コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「ウラジーミル・ヤクーニン」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: 「ソ連崩壊」改名に伴うリンク修正依頼 - log
4行目: 4行目:
父イワンは、ソ連国境警備隊(KGB、[[ソ連国家保安委員会]]の部局)で勤務していた。幼児期は父の赴任先である[[エストニア]]で過ごす。[[1972年]][[レニングラード工科大学]]を卒業する。大学では航空機設計を学ぶ。大学卒業後、レニングラード国立応用化学研究所に勤務。[[1975年]]から2年間[[兵役]]に就く。[[1977年]]ソ連閣僚会議国家通商委員会(国家貿易委員会)に勤務する。[[1982年]]ヨッフェ物理技術研究所 [[:en:Ioffe Physico-Technical Institute|Ioffe Physico-Technical Institute]]対外関係部長に就任。[[1985年]]ソ連[[国際連合|国連]]代表部員となり[[1988年]]には同[[第一書記]]。いくつかの情報によると、国連代表部勤務の間、KGB第一総局(対外諜報部門)の要員であったとされる。[http://www.anticompromat.ru/yakunin/yakunbio01.html]
父イワンは、ソ連国境警備隊(KGB、[[ソ連国家保安委員会]]の部局)で勤務していた。幼児期は父の赴任先である[[エストニア]]で過ごす。[[1972年]][[レニングラード工科大学]]を卒業する。大学では航空機設計を学ぶ。大学卒業後、レニングラード国立応用化学研究所に勤務。[[1975年]]から2年間[[兵役]]に就く。[[1977年]]ソ連閣僚会議国家通商委員会(国家貿易委員会)に勤務する。[[1982年]]ヨッフェ物理技術研究所 [[:en:Ioffe Physico-Technical Institute|Ioffe Physico-Technical Institute]]対外関係部長に就任。[[1985年]]ソ連[[国際連合|国連]]代表部員となり[[1988年]]には同[[第一書記]]。いくつかの情報によると、国連代表部勤務の間、KGB第一総局(対外諜報部門)の要員であったとされる。[http://www.anticompromat.ru/yakunin/yakunbio01.html]


[[1991年]][[ソ連崩壊]]後、実業界に身を置く。1991年4月[[ユーリ・コヴァルチューク]] [[:en:Yuriy Kovalchuk|Yuriy Kovalchuk]]、[[セルゲイ・フルセンコ]] [[:en:Sergey Fursenko|Sergey Fursenko]][[1997年]]とともにTEMP社を創設し、フルセンコが代表取締役社長に、ヤクーニンは取締役に就任する。また、同年コヴァルチューク、[[ヴィクトル・ミャーチン]] [[:en:Viktor Myachin|Viktor Myachin]]とともにJSC Quark(後にJSC Stream)社を設立する。さらに同年12月には、[[ロシア銀行]] [[:en:Russia bank|Russia bank]]取締役・少数保有株主となる。
[[1991年]][[ソビエト邦の崩壊]]後、実業界に身を置く。1991年4月[[ユーリ・コヴァルチューク]] [[:en:Yuriy Kovalchuk|Yuriy Kovalchuk]]、[[セルゲイ・フルセンコ]] [[:en:Sergey Fursenko|Sergey Fursenko]][[1997年]]とともにTEMP社を創設し、フルセンコが代表取締役社長に、ヤクーニンは取締役に就任する。また、同年コヴァルチューク、[[ヴィクトル・ミャーチン]] [[:en:Viktor Myachin|Viktor Myachin]]とともにJSC Quark(後にJSC Stream)社を設立する。さらに同年12月には、[[ロシア銀行]] [[:en:Russia bank|Russia bank]]取締役・少数保有株主となる。


[[1990年代]]初めまで[[サンクトペテルブルク]]近郊のコムソモリスコエ湖東湖畔に[[ダーチャ]]を保有していた。このダーチャの近隣には、プーチン、[[アンドレイ・フルセンコ]] [[:en:Andrei Fursenko|Andrei Fursenko]](セルゲイ・フルセンコの実兄)、セルゲイ・フルセンコ、[[ウラジーミル・スミルノフ]] [[:en:Vladimir Alexeyevich Smirnov|Vladimir Alexeyevich Smirnov]]、[[ニコライ・シャマノフ]] [[:en:Nikolay Shamalov|Nikolay Shamalov]]らもダーチャを構えていた。[[1996年]][[11月10日]]彼らは[[オゼロ]] [[:en:Ozero|Ozero]](オーゼロ、湖を意味する)協会を設立した。 [http://anticompromat.ru/oligarhi/ppo.html][http://www.lib.ru/HISTORY/FELSHTINSKY/naslednik.txt]
[[1990年代]]初めまで[[サンクトペテルブルク]]近郊のコムソモリスコエ湖東湖畔に[[ダーチャ]]を保有していた。このダーチャの近隣には、プーチン、[[アンドレイ・フルセンコ]] [[:en:Andrei Fursenko|Andrei Fursenko]](セルゲイ・フルセンコの実兄)、セルゲイ・フルセンコ、[[ウラジーミル・スミルノフ]] [[:en:Vladimir Alexeyevich Smirnov|Vladimir Alexeyevich Smirnov]]、[[ニコライ・シャマノフ]] [[:en:Nikolay Shamalov|Nikolay Shamalov]]らもダーチャを構えていた。[[1996年]][[11月10日]]彼らは[[オゼロ]] [[:en:Ozero|Ozero]](オーゼロ、湖を意味する)協会を設立した。 [http://anticompromat.ru/oligarhi/ppo.html][http://www.lib.ru/HISTORY/FELSHTINSKY/naslednik.txt]

2020年12月26日 (土) 00:02時点における版

ウラジーミル・ヤクーニン

ウラジーミル・イワノヴィチ・ヤクーニンロシア語: Владимир Иванович Якунин、ラテン文字転写の例:Vladimir Ivanovich Yakunin1948年6月30日 - )は、ロシア官僚企業家。ヤクーニンは、ウラジーミル・プーチン大統領の盟友かつ、側近グループのメンバーのうちの1人であると観測されている。

父イワンは、ソ連国境警備隊(KGB、ソ連国家保安委員会の部局)で勤務していた。幼児期は父の赴任先であるエストニアで過ごす。1972年レニングラード工科大学を卒業する。大学では航空機設計を学ぶ。大学卒業後、レニングラード国立応用化学研究所に勤務。1975年から2年間兵役に就く。1977年ソ連閣僚会議国家通商委員会(国家貿易委員会)に勤務する。1982年ヨッフェ物理技術研究所 Ioffe Physico-Technical Institute対外関係部長に就任。1985年ソ連国連代表部員となり1988年には同第一書記。いくつかの情報によると、国連代表部勤務の間、KGB第一総局(対外諜報部門)の要員であったとされる。[1]

1991年ソビエト連邦の崩壊後、実業界に身を置く。1991年4月ユーリ・コヴァルチューク Yuriy Kovalchukセルゲイ・フルセンコ Sergey Fursenko1997年とともにTEMP社を創設し、フルセンコが代表取締役社長に、ヤクーニンは取締役に就任する。また、同年コヴァルチューク、ヴィクトル・ミャーチン Viktor MyachinとともにJSC Quark(後にJSC Stream)社を設立する。さらに同年12月には、ロシア銀行 Russia bank取締役・少数保有株主となる。

1990年代初めまでサンクトペテルブルク近郊のコムソモリスコエ湖東湖畔にダーチャを保有していた。このダーチャの近隣には、プーチン、アンドレイ・フルセンコ Andrei Fursenko(セルゲイ・フルセンコの実兄)、セルゲイ・フルセンコ、ウラジーミル・スミルノフ Vladimir Alexeyevich Smirnovニコライ・シャマノフ Nikolay Shamalovらもダーチャを構えていた。1996年11月10日彼らはオゼロ Ozero(オーゼロ、湖を意味する)協会を設立した。 [2][3]

1997年1月BaltUneximbank取締役に選出されるが、その後、官界に戻り、2000年ロシア連邦交通省次官を経て2002年同第一次官に就任する。2003年10月24日ロシア鉄道副社長を経て、2005年6月15日同社社長に就任する。

ヤクーニンは、プーチン政権内に隠然たる勢力を持つ。2006年与党統一ロシアの執行部役員に選出されると予想されたが、これは実現しなかった。 2015年8月20日にはロシア鉄道の社長を辞任した。また、2012年から2015年まで国際鉄道連合会長も務めた[1][2]

脚注

参考


先代
ゲンナジー・ファジェーエフ
ロシア鉄道社長
2005年 - 2015年
次代
オレグ・ベロゼロフ
先代
清野智
国際鉄道連合会長
2012年 - 2015年
次代
オレグ・ベロゼロフ