「イワン・シラーエフ」の版間の差分
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ソ連[[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国|ロシア連邦共和国]]の[[ニジニ・ノヴゴロド州]]に生まれる。[[1954年]]、カザン航空大学を卒業後、航空機製造工場、ソ連航空工業省に勤務し、航空工業大臣。[[1985年]]から[[ミハイル・ゴルバチョフ]]書記長のもと、ソ連副首相、機械製作本部議長を兼務する。1990年6月からロシア連邦共和国の首相に就任する。急進改革派のエリツィン[[ソビエト連邦最高会議|最高会議]]議長(のち[[大統領]])と、[[ソビエト連邦共産党|ソ連共産党]]保守派の[[イワン・ポロスコフ]][[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国共産党|ロシア共産党]]第一書記の間にあって、シラーエフはゴルバチョフ系の中間派に位置する経済実務の責任者であった。[[ソ連8月クーデター|1991年8月のクーデター]]ではエリツィンとともにあって、[[ベールイ・ドーム|ロシア最高会議ビル]](ホワイトハウス)に籠城し、クーデター失敗後、[[アレクサンドル・ルツコイ]]副大統領らとクリミア半島に飛び、ゴルバチョフを無事に救出した。1991年[[9月26日]]、新設された'''ソ連国民経済管理委員会委員長'''に就任。「経済首相」とも呼べる地位に就き、ゴルバチョフとともにソ連経済再建に着手する寸前にソ連は崩壊した。その後、シラーエフは新生ロシアの[[欧州連合|EU]]代表となった。 |
ソ連[[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国|ロシア連邦共和国]]の[[ニジニ・ノヴゴロド州]]に生まれる。[[1954年]]、カザン航空大学を卒業後、航空機製造工場、ソ連航空工業省に勤務し、航空工業大臣。[[1985年]]から[[ミハイル・ゴルバチョフ]]書記長のもと、ソ連副首相、機械製作本部議長を兼務する。1990年6月からロシア連邦共和国の首相に就任する。急進改革派のエリツィン[[ソビエト連邦最高会議|最高会議]]議長(のち[[大統領]])と、[[ソビエト連邦共産党|ソ連共産党]]保守派の[[イワン・ポロスコフ]][[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国共産党|ロシア共産党]]第一書記の間にあって、シラーエフはゴルバチョフ系の中間派に位置する経済実務の責任者であった。[[ソ連8月クーデター|1991年8月のクーデター]]ではエリツィンとともにあって、[[ベールイ・ドーム|ロシア最高会議ビル]](ホワイトハウス)に籠城し、クーデター失敗後、[[アレクサンドル・ルツコイ]]副大統領らとクリミア半島に飛び、ゴルバチョフを無事に救出した。1991年[[9月26日]]、新設された'''ソ連国民経済管理委員会委員長'''に就任。「経済首相」とも呼べる地位に就き、ゴルバチョフとともにソ連経済再建に着手する寸前にソ連は崩壊した。その後、シラーエフは新生ロシアの[[欧州連合|EU]]代表となった。 |
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2020年12月25日 (金) 23:31時点における版
イワン・シラーエフ Иван Степанович Силаев | |
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生年月日 | 1930年10月21日(94歳) |
出生地 |
ソビエト連邦 ロシア社会主義連邦ソビエト共和国、ニジニ・ノヴゴロド州 |
前職 | 航空工業大臣、ソ連副首相、機械製作本部議長 |
在任期間 | 1990年 - 1991年 |
最高会議議長 | ボリス・エリツィン |
在任期間 | 1991年8月24日 - 1991年12月25日 |
ソビエト連邦大統領 | ミハイル・ゴルバチョフ |
イワン・ステパノヴィチ・シラーエフ (ロシア語: Иван Степа́нович Сила́ев, tr. イヴァン・スチパーナヴィチ・スィラーイェフ、ロシア語ラテン翻字: Ivan Stepanovich Silaev, 1930年10月21日 - )は、ソビエト連邦の政治家。ボリス・エリツィンの下で、1990年6月からロシア共和国首相を務め、ソ連8月クーデター後、ソ連国民経済管理委員会委員長として実質的にソ連最後の首相を務めた。
来歴・人物
ソ連ロシア連邦共和国のニジニ・ノヴゴロド州に生まれる。1954年、カザン航空大学を卒業後、航空機製造工場、ソ連航空工業省に勤務し、航空工業大臣。1985年からミハイル・ゴルバチョフ書記長のもと、ソ連副首相、機械製作本部議長を兼務する。1990年6月からロシア連邦共和国の首相に就任する。急進改革派のエリツィン最高会議議長(のち大統領)と、ソ連共産党保守派のイワン・ポロスコフロシア共産党第一書記の間にあって、シラーエフはゴルバチョフ系の中間派に位置する経済実務の責任者であった。1991年8月のクーデターではエリツィンとともにあって、ロシア最高会議ビル(ホワイトハウス)に籠城し、クーデター失敗後、アレクサンドル・ルツコイ副大統領らとクリミア半島に飛び、ゴルバチョフを無事に救出した。1991年9月26日、新設されたソ連国民経済管理委員会委員長に就任。「経済首相」とも呼べる地位に就き、ゴルバチョフとともにソ連経済再建に着手する寸前にソ連は崩壊した。その後、シラーエフは新生ロシアのEU代表となった。
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