「ボリス・リャトシンスキー」の版間の差分
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'''ボリス・ミコライヨヴィチ・リャトシンスキー'''({{翻字併記|uk|'''Борис Миколайович Лятошинський'''|'''Boris Lyatoshynsky'''}}, [[1895年]][[1月3日]] [[ジトーミル]] - [[1968年]][[4月15日]] [[キエフ]])は、[[ウクライナ]]の[[作曲家]]・[[指揮者]]・音楽教師。[[20世紀]]のウクライナ音楽界の基礎を築いた。初期には[[アレクサンドル・スクリャービン|スクリャービン]]の影響を受け、拡張された調性による[[ピアノ曲]]や[[室内楽曲]]を書いていたが、成熟期に[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]の治世を迎えると、[[国民楽派]]の伝統に結びついた愛国的な交響楽を作曲するようになった。それでもなお[[半音階]]的で重厚な響きを好み、晦渋な作風をとっていた。門人に、[[ヴァレンティン・シルヴェストロフ]]や[[オスヴァルダス・バラカウスカス]]ら、[[ソ連崩壊]]後に西欧で認知されるようになった[[現代音楽]]の作曲家がいる。 |
'''ボリス・ミコライヨヴィチ・リャトシンスキー'''({{翻字併記|uk|'''Борис Миколайович Лятошинський'''|'''Boris Lyatoshynsky'''}}, [[1895年]][[1月3日]] [[ジトーミル]] - [[1968年]][[4月15日]] [[キエフ]])は、[[ウクライナ]]の[[作曲家]]・[[指揮者]]・音楽教師。[[20世紀]]のウクライナ音楽界の基礎を築いた。初期には[[アレクサンドル・スクリャービン|スクリャービン]]の影響を受け、拡張された調性による[[ピアノ曲]]や[[室内楽曲]]を書いていたが、成熟期に[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]の治世を迎えると、[[国民楽派]]の伝統に結びついた愛国的な交響楽を作曲するようになった。それでもなお[[半音階]]的で重厚な響きを好み、晦渋な作風をとっていた。門人に、[[ヴァレンティン・シルヴェストロフ]]や[[オスヴァルダス・バラカウスカス]]ら、[[ソビエト連邦の崩壊]]後に西欧で認知されるようになった[[現代音楽]]の作曲家がいる。 |
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== 生涯 == |
== 生涯 == |
2020年12月25日 (金) 23:53時点における版
ボリス・リャトシンスキー Борис Миколайович Лятошинський | |
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基本情報 | |
生誕 |
1895年1月3日 ロシア帝国、ジトーミル |
死没 |
1968年4月15日(73歳没) ソビエト連邦 ウクライナ・ソビエト社会主義共和国 キエフ |
ジャンル | クラシック音楽 |
職業 |
作曲家 指揮者 音楽教師 |
ボリス・ミコライヨヴィチ・リャトシンスキー(ウクライナ語: Борис Миколайович Лятошинський, ラテン文字転写: Boris Lyatoshynsky, 1895年1月3日 ジトーミル - 1968年4月15日 キエフ)は、ウクライナの作曲家・指揮者・音楽教師。20世紀のウクライナ音楽界の基礎を築いた。初期にはスクリャービンの影響を受け、拡張された調性によるピアノ曲や室内楽曲を書いていたが、成熟期にスターリンの治世を迎えると、国民楽派の伝統に結びついた愛国的な交響楽を作曲するようになった。それでもなお半音階的で重厚な響きを好み、晦渋な作風をとっていた。門人に、ヴァレンティン・シルヴェストロフやオスヴァルダス・バラカウスカスら、ソビエト連邦の崩壊後に西欧で認知されるようになった現代音楽の作曲家がいる。
生涯
教師の家庭に生まれ、早くも少年時代からピアノとヴァイオリンの学習を始める。1910年ごろに、地元の音楽家の手引きで最初の作曲を行う。1913年に高等教育を終えると1914年から1918年までキエフ大学法学部に在籍するかたわら、キエフ音楽院で彼にとっての生涯の音楽の師となるレインゴリト・グリエールに作曲を師事。グリエール没後にはその遺作の《ヴァイオリン協奏曲》作品100の補筆を手掛け完成させている。
1920年にキエフ音楽院の教員に迎えられ、1935年に作曲と管弦楽法の教授に就任した。1935年から1938年まで、また(サラトフに疎開後の)1941年から1943年までの間、モスクワ音楽院でも教壇に立っている。シルヴェストロフはこの時期の門人である。1956年から「ソ連作曲家同盟」の指導的地位についた。
作風
リャトシンスキーが手懸けた作品のうち、とりわけ2曲の歌劇と5つの交響曲、管弦楽組曲、演奏会用序曲、交響詩、ピアノ協奏曲、室内楽曲(4つの弦楽四重奏曲、2つのピアノ三重奏曲、ヴァイオリン・ソナタ)、ピアノ曲、劇付随音楽、合唱曲、カンタータ、映画音楽が知られる。
リャトシンスキーの作品は、最初はロシア国民楽派の伝統(とりわけボロディンとチャイコフスキーの影響)を受け入れたが、アレクサンドル・スクリャービンの音楽語法のうち和声法やリズムの面から影響を受けるようになった。1920年代までに西欧の前衛音楽の影響を受け入れ、しだいに無調や複調による書法をとりいれた。1929年以降はふたたび和声的に単純な作曲法を採るようになり、ウクライナやロシア、ベラルーシ、ポーランドの民族音楽を綜合的に取り入れるなど、汎スラヴ民族主義の方向を強めた。《交響曲 第2番》(1935-36年)はソヴェト当局の不興を買い、その後の改訂にもかかわらず、ようやく1964年になって初演が行われた(ショスタコーヴィチの《交響曲 第4番》がたどった運命を連想させる)。それでもリャトシンスキーは数多くの栄誉を受けており、ソ連国家賞を3度授与された。
外部リンク
- ボリス・リャトシンスキー - IMDb
- 梅丘歌曲会館 ボリス・リャトシンスキーの歌曲の訳詩一覧 - archive.today(2013年4月27日アーカイブ分)