殺事件は、一般的には日本軍が実行したとされているが、ソ連情報機関の資料から最近明らかになったところによると、実際にはスターリンの命令に基づいてナウム・エイティンゴン(のちにトロツキー暗殺に関与した人物)が計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだという」であるが、英語による原文は"This assassination is generally attributed to the Japanese, but Russian intelligence sources have recently claimed that it was in fact organized, on Stalin’s orders, by the man later responsible for the death of Trotsky, Naum Etingon, and dressed up as the work of the Japanese"とあり、「見せかけたという主張もある」とも受け取れるという指摘[35]もある[36]

イギリスの極秘外交文書においてソ連犯行説が言及されていることについて、秦郁彦はその出典がアンソニー・ベストの『一九一四―一九四一年の英諜報とアジアにおける日本の挑戦』であると指摘。同書では「ソ連が主役」だとするMI12C(英陸軍情報部極東課)による1928年10月の報告書WO106/5750の引用に引き続いて、「暗殺は関東軍の一部によって遂行された」との駐日大使よりの報告FO371/13889について言及されているとしている。この記述をもとに秦は「誤った情報判断を修正したはずと想像していたが、予想通りだった」「中西は(後半の「ソ連が主役」だとするMI12Cの判断の過ちが修正されたとの記述を)見落としたのだろうか」と述べている[37]

「つくる会」の対応

2009年1月に実施された大学入試センター試験「日本史」で、出題文の中に「関東軍参謀河本大作らが、中国軍閥の一人である張作霖を、奉天郊外において爆殺した」と記述されていることについて、つくる会は「歴史学界でも異説があるところであり、設問として不適切」だと抗議[38]した。センター側はこれに対して、「試験問題は、高等学校学習指導要領に基づく高等学校『日本史A』,『日本史B』の教科書に準拠し」たものであり、「貴殿から御指摘のあった設問についても同様であり、今般の出題は適切なものと考えている[39]」と回答した。

この回答に対して「つくる会」は、高校の日本史教科書に載っている多くの事柄から、「異論が提起されている」問題をあえて選択した同センターの見識に疑義を呈し、また日本軍の「悪行」とされている問題のみを列挙するような設問の仕方は、偏向した歴史認識に基づくものであると言わざるを得ず、設問として相応しくないとの見解を発表した[39]

しかし、『史学雑誌』『歴史学研究』では「異説を唱えている」専門家は見当たらず、かつて「新しい歴史教科書をつくる会」に関わったことのある近代史家の伊藤隆・秦郁彦のいずれも「特務機関犯行説」を支持していない。「つくる会」側も「歴史学界で異説を誰が提起しているのか」を言及していない。

つくる会自身が編纂した中学校用歴史教科書である「改訂版 新しい歴史教科書」[40](扶桑社刊)及び「新版 新しい歴史教科書」においても、張作霖爆殺事件を「関東軍によるもの」と記載している[41]

歴史学者の対応

2020年現在、この説が歴史学の専門誌である『史学雑誌』『歴史学研究』で採り上げられたことはない[42]。また、本説が日本で紹介されたあとに出版された、日本近代史の専門家による日本近代史概説書[43]や、17世紀以降の満洲史の概説書[44]、近代史における主要人物の満洲での活動を概観した著書[45]などでもこの事件は通説通り関東軍河本大佐らの犯行であると断定した記述がされており、「ソ連特務機関犯行説」は言及されていない。

文部科学省検定済みの歴史教科書でも、本説に触れたものは存在していない。

プロホロフと元谷外志雄の対談

ドミトリー・プロホロフは前述のように元谷と対談した際「1928年の張作霖の爆殺事件はソ連の特務機関の犯行だ」という、対談をしている[1]

それによれば、張作霖は白軍を支援しており、東清鉄道をめぐりソ連とは決定的に対立していたのが事件の動機であり、サルヌインだけではなく、他のソ連の工作員のエージェントも関東軍に入り込んでいたのは事実であり、日本軍に属していたエージェントが、サルヌインの指令を受けて、爆弾を仕掛けたと語った。また一度のみならず1926年9月には、サルヌインがブラコロフという実行者を使って、奉天の張作霖の宮殿で彼を爆殺する計画をたて、中国当局に発見されて失敗した未遂事件も語った[1]

この対談ではアパグループの元谷外志雄が、張作霖爆殺事件に関し、日本側における肯定論の根拠についてについてプロホロフと様々な意見交換を行っている。まず中西の主張したブルガリア人のイワン・ヴィナロフが同じ列車に乗っていたと説について、元谷は「(イワン・ヴィナロフの)『秘密戦の戦士』という自伝をブルガリアで出版しているのですが、その中には張作霖の隣の車両に乗っていて、事件直後に撮影したという写真が掲載されています。1920年[46]上海ゾルゲに会ったとも書いています。」と語ったところ、プロホロフは「それは初耳です。ヴィナロフの調査もかなり行ったのですが、彼が張作霖の事件に関与しているという資料はありませんでした。ヴィナロフはもともとブルガリア人で、事件当時中国にいたのは、確かなのですが」や「本のことも、ゾルゲのことも、初めて聞きます。ヴィナロフはサルヌインの一番大切な部下でしたから、爆殺しようとする人間の隣の車両に乗せるかどうか」とした[1]

元谷の「爆弾がどこに仕掛けられていたと思うか」との質問にプロホロフは「サルヌインの部下の安全を考えると爆弾は車内にあったと考えるべき」とした。元谷は「わずか300キロの黄色火薬[47]ではそこまでの爆発は期待できません。橋脚に仕掛けたとすると、確実性が非常に低い手段をとったことになります。また線路の下で爆発したのであれば、車両は脱線しているはず。これらを考えると、私も車内に爆弾があったというのが、一番理に適っていると思います」と主張[48]し、プロホロフもそれに同意した。

また同様に中西が主張していた英国情報機関がソ連特務機関の犯行と断定したという説について、元谷が「事件の直後ですが、イギリスの陸軍情報部極東課が本国に、「ソ連の工作だ」という報告をしたともいわれています。日本政府が「関東軍の仕業」と発表したので、改めて再調査をしたそうですが、それでも結論は「ソ連の工作」で変わらなかったというのですが」と尋ねたところ、プロホロフは「英語の資料は手に入らないので、その話の詳細は知りません」と語った。

プロホロフは「東京裁判でも、日本人の実行者や命令者の証言があり、関東軍犯行説が定説化していった」と語り、「しかし東京裁判でも、ニュールンベルグ裁判でも、ソ連は自国の国益のために、日本人を含む多くの証人に偽証をさせているのです。これらの裁判の証言を信用してはいけません。」と語り[1]、それを受けて元谷は「東京裁判において張作霖爆殺は、河本大佐の指示によって行われたとされました。しかし裁判当時中国の太原収容所に収監[49]されていた河本本人を、中国は出廷させていません。彼が本当に指示を出しているのなら、裁判で証言させた方が中国側に有利なはずです。この対応からも、私は謀略戦の匂いを感じます」と主張[1]した。

プロホロフは一連の主張について「(ロシアでは)私が新聞や本で主張したこの説に対して、「間違っている」と反論をした人は一人もいないのです。」し、(GRUから)脅かされるなど、危険を感じたことはないという[1][50]

なお、元谷はプロホロフに対し「日本向けに日本に関する事件だけをまとめた本を書いてもらえないでしょうか?出版権を買って、翻訳して日本で本として出したいと思うのです。また、その本の中に、張作霖爆殺がソ連特務機関の犯行であることを示す具体的な証拠が入っていると、なお良いのですが」と、張作霖爆殺事件ソ連特務機関犯行説の日本語版出版を要請し、それを受けてプロホロフはさらにいろいろ調べてみたいと語った[1]。また、元谷が「日本からの取材が一件というのを聞いて、がっかりしました。プロホロフさんは、この無関心さをどう思いますか?」の指摘に対し「日本でもロシアでも同じですが、どの国も認められた歴史を修正することに興味が薄いですね。国の安定を損なう感覚があるからでしょう。私も東京裁判の結果を見直すことに、何か意味があるとは思えません」と述べたり[1]、元谷の「日本は東京裁判史観に苦しんでいるのです。「日本が侵略戦争を始めた」という嘘の歴史を 基に、中国や韓国、アメリカが日本をいまだに貶めているのです。」の発言に対し、彼は「第二次世界大戦を日本が始めたということではないでしょう?あの大戦は、ヨーロッパで始まったものです。」とも述べている[1]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o APAグループ特別対談 1928年の張作霖の爆殺事件はソ連の特務機関の犯行だ 2010年1月27日確認
  2. ^ 2006年2月28日産経新聞におけるプロホロフ紹介の肩書き(歴史作家)より
  3. ^ GRUはソ連軍参謀本部情報総局の略称。張作霖爆殺事件当時は、労農赤軍情報局。現在もロシア連邦軍参謀本部情報総局として存続している。
  4. ^ 原題”Империя ГРУ 1” — Олма-Пресс, 2001. ISBN 5-224-00600-7
  5. ^ ユン・チアン/ジョン・ハリディ共著『マオ ― 誰も知らなかった毛沢東』(講談社)上巻 p.301
  6. ^ 産経新聞大阪本社朝刊 2006年2月28日国際面『張作霖爆殺「ソ連が実行」露の歴史家友好がこじれ・・・一度は失敗』内藤泰郎
  7. ^ 「正論」2006年4月号のインタビュー記事[要ページ番号]
  8. ^ 日本では「奉ソ協定」と呼称されるのが一般的(奉天軍閥政府とソ連との間で締結された為)、内容はロシア帝国以来の東清鉄道(後に中東鉄道を経て1935年に満州国国鉄に吸収合併)に対するソ連の利権を再確認したもの。同様な内容を中華民国政府とは別途北京協定を締結している
  9. ^ ただし、小牟田哲彦「今でも乗れる昭和の鉄道」東京堂出版によれば、南満州鉄道の特許線(未成線)ないし平行路線を建設しようとしていたため、関東軍との間で摩擦が起きていたと指摘がある。実際に張作霖は奉天東駅(現在の瀋陽東駅)という南満州鉄道とは別のターミナルを建設している
  10. ^ 1926年1月11日に東清鉄道工会主席シェシコフを逮捕している。これより先1925年8月に、張作霖は東清鉄道の司法権と教育施設の接収を宣言している。1929年の中ソ紛争とは別件
  11. ^ 奉天軍閥がソ連から鉄道の実効支配しようとしたが、失敗し中ソ紛争が勃発、1930年にハバロフスク協定で再びソ連が支配している
  12. ^ 赤軍情報局の在中支局長(イリーガル)。当時は米国籍のクリストファー・ラウベルグに偽装
  13. ^ 赤軍情報局第5課所属。当時は東清鉄道の電気技師に偽装
  14. ^ 正論』 2006年3月号[要ページ番号]
  15. ^ 『謎解き「張作霖爆殺事件」』加藤康男
  16. ^ 秦郁彦『陰謀史観』新潮新書(新潮社)、2012年、164頁。 
  17. ^ 秦郁彦『陰謀史観』新潮新書(新潮社)、2012年、152頁。 
  18. ^ 中西輝政の発言。同『歴史の書き換えが始まった!』。
  19. ^ 平野の著作物にはそのような事は書かれてはいない。また平野は戦時中の1944年に「マンゴウの雨」を天祐書房から出版はしている。なお平野は中国共産党に反共宣伝に従事したとして河本とともに大原収容所に収監されていた。
  20. ^ 河本の家族が河本の秘書を経由して持ち込んだ原稿によるもの。河本も平野も中国で戦犯として収監されていた。詳細は平野零児を参照。
  21. ^ 秦郁彦はこの文書「犯人は日本軍、国民党中国、ソ連の三説が乱れとび確定していない段階」の1928年10月のものであること、「田中首相が天皇へ犯人の日本軍人は厳罰に処罰するつもりと奏上したのは、十二月末であったこと」に注意を促し、「間違えたのもむりはないが、名だたる英国情報機関がいつ頃関東軍と割り出したのか、知りたいところだ」と批判している。
  22. ^ 小磯国昭『葛山鴻瓜』によれば、河本と麹町平河町実亭で一切の事情を聴取したという記述はある
  23. ^ 井星英「張作霖爆殺事件の真相(一)」(『芸林』1982年6月号掲載)によれば、河本と平野が会見したのは戦争末期であり、作成されたのは中国共産党が政権を奪取した1949年以前だという。
  24. ^ 座談会の中西によればドミトリー・プロホロフの著書からの引用なので間違いないと主張している
  25. ^ ドミトリー・プロホロフの著作にはコミンテルンについての記述はない。
  26. ^ 通説では、張作霖が乗車していた車両めがけて橋脚を爆破させ、鉄橋の崩落させ客車を上から大破させている。実際に同乗していた儀我少佐によれば上方からの攻撃で大破したと回想録を残している。詳細は張作霖爆殺事件を参照。また「諸君」2006年6月号には森島守人(当時奉天領事館員)が「満鉄の陸橋の下部に爆薬をしかけた」との証言を実行役の東宮大尉から聞いたという記事が掲載されている。もっとも中西は前述の「諸君!」の座談会のなかで「それから森島守人という外交官の証言も伝聞の伝聞で、しかも戦後、社会主義者(注:日本社会党衆議院議員)になった人ですので、これまた割り引く必要があります。」と否定している。
  27. ^ 同号76頁
  28. ^ 亡命ブルガリア人の諜報員。後にブルガリア政府の閣僚を歴任
  29. ^ 同じ列車には張作霖に軍事顧問として派遣された儀我誠也少佐が同乗していた。爆発の直前に隣の車両に行って難を逃れている。彼が蒋介石側ゲリラによる犯行と発表している
  30. ^ 朝日新聞1972年6月4日紙面によれば、一連の現場写真の撮影者は当時奉天駅で張作霖到着を待っていた朝日新聞の宮内霊勝カメラマンであるとしている。また2008年6月15日の紙面には宮内が撮影した写真が掲載されており、炎上する張作霖の列車と、現場を警備する日本兵と、関東軍が「便衣兵」と発表した中国人の死体が掲載されている。
  31. ^ 『正論』2006年5月号「張作霖を「殺った」ロシア工作員たち」[要ページ番号]
  32. ^ 諸君!』 2006年6月号座談会より[要ページ番号]
  33. ^ 週刊朝日2008年11月28日号[要ページ番号]
  34. ^ 河本を収監したのは中国共産党で、1950年のことであり、東京裁判中に戦犯として収監されていた事実はない
  35. ^ 『東方』2006年5月号、28-31頁 東方書店
  36. ^ 注:そもそもsourcesを資料と訳しているのが誤訳で「情報機関の複数の情報源(人間)が…と述べた」の意味である。
  37. ^ 秦郁彦『陰謀史観』新潮新書(新潮社)、2012年、164-165頁。 
  38. ^ つくる会ニュース第246号
  39. ^ a b つくる会ニュース第249号
  40. ^ 市販本196頁で「関東軍が、満州の軍閥・張作霖を爆殺するなど満州への支配を強めようとすると、中国人による排日運動もはげしくなり、列車妨害や日本人への迫害が頻発した。」と記述している。2009年検定の自由社刊も記述は同じである。
  41. ^ 東京書籍版など他社版では張作霖のことが記載されていない
  42. ^ 『史学雑誌』[1]『歴史学研究』[2]それぞれのバックナンバー目次一覧を参照
  43. ^ 加藤陽子『満州事変から日中戦争へ—シリーズ日本近現代史〈5〉』 (岩波新書 2007年)90〜91頁、大門正克『戦争と戦後を生きる (全集 日本の歴史 15)』(小学館、2009年)[要ページ番号]
  44. ^ 小林英夫『<満州>の歴史』(講談社現代新書、2008年)60〜61頁
  45. ^ 澁谷由里『「漢奸」と英雄の満洲』 (講談社選書メチエ、2008年、)31頁
  46. ^ 詳細はリヒャルト・ゾルゲ#上海でスパイ活動開始にあるが、1930年が正しく元谷の認識は勘違い?
  47. ^ 黄色火薬(ピクリン酸)は、ニトロ化合物で、不安定であるため民需用はトリニトロトルエンにとってかわったが、日露戦争において日本海軍の主力爆薬として用いられた、下瀬火薬の主成分としても知られている。また大日本帝国海軍の300Kg爆弾は戦艦の装甲を貫通させる威力があった。
  48. ^ 元谷はまた龍川駅で起こった爆発は「金正日を狙って行われたもの」であるとして、このテロのように800トン(キログラムの誤記?800トンが事実なら米軍の小型戦術核兵器の出力10~20トンよりもはるかに強力)ものTNT爆薬を使ったようにすれば、同様なことは実行可能とも主張している。
  49. ^ 前述のように河本が収監されたのは中国共産党によってであり、東京裁判時は自由の身であった。また自発的に残留したものでもある。経緯については中国山西省日本軍残留問題を参照のこと。
  50. ^ もっとも本人によれば、プーチン(現ロシア連邦大統領、前首相)の友人が、工場から国家財産を盗んでいるというストーリーを書いたため、雑誌に記事を出すことができなくなり、5年間ペンネームを使って、今のロシアに関する記事をいろいろと書いていたが編集者に「もう限界」といわれたという

関連項目

参考文献

  • 大江志乃夫『張作霖爆殺』(中公新書)
  • 秦郁彦「張作霖爆殺事件」(文春文庫『昭和史の謎を追う』(上)所収)
  • 秦郁彦「張作霖爆殺事件の再考察」(日本大学法学会『政経研究』2007.5)=「ソ連陰謀説」への批判。
  • 秦郁彦『陰謀史観』(新潮新書)=「ソ連陰謀説」を始めとする田母神・中西・渡部らの「陰謀論」への批判。
  • 井星英「張作霖爆殺事件の真相」(『芸林』昭和57年6月号より5回連載)
  • 稲葉正夫「張作霖爆殺事件」(参謀本部『昭和三年支那事変出兵史』所収)
  • 『昭和・平成日本のテロ事件史』(別冊宝島)宝島社 2005年
  • 中西輝政 『歴史の書き換えが始まった!』明成社、2007年
  • 別冊歴史読本『東京裁判はなにを裁いたのか』新人物往来社 2005年
  • 田母神俊雄「田母神塾」―これが誇りある日本の教科書だ』双葉社 2009年 ISBN 978-4-575-30110-6
  • 産経新聞2008年2月28日朝刊及び正論2006年4月号(産経新聞の2008年2月28日の紙面によれば発売日は2006年3月1日)
    • А.Колпакиди, Д.Прохоров Внешняя разведка России. — Санкт-Петербург: Нева, Олма-Пресс, 2001. ISBN 5-7654-1408-7,(プロポロフが最初に張作霖事件に関する情報を載せた書籍)
  • 『張氏父子与蘇俄之謎』遠方出版社、2008年 ISBN 9787807232940(プロポロフの説に基づく中国側の研究)

外部リンク