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[[1972年]]にテヘランの歌劇場の首席指揮者に就任しイラン建国2500年祭のための音楽等を作曲したが、[[1974年]]頃からはイギリスでの活動が増え、[[1978年]]にロンドンで[[アルメニア]]音楽祭を開催している最中に[[イラン革命]]が起きたことで活動の拠点をロンドンに移し[[オーストリア]]に移住。後にオーストリアの市民権を取得した。
[[1972年]]にテヘランの歌劇場の首席指揮者に就任しイラン建国2500年祭のための音楽等を作曲したが、[[1974年]]頃からはイギリスでの活動が増え、[[1978年]]にロンドンで[[アルメニア]]音楽祭を開催している最中に[[イラン革命]]が起きたことで活動の拠点をロンドンに移し[[オーストリア]]に移住。後にオーストリアの市民権を取得した。


[[1989年]]に[[アルメニア・フィルハーモニー管弦楽団]]の音楽監督ならびに首席指揮者に就任。[[アルメニア地震]]での甚大な被害と[[ソ連崩壊]]や[[ナゴルノ・カラバフ戦争|アゼルバイジャンとの紛争]]などで経済的に疲弊していたアルメニアで、指揮台にほぼ毎週登場し続けることで、楽団のみならずアルメニア国民全体を鼓舞した。同楽団とは積極的に海外公演や録音活動を行い、また世界中にいるアルメニア系移民などに窮状を訴え寄付を募ることによって、オーケストラの財政状況の好転に努めた。
[[1989年]]に[[アルメニア・フィルハーモニー管弦楽団]]の音楽監督ならびに首席指揮者に就任。[[アルメニア地震]]での甚大な被害と[[ソビエト邦の崩壊]]や[[ナゴルノ・カラバフ戦争|アゼルバイジャンとの紛争]]などで経済的に疲弊していたアルメニアで、指揮台にほぼ毎週登場し続けることで、楽団のみならずアルメニア国民全体を鼓舞した。同楽団とは積極的に海外公演や録音活動を行い、また世界中にいるアルメニア系移民などに窮状を訴え寄付を募ることによって、オーケストラの財政状況の好転に努めた。


1972年にアメリカのソプラノ歌手リンダ・ピアスと結婚し後に離婚。1980年代には別の女性と再婚している。息子に映像作家のザレー・チェクナヴォリアンと、ヴァイオリニストの[[エマニュエル・チェクナヴォリアン]]がいる。
1972年にアメリカのソプラノ歌手リンダ・ピアスと結婚し後に離婚。1980年代には別の女性と再婚している。息子に映像作家のザレー・チェクナヴォリアンと、ヴァイオリニストの[[エマニュエル・チェクナヴォリアン]]がいる。

2020年12月25日 (金) 23:41時点における版

ロリス・チェクナヴォリアン

ロリス・チェクナヴォリアン(Loris Tjeknavorian、ペルシア語: لوریس چکناواریانアルメニア語: Լորիս Ճգնավորյան1937年10月13日 - )は、イラン出身のアルメニア人指揮者作曲家

経歴

アルメニア人の両親の元、イラン南西部ボルージェルドに生まれ、テヘランに学ぶ。祖父が趣味でヴァイオリンを弾いていたことなどもあり、7歳でヴァイオリンを始め、テヘラン音楽院でヴァイオリンとピアノを学び、14歳で混声合唱の指揮をとった[1]1954年からオーストリアウィーン音楽アカデミーに移り、同期のズービン・メータなどとともに指揮法をハンス・スワロフスキーに学ぶ。1961年にテヘランの音楽資料館の館長に就任し、イラン周辺の民俗音楽の資料収集に携わるが、1963年にオーストリアに戻り、ザルツブルクモーツァルテウムカール・オルフに作曲を師事する。1965年にはグルベンキアン財団の給費生としてミシガン大学に留学し、その後、ムーアヘッドコンコルディア・カレッジのレジデント・コンポーザー、ムーアヘッド州立カレッジ(現・ミネソタ州立大学ムーアヘッド校)の准教授、セントラル・ミネソタ夏期音楽アカデミーの学長などを務める。

1972年にテヘランの歌劇場の首席指揮者に就任しイラン建国2500年祭のための音楽等を作曲したが、1974年頃からはイギリスでの活動が増え、1978年にロンドンでアルメニア音楽祭を開催している最中にイラン革命が起きたことで活動の拠点をロンドンに移しオーストリアに移住。後にオーストリアの市民権を取得した。

1989年アルメニア・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督ならびに首席指揮者に就任。アルメニア地震での甚大な被害とソビエト連邦の崩壊アゼルバイジャンとの紛争などで経済的に疲弊していたアルメニアで、指揮台にほぼ毎週登場し続けることで、楽団のみならずアルメニア国民全体を鼓舞した。同楽団とは積極的に海外公演や録音活動を行い、また世界中にいるアルメニア系移民などに窮状を訴え寄付を募ることによって、オーケストラの財政状況の好転に努めた。

1972年にアメリカのソプラノ歌手リンダ・ピアスと結婚し後に離婚。1980年代には別の女性と再婚している。息子に映像作家のザレー・チェクナヴォリアンと、ヴァイオリニストのエマニュエル・チェクナヴォリアンがいる。

代表作品

  • オペラ『ロスタムとソフラーブ』(Rostam and Sohrab)
  • バレエ『シームルグ』(Simorgh)
  • 交響曲第1番『大虐殺の犠牲者へのレクイエム』(Requiem for the Massacred)(1975年

演奏

得意とするのはロシアソ連の音楽で、リムスキー=コルサコフイッポリトフ=イワノフプロコフィエフにも名録音を残しているが、一般的にはボロディン交響曲ハチャトゥリアンの管弦楽曲全般のスペシャリストとして有名。

脚注

関連サイト