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== 近代以降 ==
== 近代以降 ==
* [[西トルキスタン]]は[[帝政ロシア]]の支配下となり、[[帝国]]が[[ロシア革命]]で倒された後は[[トルキスタン自治ソビエト社会主義共和国]]などが作られ、[[ソビエト連邦|ソ連]]の傘下に組み込まれた。その際、各共和国の国境線は人為的に引かれたため、民族分布とは必ずしも合っていない。[[ソ連崩壊]]とともに[[1991年]]に悲願の独立を果たした。しかし、独立以降も経済的・軍事的には未だにロシアの影響は強い。[[中央アジア連合]]創設への提案も行われている。
* [[西トルキスタン]]は[[帝政ロシア]]の支配下となり、[[帝国]]が[[ロシア革命]]で倒された後は[[トルキスタン自治ソビエト社会主義共和国]]などが作られ、[[ソビエト連邦|ソ連]]の傘下に組み込まれた。その際、各共和国の国境線は人為的に引かれたため、民族分布とは必ずしも合っていない。[[ソビエト邦の崩壊]]とともに[[1991年]]に悲願の独立を果たした。しかし、独立以降も経済的・軍事的には未だにロシアの影響は強い。[[中央アジア連合]]創設への提案も行われている。
* [[東トルキスタン]]は[[清]]の[[乾隆帝]]に征服されて以来、清朝 → [[中華民国]] → [[中華人民共和国]]と異民族による支配が続いている。[[1933年]]および[[1944年]]にソ連の後押しで[[東トルキスタン共和国]]を立てたが、いずれも短期間で消滅している。その後大量の漢民族が国策的に移民してきており、駐留する[[人民解放軍]]とあわせるとウイグル人よりも多くなると言われている<ref>[http://www.kashghar.org/studyinfo/abouthistory.htm 新疆における歴史とその研究状況|新疆研究情報|新疆研究サイト] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20141223142314/http://www.kashghar.org/studyinfo/abouthistory.htm |date=2014年12月23日 }}</ref>。また、[[1950年代]]から[[1960年代]]にかけては[[カザフの新疆脱出]]が発生した。さらに[[1964年]]の[[ロプノール湖]]での実験を皮切りに、1960年代後半を通じて中国が核を保有して以降も、東トルキスタンの各地で[[中国の核実験|核実験]]が執り行われ、現地の放射能汚染が懸念されている。現在は、独立運動各派は中国政府に非合法化され弾圧されている。そのため、東トルキスタン独立問題は米中間等で人権問題として問題視されてきた。なお、独立運動各派は、[[2004年]][[9月]]に[[東トルキスタン亡命政府]]をアメリカで樹立している。
* [[東トルキスタン]]は[[清]]の[[乾隆帝]]に征服されて以来、清朝 → [[中華民国]] → [[中華人民共和国]]と異民族による支配が続いている。[[1933年]]および[[1944年]]にソ連の後押しで[[東トルキスタン共和国]]を立てたが、いずれも短期間で消滅している。その後大量の漢民族が国策的に移民してきており、駐留する[[人民解放軍]]とあわせるとウイグル人よりも多くなると言われている<ref>[http://www.kashghar.org/studyinfo/abouthistory.htm 新疆における歴史とその研究状況|新疆研究情報|新疆研究サイト] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20141223142314/http://www.kashghar.org/studyinfo/abouthistory.htm |date=2014年12月23日 }}</ref>。また、[[1950年代]]から[[1960年代]]にかけては[[カザフの新疆脱出]]が発生した。さらに[[1964年]]の[[ロプノール湖]]での実験を皮切りに、1960年代後半を通じて中国が核を保有して以降も、東トルキスタンの各地で[[中国の核実験|核実験]]が執り行われ、現地の放射能汚染が懸念されている。現在は、独立運動各派は中国政府に非合法化され弾圧されている。そのため、東トルキスタン独立問題は米中間等で人権問題として問題視されてきた。なお、独立運動各派は、[[2004年]][[9月]]に[[東トルキスタン亡命政府]]をアメリカで樹立している。



2020年12月25日 (金) 23:09時点における版

トルキスタンに含まれる国家・地域を囲った地図
トルキスタンの面積は、インド亜大陸よりも広い
テュルク系民族分布

トルキスタン (Turkestan / Turkistan) は今日テュルク系民族が居住する中央アジアの地域を指す歴史的な名称。

「テュルク人の (Turki) 土地 (-stan)」を意味するペルシア語に由来し、テュルク諸語、欧州諸語などで用いられている[1]。トルケスタン、トゥルケスタン[2]、トゥルケスターン[3][4]とも[5]

領域

トルキスタンは、西はカスピ海、東は中国、北はアラル海イルティシュ分水界、南はアフガニスタン北部、イラン国境に及ぶ地域 (ロシア・トゥルケスターンあるいは西トルキスタン、今日のトルクメニスタンウズベキスタンキルギスカザフスタンタジキスタン)、中華人民共和国の西北部の新疆ウイグル自治区 (シナ・トゥルケスターンあるいは東トゥルケスターン)、およびアフガニスタン北部の三地域に大別される[4]

西トルケスタン、東トルケスタン、南トルケスタンとすることもある[6]

面積は約150,000平方キロメートル[2]

歴史

「トルキスタン」とは、「テュルク人の」 (Turki)[3] という単語に「〜が存在する(ところ)」 「国」(-stān)[3][7] を意味する接尾辞が付属したペルシア語での他称に由来するものである。

前近代においてはその地域的な範囲は明確ではなく、イスラーム時代以降はマー・ワラー・アンナフルと呼ばれた中央アジア南部のオアシス都市の地域の北方に広がるテュルク系遊牧勢力がいた領域を指す漠然としたものであった[1]

一方、スィル川の中流にはヤサヴィー教団の始祖アフマド・ヤサヴィー廟墓があることで有名なトルキスタン市(古名ヤス)がある。

西トルキスタンは変わらずマー・ワラー・アンナフルと呼ばれていた。これはティムール朝末期のバーブルの時代でも同じであった。13世紀以降はモンゴル帝国、次いで後継の汗国に支配される。

19世紀後半、ロシア帝国タシュケントトルキスタン総督府を置き、その域は東部で天山山脈西部とパミール高原、西部でカスピ海東岸、南部でイランアフガニスタン国境にまで拡大した[1]。ロシア領トルキスタン (西トルキスタン)という名称と実態が成立すると、その東方は東トルキスタン、アフガニスタン北部はアフガン・トルキスタンとも呼称されるようになった[1]

ソ連邦ではトルキスタン自治ソビエト社会主義共和国消滅後、パン・テュルク主義を想起させるトルキスタンのかわりに、中央アジア (Средняя Азия)と呼称されるようになり、ロシア領トルキスタンや西トルキスタンという名称は用いられなくなったが、東トルキスタンという名称は使用されている[4]

テュルク人とその国家

国名 人口 構成民族比率 面積 名目GDP[8] 一人あたりGDP[8] 備考
カザフスタン 1817万人[9] 67%、露21%、3%[10] 272万km2 1629億ドル 8970ドル
キルギス 614万人[11] 73%、14%、露6%[10] 20万km2 77億ドル 1254ドル
トルクメニスタン 576万人[11] 85%、5%、露4%[12] 43万km2 379億ドル 6643ドル
ウズベキスタン 3134万人[11] 76%、露6%、5%、3%[13] 44万km2 581億ドル 1810ドル
タジキスタン 893万人[14] タ84%、14%[10] 14万km2 71億ドル 801ドル イラン系のタジク人が多数派
新疆ウイグル自治区 2360万人[15] 45%、漢41%、7%、回5%[10] 165万km2 1453億ドル 6137ドル 中華人民共和国の自治区
参考(トルキスタン外)
アフガニスタン 2972万人[11] パ45%、タ32%、ハ12%、9%[16] 65万km2 202億ドル 570ドル
アゼルバイジャン 990万人[14] 92%[17] 9万km2 414億ドル 4212ドル
トルコ 8081万人[18] 90%、ク7%[19] 78万km2 8526億ドル 10551ドル
テュルク系(カ=カザフ人、キ=キルギス人、ト=トルクメン人、ウ=ウズベク人、維=ウイグル人、域外:ア=アゼルバイジャン人、土=トルコ人
非テュルク系(露=ロシア人、タ=タジク人、漢=漢民族、回=回族、域外:パ=パシュトゥーン人、ハ=ハザーラ人、ク=クルド人

上表のように面積はカザフスタンが桁違いに広い。人口はウズベキスタン、次いでカザフスタンが多い。一人あたりの所得はタジキスタンが目立って低い。

近代以降

その他

  • 「トルキスタン」は、ロシア帝国時代には、西トルキスタンの南部であるウズベキスタン・タジキスタン・トルクメニスタン一帯と、さらに狭い地域の名称として用いられたこともあった。

脚注

  1. ^ a b c d 小松久男「トルキスタン」『中央ユーラシアを知る事典』平凡社、2005年4月11日、ISBN 4-582-12636-7、388頁。
  2. ^ a b 『コンサイス外国地名辞典』<第3版>、三省堂、1998年4月20日、ISBN 4-385-15338-8、629頁。
  3. ^ a b c 牧英夫『世界地名ルーツ辞典』創拓社、1989年12月1日、ISBN 4-87138-076-9、308頁。
  4. ^ a b c 香山陽坪「トゥルケスターン」『世界地名大辞典 2』朝倉書店、昭和48年4月25日、0525-541502-0032、849~850頁。
  5. ^ 『外国地名レファレンス事典』日外アソシエーツ、2006年7月25日、ISBN 4-8169-1992-9、664頁。
  6. ^ 『グランド現代百科事典』学習研究社、1983年6月1日、ISBN 4-05-150097-7、78頁。
  7. ^ 蟻川明男『世界地名語源辞典』古今書院、1993年12月16日、ISBN 4-7722-1735-5、141頁。
  8. ^ a b IMF World Economic Outlook Database 2017年の値、ウイグルのみ en:List of Chinese administrative divisions by GDP 2016
  9. ^ 2018-02-01
  10. ^ a b c d 2016
  11. ^ a b c d 2017-01-01
  12. ^ 2003
  13. ^ 1996
  14. ^ a b 2018-01-01
  15. ^ 2015-03-06
  16. ^ 2005
  17. ^ 2009
  18. ^ 2017-12-31
  19. ^ 1965
  20. ^ 新疆における歴史とその研究状況|新疆研究情報|新疆研究サイト Archived 2014年12月23日, at the Wayback Machine.

関連項目

外部リンク