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「カイア・カネピ」の版間の差分

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== 来歴 ==
== 来歴 ==
[[1991年]]に[[バルト三国]]が[[ソビエト連邦]]から独立し、それに伴って[[ソ連崩壊]]が起きた時、カネピはまだ6歳であった。それから2年後、カネピは8歳で家族とともに[[テニス]]を始め、[[2000年]]からプロテニス選手になった。プロ転向後、カネピは直ちに女子テニス国別対抗戦・[[フェドカップ]]の[[エストニア]]代表選手に選ばれた。彼女は[[2002年]]の[[2002年全豪オープン|全豪オープン]]から[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]の予選会に挑戦を始めたが、なかなか本戦出場に手が届かない時期が長かった。(予選会は、3試合を勝ち抜かないと本戦出場権を得られない。)その間、カネピは[[2004年アテネオリンピックのテニス競技|2004年アテネ五輪]]にエストニア代表選手として出場したが、シングルス・ダブルスとも1回戦敗退に終わっている。
[[1991年]]に[[バルト三国]]が[[ソビエト連邦]]から独立し、それに伴って[[ソビエト邦の崩壊]]が起きた時、カネピはまだ6歳であった。それから2年後、カネピは8歳で家族とともに[[テニス]]を始め、[[2000年]]からプロテニス選手になった。プロ転向後、カネピは直ちに女子テニス国別対抗戦・[[フェドカップ]]の[[エストニア]]代表選手に選ばれた。彼女は[[2002年]]の[[2002年全豪オープン|全豪オープン]]から[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]の予選会に挑戦を始めたが、なかなか本戦出場に手が届かない時期が長かった。(予選会は、3試合を勝ち抜かないと本戦出場権を得られない。)その間、カネピは[[2004年アテネオリンピックのテニス競技|2004年アテネ五輪]]にエストニア代表選手として出場したが、シングルス・ダブルスとも1回戦敗退に終わっている。


21歳を迎えた[[2006年]]から、カイア・カネピは女子ツアー大会で成績を伸ばし始める。[[2006年全仏オープン]]以後、彼女は4大大会本戦に直接出場する力をつけた。[[2006年全米オープン (テニス)|全米オープン]]で初めて3回戦に勝ち進み、[[ビルジニ・ラザノ]]に 5-7, 2-6 で敗れる。11月第1週の[[ベルギー]]・ハッセルト大会で、カネピは予選から勝ち上がり、初めて女子ツアー大会の決勝に進出した。決勝では第1シードの[[キム・クライシュテルス]]とフルセットを戦い、3-6, 6-3, 4-6 で敗れて準優勝になった。
21歳を迎えた[[2006年]]から、カイア・カネピは女子ツアー大会で成績を伸ばし始める。[[2006年全仏オープン]]以後、彼女は4大大会本戦に直接出場する力をつけた。[[2006年全米オープン (テニス)|全米オープン]]で初めて3回戦に勝ち進み、[[ビルジニ・ラザノ]]に 5-7, 2-6 で敗れる。11月第1週の[[ベルギー]]・ハッセルト大会で、カネピは予選から勝ち上がり、初めて女子ツアー大会の決勝に進出した。決勝では第1シードの[[キム・クライシュテルス]]とフルセットを戦い、3-6, 6-3, 4-6 で敗れて準優勝になった。

2020年12月26日 (土) 00:01時点における版

カイア・カネピ
Kaia Kanepi
カイア・カネピ
基本情報
国籍  エストニア
出身地 同・ハープサル
居住地 同・タリン
生年月日 (1985-06-10) 1985年6月10日(39歳)
身長 181cm
体重 74kg
利き手
バックハンド 両手打ち
ツアー経歴
デビュー年 2000年
ツアー通算 4勝
シングルス 4勝
ダブルス 0勝
生涯獲得賞金 8,468,238 アメリカ合衆国ドル
4大大会最高成績・シングルス
全豪 3回戦(2009・18)
全仏 ベスト8(2008・12)
全英 ベスト8(2010・13)
全米 ベスト8(2010・17)
4大大会最高成績・ダブルス
全豪 2回戦(2011・12・14)
全仏 3回戦(2012・14)
全英 3回戦(2008・09)
全米 1回戦(2006-10・13)
キャリア自己最高ランキング
シングルス 15位(2012年8月20日)
ダブルス 106位(2011年6月6日)
2017年9月11日現在

カイア・カネピKaia Kanepi, 1985年6月10日 - )は、エストニアハープサル出身の女子プロテニス選手。4大大会女子シングルスで6度ベスト8に入り、当地のテニス選手として最高成績を出した選手である。これまでにWTAツアーでシングルス4勝を挙げている。自己最高ランキングはシングルス15位、ダブルス106位。身長181cm、体重74kg。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。

来歴

1991年バルト三国ソビエト連邦から独立し、それに伴ってソビエト連邦の崩壊が起きた時、カネピはまだ6歳であった。それから2年後、カネピは8歳で家族とともにテニスを始め、2000年からプロテニス選手になった。プロ転向後、カネピは直ちに女子テニス国別対抗戦・フェドカップエストニア代表選手に選ばれた。彼女は2002年全豪オープンから4大大会の予選会に挑戦を始めたが、なかなか本戦出場に手が届かない時期が長かった。(予選会は、3試合を勝ち抜かないと本戦出場権を得られない。)その間、カネピは2004年アテネ五輪にエストニア代表選手として出場したが、シングルス・ダブルスとも1回戦敗退に終わっている。

21歳を迎えた2006年から、カイア・カネピは女子ツアー大会で成績を伸ばし始める。2006年全仏オープン以後、彼女は4大大会本戦に直接出場する力をつけた。全米オープンで初めて3回戦に勝ち進み、ビルジニ・ラザノに 5-7, 2-6 で敗れる。11月第1週のベルギー・ハッセルト大会で、カネピは予選から勝ち上がり、初めて女子ツアー大会の決勝に進出した。決勝では第1シードのキム・クライシュテルスとフルセットを戦い、3-6, 6-3, 4-6 で敗れて準優勝になった。

2007年全豪オープンでは、カネピは1回戦で第28シードのフラビア・ペンネッタを破ったが、続く2回戦で地元オーストラリアアリシア・モリクに敗れた。それからしばらく4大大会で好成績がなく、シングルス1・2回戦止まりが続いていた。2008年全仏オープンにおいて、カネピはエストニアのテニス選手として史上最高成績を出した。2回戦で第6シードのアンナ・チャクベタゼを 6-4, 7-6 で破ると、続く3回戦・4回戦も勝ち進み、史上初のベスト8進出を成し遂げた。準々決勝では第4シードのスベトラーナ・クズネツォワに 5-7, 2-6 で敗れる。それから、彼女は北京五輪で2度目のオリンピックに出場し、シングルス3回戦で地元選手の李娜に 6-4, 2-6, 0-6 の逆転で敗れた。同年秋のジャパン・オープンで来日し、2年ぶり2度目の女子ツアー決勝戦まで勝ち進んだが、決勝で第1シードのキャロライン・ウォズニアッキに 2-6, 6-3, 1-6 で敗れ、準優勝に終わった。

2009年全豪オープンで、カネピはエストニアの選手として史上初の4大大会シード選手入りを果たした。第25シードに選ばれた彼女は、1回戦で13年ぶりの4大大会本戦復帰を果たしたクルム伊達公子に 6-4, 4-6, 8-6 と苦戦した後、3回戦で第3シードのディナラ・サフィナに 2-6, 2-6 で敗れた。

2010年7月、カネピはイタリアパレルモ大会でフラビア・ペンネッタに 6–4, 6–3 で勝利し、ツアー初優勝を果たした。ウィンブルドンでは予選から勝ち上がり1回戦で全仏準優勝者のサマンサ・ストーサーを 6-4, 6-4 で破るなど快進撃を続け、 ベスト8に進出する。準々決勝ではペトラ・クビトバに 6-4, 6-7, 6-8 で逆転負けを喫した。全米オープンでは第31シードとなり、3回戦で第4シードエレナ・ヤンコビッチ、4回戦で第15シードヤニナ・ウィックマイヤーを破り、ウィンブルドンに続いてベスト8に進出。準々決勝ではベラ・ズボナレワに 3-6, 5-7 で敗れた。

2011年9月の東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメントでは3回戦で世界ランキング1位のキャロライン・ウォズニアッキに 7-5, 1-6, 6-4 で勝利した。カネピが世界1位の選手に勝利したのは初めてであった。10月のクレムリン・カップではツアー4度目の決勝に進出したが、ドミニカ・チブルコバに 6–3, 6–7(1), 5–7 で敗れた。

2012年の開幕戦ブリスベン国際ではノーシードから決勝に進出し、ダニエラ・ハンチュコバに 6–2, 6–1 で快勝しツアー2勝目を挙げた。5月のエストリル大会では決勝でカルラ・スアレス・ナバロを 3–6, 7–6(8–6),6–4 で破りツアー3勝目を挙げた。全仏オープンでは4年ぶりのベスト8に進出したが、足の怪我によりウィンブルドンロンドン五輪全米オープンを欠場した。4か月ぶりに復帰したソウル大会では決勝に進出したがキャロライン・ウォズニアッキに 1–6, 0–6 で完敗した。 2013年5月のブリュッセル・オープンでは決勝で彭帥を 6–2, 7–5 で破り1年ぶりのツアー4勝目を挙げた。ウィンブルドンでは3年ぶりにベスト8に進出した。準々決勝でザビーネ・リシキに 3-6, 3-6 で敗れた。

2016年以降は故障に悩まされるようになりランキングを下げてしまったが、2017年全米オープンでは予選から勝ち上がりベスト8に進出した。準々決勝ではマディソン・キーズに 3–6, 3–6 で敗れ4大大会初のベスト4進出はならなかった。

WTAツアー決勝進出結果

シングルス: 8回 (4勝4敗)

結果 No. 決勝日 大会 サーフェス 対戦相手 スコア
準優勝 1. 2006年11月5日 ベルギーの旗 ハッセルト ハード ベルギーの旗 キム・クライシュテルス 3–6, 6–3, 4–6
準優勝 2. 2008年10月5日 日本の旗 東京 ハード デンマークの旗 キャロライン・ウォズニアッキ 2–6, 6–3, 1–6
優勝 1. 2010年7月18日 イタリアの旗 パレルモ クレー イタリアの旗 フラビア・ペンネッタ 6–4, 6–3
準優勝 3. 2011年10月23日 ロシアの旗 モスクワ ハード (室内) スロバキアの旗 ドミニカ・チブルコバ 6–3, 6–7(1), 5–7
優勝 2. 2012年1月7日 オーストラリアの旗 ブリスベン ハード スロバキアの旗 ダニエラ・ハンチュコバ 6–2, 6–1
優勝 3. 2012年5月5日 ポルトガルの旗 エストリル クレー スペインの旗 カルラ・スアレス・ナバロ 3–6, 7–6(6), 6–4
準優勝 4. 2012年9月23日 大韓民国の旗 ソウル ハード デンマークの旗 キャロライン・ウォズニアッキ 1–6, 0–6
優勝 4. 2013年5月25日 ベルギーの旗 ブリュッセル クレー 中華人民共和国の旗 彭帥 6–2, 7–5

ダブルス: 1回 (0勝1敗)

結果 No. 決勝日 大会 サーフェス パートナー 対戦相手 スコア
準優勝 1. 2012年4月15日 デンマークの旗 コペンハーゲン ハード
(室内)
スウェーデンの旗 ソフィア・アルビドソン 日本の旗 クルム伊達公子
日本の旗 藤原里華
2–6, 6–4, [5–10]

4大大会シングルス成績

略語の説明
 W   F  SF QF #R RR Q# LQ  A  Z# PO  G   S   B  NMS  P  NH

W=優勝, F=準優勝, SF=ベスト4, QF=ベスト8, #R=#回戦敗退, RR=ラウンドロビン敗退, Q#=予選#回戦敗退, LQ=予選敗退, A=大会不参加, Z#=デビスカップ/BJKカップ地域ゾーン, PO=デビスカップ/BJKカッププレーオフ, G=オリンピック金メダル, S=オリンピック銀メダル, B=オリンピック銅メダル, NMS=マスターズシリーズから降格, P=開催延期, NH=開催なし.

大会 2002 2003 2004 2005 2006 2007 2008 2009 2010 2011 2012 2013 2014 2015 2016 2017 2018 2019 通算成績
全豪オープン LQ A LQ A LQ 2R 1R 3R 2R 2R 2R A 1R 1R A A 3R 1R 8–10
全仏オープン A A LQ A 2R 1R QF 1R 2R 3R QF 2R 1R 1R LQ A 1R 4R 16–12
ウィンブルドン A A A A 1R 2R 1R 1R QF 1R A QF 2R 1R A LQ 1R 2R 11–11
全米オープン LQ LQ A LQ 3R 1R 2R 1R QF 2R A 3R 4R 2R A QF 4R 2R 22–12

外部リンク