「アヴローラ (防護巡洋艦)」の版間の差分
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1917年[[10月25日]]アヴローラは、外洋への航海命令に抗命し、ここに[[10月革命_(1917年)|十月革命]]の火蓋は切られた。同日午後9時45分前部主砲が砲撃を開始し、これを合図に[[冬宮]]攻撃が開始され、アヴローラの乗組員も戦闘に参加した。 |
1917年[[10月25日]]アヴローラは、外洋への航海命令に抗命し、ここに[[10月革命_(1917年)|十月革命]]の火蓋は切られた。同日午後9時45分前部主砲が砲撃を開始し、これを合図に[[冬宮]]攻撃が開始され、アヴローラの乗組員も戦闘に参加した。 |
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これにより、1917年におけるロシア革命におけるアヴローラの果たした役割は重視され、以後のソ連の歴史家によってロシア革命及びソ連史上、最も劇的な瞬間のひとつとして喧伝されることになった。もっとも[[ソ連崩壊]]後の歴史の見直しによって、アヴローラの果たした役割についても検証が行われた。その結果、アヴローラの砲撃と武装蜂起への参加には疑問符が投げかけられるようになった。実際、ソ連時代の歴史家たちもこの問題に対しては様々に異なる見解を発表して歴史的な争点ともなっていった。例えば、アヴローラの冬宮砲撃を疑問視する歴史家から、アヴローラが当日、ペトログラードに不在であったと主張する者、挙げ句の果てには、現在、ネヴァ川にあるアヴローラを複製品であると主張する者まで現れ、アヴローラをめぐっては、虚実取り混ぜた様々な言説が飛び交っている。 |
これにより、1917年におけるロシア革命におけるアヴローラの果たした役割は重視され、以後のソ連の歴史家によってロシア革命及びソ連史上、最も劇的な瞬間のひとつとして喧伝されることになった。もっとも[[ソビエト連邦の崩壊]]後の歴史の見直しによって、アヴローラの果たした役割についても検証が行われた。その結果、アヴローラの砲撃と武装蜂起への参加には疑問符が投げかけられるようになった。実際、ソ連時代の歴史家たちもこの問題に対しては様々に異なる見解を発表して歴史的な争点ともなっていった。例えば、アヴローラの冬宮砲撃を疑問視する歴史家から、アヴローラが当日、ペトログラードに不在であったと主張する者、挙げ句の果てには、現在、ネヴァ川にあるアヴローラを複製品であると主張する者まで現れ、アヴローラをめぐっては、虚実取り混ぜた様々な言説が飛び交っている。 |
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=== 独ソ戦 === |
=== 独ソ戦 === |
2020年12月26日 (土) 00:01時点における版
アヴローラ | ||
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ライトアップされるアヴローラ(オーロラ号) 同船は現在、サンクトペテルブルクのネヴァ川河畔に記念艦として係留・保存されている | ||
艦歴 | ||
計画 | 1896年 | |
起工 | 1897年6月4日(ユリウス暦:5月23日) | |
進水 | 1900年5月24日(5月11日) | |
就役 | 1903年7月29日(7月16日) | |
退役 | 1948年11月17日 | |
退役後 | 記念艦として保存、1956年より公開。 | |
要目 | ||
艦種 | 防護巡洋艦 | |
艦級 | ヂアーナ級防護巡洋艦 | |
排水量 | 常備排水量 | 6,731t |
全長 | 126.8m | |
全幅 | 16.8m | |
吃水 | 7.3m | |
機関 | ベルヴィール式石炭専焼水管缶24基 直立型往復動蒸気機関3基3軸推進 |
12,300hp |
速力 | 19ノット | |
乗員 | 578名 | |
武装 | 1903年 | |
152 mm(45口径)単装速射砲 | 8門 | |
75 mm(50口径)単装速射砲 | 24門 | |
オチキス 37mm(23口径)機砲 | 8門 | |
38.1cm魚雷発射管 | 3門 | |
1917年改装 | ||
152 mm(45口径)単装速射砲 | 14門 | |
76 mm (30口径)単装高角砲 | 4門 | |
7.62 mm 機銃 | 3挺 | |
魚雷発射管 | 3門 | |
1922年改装 | ||
130 mm(55口径)単装速射砲 | 10門 | |
75 mm(50口径)単装速射砲 | 4門 | |
76 mm (30口径)単装高角砲 | 2門 | |
7.62 mm 機銃 | 3挺 | |
魚雷発射管 | 3門 |
アヴローラ(ロシア語:Аврораアヴローラ)は、ロシアのヂアーナ級(英文ではPallada-Class)防護巡洋艦である。現在は、ロシア革命の象徴のひとつとして記念艦となり、サンクトペテルブルクのネヴァ川の河畔に係留・保存されている。艦名はローマ神話に登場するアウロラのロシア語名に因み、日本語文献ではしばしばアウロラ、オーロラとも書かれる。
概要
建造
アヴローラは、極東に回航され太平洋艦隊に配備されるヂアーナ級防護巡洋艦3隻の1隻として、1897年5月23日サンクト・ペテルブルクのアドミラルティ造船所で起工した。
日露戦争
日露戦争開戦時には戦艦オスリャービャなどとともに旅順に派遣される途上であったが本国へ引き返している。その後第二太平洋艦隊(日本側通称のバルチック艦隊)に編入されロジェストウェンスキー提督の指揮下、極東へ派遣された。極東回航の途中には悪名高いドッガーバンク事件で友軍艦艇の砲火を浴び、損傷を受けている。
1905年5月27日に連合艦隊と交戦(日本海海戦)し、艦長が戦死するなど損傷を負った。27日夜には「オレーク」などと共に南方へ逃走を図り、6月3日に中立国であるアメリカ領フィリピンに到達し、マニラで抑留された。
ロシア革命
1906年にバルト海へ戻ると、武装を降ろしてバルチック艦隊の練習艦となり、バルト海・地中海・インド洋で活動した。1914年第一次世界大戦が勃発すると巡洋艦に復し、翌1915年改装工事が着手され、152mm砲14門に換装された。1916年年末に大改装のため、ペトログラードに回航される。しかし、アヴローラが移動したペトログラードは革命前夜の緊張に溢れかえっていた。1917年二月革命が勃発すると、アヴローラの乗組員の一部は反乱に参加した。アレクサンドル・ベリシェフを長とする革命委員会(ソヴィエト)が艦内に設けられ、多くの乗組員がボリシェヴィキに同調した。
1917年10月25日アヴローラは、外洋への航海命令に抗命し、ここに十月革命の火蓋は切られた。同日午後9時45分前部主砲が砲撃を開始し、これを合図に冬宮攻撃が開始され、アヴローラの乗組員も戦闘に参加した。
これにより、1917年におけるロシア革命におけるアヴローラの果たした役割は重視され、以後のソ連の歴史家によってロシア革命及びソ連史上、最も劇的な瞬間のひとつとして喧伝されることになった。もっともソビエト連邦の崩壊後の歴史の見直しによって、アヴローラの果たした役割についても検証が行われた。その結果、アヴローラの砲撃と武装蜂起への参加には疑問符が投げかけられるようになった。実際、ソ連時代の歴史家たちもこの問題に対しては様々に異なる見解を発表して歴史的な争点ともなっていった。例えば、アヴローラの冬宮砲撃を疑問視する歴史家から、アヴローラが当日、ペトログラードに不在であったと主張する者、挙げ句の果てには、現在、ネヴァ川にあるアヴローラを複製品であると主張する者まで現れ、アヴローラをめぐっては、虚実取り混ぜた様々な言説が飛び交っている。
独ソ戦
1922年アヴローラは再度、練習艦となる。第二次世界大戦のレニングラード攻防戦では、アヴローラの砲塔は船体から撤去され、陸上砲台に転用された。船体は、オラニエンバウム港のドッグに収容されたが、連日、ナチス・ドイツ軍の砲撃に晒され、ついに1941年9月30日港内に着底した。
1944年7月20日に浮揚され、戦後の1945年から1947年にかけて大規模改修が行われた。1948年より練習艦としてネヴァ川河畔に係留され、記念艦として恒久的に係留されることとなった。1956年、海軍博物館の一部として博物館船となり、公開された。以来、現在に至るまで、一般公開され約2800万人がアヴローラを見学したとされる。
なお、アヴローラは、1927年11月2日革命における勲功を称えられ赤旗勲章を、1968年2月22日に十月革命勲章をそれぞれ授与されている。