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[[ウラジオストク]]近郊に生まれる。[[1935年]]に国立極東総合大学東洋学部(卒業直前に国立極東大学に統合再編)に入学し日本の研究に取り組み始め、卒業後直ぐに軍隊に入り[[ノモンハン事件]]の[[心理戦|心理作戦]]に関わる。[[1940年]]に結婚し、相前後して政治部将校要員としてモスクワ高等教習所にて心理戦特別工作隊結成のための研修を受講。受講後は一旦[[独ソ戦|対ドイツ戦線]]に派遣されるが、[[1943年]]に極東方面軍政治指導本部へ派遣されて[[ハバロフスク]]の極東ソ連軍総司令官[[アレクサンドル・ヴァシレフスキー]]の[[秘書]]となり、露日辞典の編纂に参加した。
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[[第二次世界大戦]]後は、[[シベリア]]に抑留された[[日本]]人捕虜向けの『[[日本しんぶん|日本新聞]]』の[[編集長]]を務め旧日本兵の親ソ化工作を行った。[[1951年]]に軍隊を[[除隊]]し、モスクワで[[ソビエト連邦共産党中央委員会|ソ連共産党中央委員会]]付属社会科学アカデミー東洋諸国労働運動・共産主義運動部部長となる。その後、対外文化交流国家委員会東洋諸国担当副議長([[1956年]])・ソ連共産党中央委員会国際部課長([[1963年]])として対日政策の立案で中心的な役割を負い、たびたび来日して[[日本社会党]]委員長の[[勝間田清一]]ら政財界の要人や[[創価学会]]会長の[[池田大作]]ら[[宗教]]関係者、[[三浦甲子二]]ら[[マスコミ]]関係者とも太いパイプを持っていた。[[ソ連崩壊]]直前の[[1990年]]に[[心臓発作]]で入院し、翌年には[[ロシア科学アカデミー東洋学研究所]]嘱託に退いた。
[[第二次世界大戦]]後は、[[シベリア]]に抑留された[[日本]]人捕虜向けの『[[日本しんぶん|日本新聞]]』の[[編集長]]を務め旧日本兵の親ソ化工作を行った。[[1951年]]に軍隊を[[除隊]]し、モスクワで[[ソビエト連邦共産党中央委員会|ソ連共産党中央委員会]]付属社会科学アカデミー東洋諸国労働運動・共産主義運動部部長となる。その後、対外文化交流国家委員会東洋諸国担当副議長([[1956年]])・ソ連共産党中央委員会国際部課長([[1963年]])として対日政策の立案で中心的な役割を負い、たびたび来日して[[日本社会党]]委員長の[[勝間田清一]]ら政財界の要人や[[創価学会]]会長の[[池田大作]]ら[[宗教]]関係者、[[三浦甲子二]]ら[[マスコミ]]関係者とも太いパイプを持っていた。[[ソビエト邦の崩壊]]直前の[[1990年]]に[[心臓発作]]で入院し、翌年には[[ロシア科学アカデミー東洋学研究所]]嘱託に退いた。


対日外交強硬派として知られ、「灰色の[[枢機卿]]」と呼ばれていた。著書『対日工作の回想』では、対日工作の中心目的は日本とアメリカの離間(日本の中立化)にあったとしている。
対日外交強硬派として知られ、「灰色の[[枢機卿]]」と呼ばれていた。著書『対日工作の回想』では、対日工作の中心目的は日本とアメリカの離間(日本の中立化)にあったとしている。

2020年12月26日 (土) 00:10時点における版

イワン・イワノビッチ・コワレンコ(Иван Иванович Коваленко, 1919年2月13日 - 2005年7月27日)は、ソビエト連邦及びロシア政治家。元ソ連共産党国際部日本課長。

来歴・人物

ウラジオストク近郊に生まれる。1935年に国立極東総合大学東洋学部(卒業直前に国立極東大学に統合再編)に入学し日本の研究に取り組み始め、卒業後直ぐに軍隊に入りノモンハン事件心理作戦に関わる。1940年に結婚し、相前後して政治部将校要員としてモスクワ高等教習所にて心理戦特別工作隊結成のための研修を受講。受講後は一旦対ドイツ戦線に派遣されるが、1943年に極東方面軍政治指導本部へ派遣されてハバロフスクの極東ソ連軍総司令官アレクサンドル・ヴァシレフスキー秘書となり、露日辞典の編纂に参加した。

第二次世界大戦後は、シベリアに抑留された日本人捕虜向けの『日本新聞』の編集長を務め旧日本兵の親ソ化工作を行った。1951年に軍隊を除隊し、モスクワでソ連共産党中央委員会付属社会科学アカデミー東洋諸国労働運動・共産主義運動部部長となる。その後、対外文化交流国家委員会東洋諸国担当副議長(1956年)・ソ連共産党中央委員会国際部課長(1963年)として対日政策の立案で中心的な役割を負い、たびたび来日して日本社会党委員長の勝間田清一ら政財界の要人や創価学会会長の池田大作宗教関係者、三浦甲子二マスコミ関係者とも太いパイプを持っていた。ソビエト連邦の崩壊直前の1990年心臓発作で入院し、翌年にはロシア科学アカデミー東洋学研究所嘱託に退いた。

対日外交強硬派として知られ、「灰色の枢機卿」と呼ばれていた。著書『対日工作の回想』では、対日工作の中心目的は日本とアメリカの離間(日本の中立化)にあったとしている。

エピソード

著作物

日本語訳

  • イワン・イワノビチ・コワレンコ 著,ソビエト外交研究会 訳『ソ連とアジアの集団安全保障』恒文社、1977年。 
  • イ・イ・コワレンコ 他編, 国際関係研究所 訳『アジア=太平洋共同体論 : 構想・プラン・展望』協同産業出版部、1988年。 
  • イワン・コワレンコ 著, 加藤昭 監修, 清田彰 訳『対日工作の回想』文藝春秋、1996年。 

ロシア語[1]

  • под ред. И.И. Коваленко Русско-японский словарь : около 13,000 слов - Москва : ОГИЗ : Гос. изд-во иностранных и национальных словарей, 1947
  • [главный редактор И.И. Коваленко ; редколлегия С.И. Вербицкий (ответственный секретарь) ... и др.] Япония : ежегодник - Москва : Главная редакция восточной литературы издательства "Наука", 1973-
  • [ответственные редакторы, С.И. Вербицкий, И.И. Коваленко] СССР-Япония : к 50-летию установления советско-японских дипломатических отношений (1925-1975) - Москва : Изд-во "Наука," Глав. ред. восточной лит-ры, 1978
  • И.И.Коваленко ; отв. ред.: А.И. Сенаторов Очерки истории коммунистического движения в Японии до Второй Мировой войны - Москва : Изд-во "Наука," Глав. ред. восточной лит-ры, 1979
  • И.И. Коваленко ; [ответственный редактор, А.И. Сенаторов] Очерки истории Коммунистической партии Японии после второй мировой войны, 1945-1961 - Москва : Изд-во "Наука," Глав. ред. восточной лит-ры, 1981
  • И.И. Коваленко Коммунистическая партия Японии : очерки истории - Москва : Изд-во "Наука," Глав. ред. восточной лит-ры, 1987
  • [редколлегия, И.И. Коваленко (ответственный редактор), И.Д. Иванов, В.Н. Хлынов] “Тихоокеанское сообщество" : планы и перспективы - Москва : Наука, 1987

脚注

関連項目