「第一次チェチェン紛争」の版間の差分
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[[1991年]]、[[ソビエト連邦の崩壊]]の直前であるが、チェチェンでは元ソ連軍の将軍である[[ジョハル・ドゥダエフ]]を大統領に選出。ソヴィエト[[連邦離脱法]]を基に、一方的に独立を宣言した([[チェチェン・イチケリア共和国]])。(厳密には、連邦離脱法は[[ソビエト連邦構成共和国#連邦崩壊時の15共和国|ソ連構成共和国]]の離脱を念頭に置いたものであり、当時ロシア共和国内の共和国であったチェチェンには適用されない)。当時のチェチェンは、[[ロシア正教]]を放棄し、[[キリル文字]]から[[ラテン文字]]に変更するなど、脱ロシア化を推し進めていた。 |
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ロシアの[[ボリス・エリツィン]]大統領は、内務省治安維持部隊を派遣したが、チェチェン軍の猛反撃に合い撤退を余儀なくされた。 |
ロシアの[[ボリス・エリツィン]]大統領は、内務省治安維持部隊を派遣したが、チェチェン軍の猛反撃に合い撤退を余儀なくされた。 |
2020年12月25日 (金) 23:17時点における版
第一次チェチェン紛争 | |||||||
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チェチェン・ロシア間紛争中 | |||||||
グロズヌイ近郊でのMi-8と武装勢力の兵士 | |||||||
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衝突した勢力 | |||||||
ロシア |
チェチェン・イチケリア共和国 ムジャヒディン[1][2][3][4][5] | ||||||
指揮官 | |||||||
ボリス・エリツィン パーヴェル・グラチョフ |
ジョハル・ドゥダエフ † ゼリムハン・ヤンダルビエフ アスラン・マスハドフ シャミル・バサエフ | ||||||
戦力 | |||||||
ロシア軍 70,500人 |
チェチェン軍 2300人 - 12000人 ムジャヒディン 500人 - 700人 | ||||||
被害者数 | |||||||
5,732人(ロシア政府発表) | 15,000人(ロシア政府発表) |
第一次チェチェン紛争(だいいちじチェチェンふんそう)は、1994年から1996年にかけて、ロシア連邦からの独立を目指すチェチェン共和国独立派武装勢力と、それを阻止しようとするロシア連邦軍との間で発生した紛争。
概説
1991年、ソビエト連邦の崩壊の直前であるが、チェチェンでは元ソ連軍の将軍であるジョハル・ドゥダエフを大統領に選出。ソヴィエト連邦離脱法を基に、一方的に独立を宣言した(チェチェン・イチケリア共和国)。(厳密には、連邦離脱法はソ連構成共和国の離脱を念頭に置いたものであり、当時ロシア共和国内の共和国であったチェチェンには適用されない)。当時のチェチェンは、ロシア正教を放棄し、キリル文字からラテン文字に変更するなど、脱ロシア化を推し進めていた。
ロシアのボリス・エリツィン大統領は、内務省治安維持部隊を派遣したが、チェチェン軍の猛反撃に合い撤退を余儀なくされた。
1994年12月、ロシア政府は本格的な武力行使を開始。ロシア連邦軍はチェチェンに軍事行動を実施する。しかし、ロシア軍はその圧倒的な軍事力にもかかわらず、ソ連崩壊後の混乱と軍事予算の削減によりソ連時代と比較して大幅に弱体化しており、その脆弱ぶりを露呈することとなった。更にグロズヌイへの空襲は多数の民間人の死傷者を出して国際社会から非難が集中し、イスラーム諸国から多数のムジャーヒディーンと呼ばれる兵が参集する結果となった。
これに対してチェチェンではアル=カーイダのメンバーとされるオマル・ハッダード司令官を中心に反撃。ジハードの為に外国から参戦したムジャーヒディーンと共に戦った。特にアフガニスタンで訓練を施されたアル=カーイダの戦闘員は戦場での攻撃だけでなくロシア国内でのテロ攻撃も行い数百人の死者を出している。
ロシア軍が広域に渡って支配権を回復したことで、ロシア側は1995年、軍隊の撤退を始めた。
1996年5月27日、エリツィンはチェチェンの抵抗運動のリーダーたちと初めて会見した。6月、多大な損害を出しながらもロシア軍はグロズヌイを制圧、掃討戦へと移行した。その後、チェチェン側の指導者ドゥダエフが掃討戦の最中に戦死。8月、双方の間で休戦条約が結ばれた。1997年、ロシア軍は完全に撤退した。
しかし、その後も1998年にチェチェンのイスラーム武装勢力がダゲスタン共和国に侵入を開始したことに呼応しロシア軍も軍事行動を開始。
2000年、ロシアでチェチェンの武装勢力と徹底対決を主張するウラジーミル・プーチンが大統領に就任し、紛争は新たな段階へ移行してゆく。
戦闘構想
旧ソ連が崩壊したとはいえ、数的に見ればロシアの軍事力はチェチェン独立派よりも遥かに上回っていた。そのため連邦軍は勿論のこと、内務省傘下の国内軍や特別任務民警支隊(OMON)などから膨大な数の地上部隊を派遣し一気にチェチェン全土を制圧する作戦に出た[要出典]。
一方、チェチェン側は全面的な衝突は避け、かつてベトナム戦争やアフガニスタン侵攻でベトコンやムジャーヒディーンがとった様なゲリラ戦を展開し徐々にロシア側を疲弊させる作戦に出た。
経過
ロシアの派遣する地上部隊のほとんどは徴兵されてまもない新兵ばかりであった。これは旧ソ連が崩壊した際に多くの兵士を解雇してしまったためと急を要した事態であったからである。そのため、兵器等の数的には有利ではあったもの戦力的にはほぼ同等、あるいはそれ以下であったと言える。また、航空部隊との連携はままならず、戦術的にはお粗末と言っても良いほどであった。更に皮肉なことに、チェチェン軍には旧ソ連軍出身者も多く、ロシア側の戦術や兵器を熟知していた。
そのような状況の為、市街地に空軍のMi-24「ハインド」攻撃ヘリコプターやSu-25「フロッグフット」攻撃機などによる航空支援無しで侵攻したロシア軍戦車部隊は、市街戦に発展した際、巧妙に配置されたチェチェン軍対戦車部隊から複数の同時攻撃を受けほぼ壊滅、また警戒のために随伴歩兵を展開していなかった事も損害を大きなものとした。
ロシアが投入したBMD-1やBMP-1、BMP-2、BTR-60、BTR-70等の装甲兵員輸送車や歩兵戦闘車はRPG-7やRPG-18等の対戦車兵器に対して全くの無力であり容易に撃破された。またT-64やT-72、T-80の戦車も強力な戦車砲や車体正面・砲塔前面の複合装甲を持っていたものの、地下やビルの2、3階などから急に現れる対戦車班に主砲は対応できず、逆に装甲の薄い砲塔/車体の上部や燃料タンクを集中的に狙われ、次々と撃破されていった。
ロシア軍はビルの2、3階から攻撃してくる対戦車班に対処するために、高仰角をとれる対空機関砲を装備したZSU-23-4シルカや2K22ツングースカなどの自走式対空砲を歩兵部隊や戦車部隊の援護に投入し、戦果をあげるようになる。
脚注
- ^ “TURKISH VOLUNTEERS IN CHECHNYA”. The Jamestown Foundation. 2016年5月30日閲覧。
- ^ The Chechens: A Handbook, p. 237, - Google ブックス
- ^ Politics of Conflict: A Survey, p. 68, - Google ブックス
- ^ Energy and Security in the Caucasus, p. 66, - Google ブックス
- ^ “The Chechens”. google.com.tr. 2016年5月30日閲覧。
参考文献
- 「Анализ опыта боевого применения сил и средств разведки СВ во внутреннем вооруженном конфликте в Чечне」(「チェチェン国内武装紛争における地上軍偵察戦力及び手段の戦闘使用経験の分析」、1997年、ロシア連邦軍地上軍参謀本部情報局)
- 「Некоторые вопросы организации и тактики действий незаконных вооруженных формирований Чеченской Республики」(「チェチェン共和国不法武装部隊の組織及び行動戦術の若干の問題」、ロシア連邦軍地上軍参謀本部情報局)
関連項目
- 第二次チェチェン紛争
- 『コーカサスの虜』(映画、1996年、セルゲイ・ボドロフ監督)
- 『ストームゲート』(映画、2006年、アンドレイ・マリュコフ監督)