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「レオニード・アバルキン」の版間の差分

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[[1976年]]から[[1985年]]まで[[ソ連共産党]]中央委員会付属社会科学アカデミー刑事経済学部長兼教授。
[[1976年]]から[[1985年]]まで[[ソ連共産党]]中央委員会付属社会科学アカデミー刑事経済学部長兼教授。


1985年<ref>[[:ru:Абалкин, Леонид Иванович|ロシア語版]]による。[[:en:Leonid Abalkin|英語版]]では[[1986年]]となっていた。</ref>、ソ連科学アカデミー経済研究所所長に就任する。 [[1984年]]、член-коppеспондент。[[1987年]][[12月23日]]にソ連科学アカデミー会員となり、[[1988年]]から[[1990年]]までソ連科学アカデミー幹部会員。[[1986年]]から1989年まで[[ソ連科学アカデミー]]経済研究所所長を務め、間をおいて1991年に同所長に復帰、[[ソ連崩壊]]後は[[ロシア科学アカデミー]]内の研究機関に改組された同研究所長を[[2005年]]まで務めた。
1985年<ref>[[:ru:Абалкин, Леонид Иванович|ロシア語版]]による。[[:en:Leonid Abalkin|英語版]]では[[1986年]]となっていた。</ref>、ソ連科学アカデミー経済研究所所長に就任する。 [[1984年]]、член-коppеспондент。[[1987年]][[12月23日]]にソ連科学アカデミー会員となり、[[1988年]]から[[1990年]]までソ連科学アカデミー幹部会員。[[1986年]]から1989年まで[[ソ連科学アカデミー]]経済研究所所長を務め、間をおいて1991年に同所長に復帰、[[ソビエト邦の崩壊]]後は[[ロシア科学アカデミー]]内の研究機関に改組された同研究所長を[[2005年]]まで務めた。


1989年7月、[[ミハイル・ゴルバチョフ]][[ソビエト共産党]]書記長の政権にてソ連副首相(経済改革担当)に就任。[[1990年]]にはソビエト共産党中央委員にも選出された。[[ニコライ・ルイシコフ]]ソ連閣僚会議議長(首相)とともに経済改革に当たったが、「[[500日計画]]」には頭越しに作成されたこともあって反対した。
1989年7月、[[ミハイル・ゴルバチョフ]][[ソビエト共産党]]書記長の政権にてソ連副首相(経済改革担当)に就任。[[1990年]]にはソビエト共産党中央委員にも選出された。[[ニコライ・ルイシコフ]]ソ連閣僚会議議長(首相)とともに経済改革に当たったが、「[[500日計画]]」には頭越しに作成されたこともあって反対した。

2020年12月25日 (金) 23:48時点における版

レオニード・イヴァノヴィチ・アバルキンЛеонид Иванович Абалкин、Leonid Ivanovich Abalkin、1930年5月5日 - 2011年5月2日)は、ソビエト連邦およびロシア経済学者政治家1989年ソ連副首相に就任し、経済改革を担当した。

人物

モスクワ出身。1952年プレハーノフ記念モスクワ国民経済大学(現在のプレハーノフ記念ロシア経済アカデミー)を卒業する。卒業後、カリーニングラード州グーセフ市農業技術学校で教鞭を執るかたわら経済学の研究を続け、1958年モスクワ経済大学大学院を修了する。1961年に助手となり、助教授を経て1966年にプレハーノフ記念モスクワ国民経済大学政治経済学部長に就任する。

1976年から1985年までソ連共産党中央委員会付属社会科学アカデミー刑事経済学部長兼教授。

1985年[1]、ソ連科学アカデミー経済研究所所長に就任する。 1984年、член-коppеспондент。1987年12月23日にソ連科学アカデミー会員となり、1988年から1990年までソ連科学アカデミー幹部会員。1986年から1989年までソ連科学アカデミー経済研究所所長を務め、間をおいて1991年に同所長に復帰、ソビエト連邦の崩壊後はロシア科学アカデミー内の研究機関に改組された同研究所長を2005年まで務めた。

1989年7月、ミハイル・ゴルバチョフソビエト共産党書記長の政権にてソ連副首相(経済改革担当)に就任。1990年にはソビエト共産党中央委員にも選出された。ニコライ・ルイシコフソ連閣僚会議議長(首相)とともに経済改革に当たったが、「500日計画」には頭越しに作成されたこともあって反対した。

1994年にはロシア連邦政府顧問に就任。国際コンドラチェフ財団総裁 International N. D. Kondratiev Foundationを務め[2]モスクワ大学社会経済問題研究所首席議長も務めた。

2011年5月2日に死去[3]。80歳没。

著書

  • ペレストロイカの政治哲学-加速化への道の選択(訳:岡田進、1988年3月、日ソ図書)
  • ソ連経済を救う12の処方箋(訳:岡田進、1991年4月、大月書店
  • 失われたチャンス-ソ連副首相としての一年半(訳:岡田進、1992年12月)

脚注

  1. ^ ロシア語版による。英語版では1986年となっていた。
  2. ^ http://ikf2009.ru/index.php?lang=eng The International N. D. Kondratieff Foundation
  3. ^ Academician Leonid Abalkin Died EuroPlus-TV 2011-5-2

外部リンク