「ノート:ニュー・ケインジアン」の版間の差分
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まず、「市場」が「順応しない」という修飾関係が疑われますが、「賃金と価格が」という主語文節が読点を隔ててあるので、一応否定される。でも、もしかして「賃金・価格」も「市場」もともに「完全雇用」の達成のために、順応しないと解釈する可能性も捨てきれない。日本語として不自然なのでこの解釈は捨てると、おおまかにはどうやら「完全雇用の達成」が順応」の阻害要因であるという趣旨らしい。細かく言えば「直ちに~ない」が全否定か部分否定かという問題があるけど、たぶん部分否定であるとして、もしかして |
まず、「市場」が「順応しない」という修飾関係が疑われますが、「賃金と価格が」という主語文節が読点を隔ててあるので、一応否定される。でも、もしかして「賃金・価格」も「市場」もともに「完全雇用」の達成のために、順応しないと解釈する可能性も捨てきれない。日本語として不自然なのでこの解釈は捨てると、おおまかにはどうやら「完全雇用の達成」が順応」の阻害要因であるという趣旨らしい。細かく言えば「直ちに~ない」が全否定か部分否定かという問題があるけど、たぶん部分否定であるとして、もしかして |
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「賃金と価格の市場は、完全雇用の達成が原因で、調整に時間を要する」というような意味でしょうか。 |
「賃金と価格の市場は、完全雇用の達成が原因で、調整に時間を要する」というような意味でしょうか。 |
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だとすると、もう少し雇用と賃金・価格の関係の機序の説明が欲しい。それが無理なら、学問的正確さは犠牲にせずにもう少しわかりやすい表現を考えてくださらないでしょうか。 |
だとすると、もう少し雇用と賃金・価格の関係の機序の説明が欲しい。それが無理なら、学問的正確さは犠牲にせずにもう少しわかりやすい表現を考えてくださらないでしょうか。--<span class="autosigned" style="font-size: smaller">以上の[[Wikipedia:署名|署名]]の無いコメントは、[[利用者:124.27.148.153|124.27.148.153]]([[利用者‐会話:124.27.148.153|会話]]・[[Special:Contributions/124.27.148.153|投稿記録]])さんによるものです。</span> |
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:「市場の変化に対して賃金と価格が直ちに順応しないために、完全雇用が達成されない。そのため、[[市場の不完全性]]が発生し、財政・金融政策が有効になる余地が生まれる」くらいの表現でよろしいでしょうか?初版が英語からの翻訳だったこともあって多少わかりにくい表現であるとは思いますが、「悪文」とまで言ってしまうのはいかがなものかと。元の表現でも充分に意味は通ると思います。「完全雇用」とか「市場の不完全性」に関しては、経済学の一番初歩というかかなり根源にかかわる問題であり、この項で詳述するよりは[[ケインジアン]]や[[古典派経済学]]あたりで、あるいは別途項目を立てて説明すべき内容と思います。--[[利用者:Impromptu|Impromptu]] 2007年4月15日 (日) 08:46 (UTC) |
:「市場の変化に対して賃金と価格が直ちに順応しないために、完全雇用が達成されない。そのため、[[市場の不完全性]]が発生し、財政・金融政策が有効になる余地が生まれる」くらいの表現でよろしいでしょうか?初版が英語からの翻訳だったこともあって多少わかりにくい表現であるとは思いますが、「悪文」とまで言ってしまうのはいかがなものかと。元の表現でも充分に意味は通ると思います。「完全雇用」とか「市場の不完全性」に関しては、経済学の一番初歩というかかなり根源にかかわる問題であり、この項で詳述するよりは[[ケインジアン]]や[[古典派経済学]]あたりで、あるいは別途項目を立てて説明すべき内容と思います。--[[利用者:Impromptu|Impromptu]] 2007年4月15日 (日) 08:46 (UTC) |
2020年12月24日 (木) 08:50時点における最新版
2006年10月4日 (水) 19:33の版以降、「政府の裁量的な財政・金融政策を否定する点が、いわゆるオールド・ケインジアンとは異なり、新しい古典派(New classical economics)と一致している。」という記述が加えられていますが、それであればニュー・ケインジアンを新しい古典派と区別するいわれはなくなってしまいます。ニュー・ケインジアンのニュー・ケインジアンたるゆえんは、ケインズ経済学にミクロ的基礎を与えることで政府の裁量的な財政・金融政策を正当化することにあると思いますが、いかがでしょうか。ニュー・ケインジアンの論者の多くが裁量的財政・金融政策の濫用に批判的であることは確かだとは思いますが、政策の有効性そのものを否定しているというのは言い過ぎではないかと思います。--Impromptu 2006年10月13日 (金) 15:11 (UTC)
- それでは単なるオールド・ケインジアンと同じになってしまうんじゃないでしょうか。ルーカスの批判以降、「政策による期待の変化」に耐え得る理論を構築するために行われてきたのがミクロ的基礎付けなので。ニュー・ケインジアンの場合は、あくまでも「ルールに制約された裁量」であって、ただの裁量政策を肯定してる訳じゃ無いと思いますが。それに、ニュー・ケインジアンの多くは財政政策には否定的なのでは。もしこの説明で間違っている箇所があれば申し訳ありません。ただし、たしかに、誤解を避けるためにもう少し説明が必要ではないかとは思います。この書き込みは、221.171.138.1192006年10月22日 (日) 22:24 (UTC)によるものです。
- もしかして、「裁量的」という言葉を「恣意的」という意味にとっていませんか?経済学において「裁量的」という言葉は、単に市場の事前の期待に従わない(と仮定される)政府・中央銀行の財政・金融政策を指します。そのような政策が発動された場合に「効果がある」かどうかを問題にするのが「裁量的」という言葉の意味であり、そのような政策を政府・中央銀行が無制限に取ることを「よしとする」(「恣意的」な政策を認める)かどうかはまた別の問題です。ニュー・ケインジアンは、「ミクロ的基礎を通じて裁量的財政・金融政策の効果は認めるが、それを恣意的に運用することには反対」という立場の人が多いと思います。その点ではおっしゃることに大きな間違いはないと思いますが、「ニュー・ケインジアンは裁量的な財政・金融政策を否定する」という表現は明らかに間違ったものであると考えます。--Impromptu 2006年10月28日 (土) 15:02 (UTC)
「新古典派経済学と区別されるニュー・ケインジアンの主要な主張は、賃金と価格が、市場が完全雇用の達成を可能にするために直ちに順応しないことである。」とありますが、 この一文は意味が判然としない悪文に見えます。小生が素人だからで、経済学の専門家には一義的に意味がとおるのかもしれないが。 まず、「市場」が「順応しない」という修飾関係が疑われますが、「賃金と価格が」という主語文節が読点を隔ててあるので、一応否定される。でも、もしかして「賃金・価格」も「市場」もともに「完全雇用」の達成のために、順応しないと解釈する可能性も捨てきれない。日本語として不自然なのでこの解釈は捨てると、おおまかにはどうやら「完全雇用の達成」が順応」の阻害要因であるという趣旨らしい。細かく言えば「直ちに~ない」が全否定か部分否定かという問題があるけど、たぶん部分否定であるとして、もしかして 「賃金と価格の市場は、完全雇用の達成が原因で、調整に時間を要する」というような意味でしょうか。 だとすると、もう少し雇用と賃金・価格の関係の機序の説明が欲しい。それが無理なら、学問的正確さは犠牲にせずにもう少しわかりやすい表現を考えてくださらないでしょうか。--以上の署名の無いコメントは、124.27.148.153(会話・投稿記録)さんによるものです。
- 「市場の変化に対して賃金と価格が直ちに順応しないために、完全雇用が達成されない。そのため、市場の不完全性が発生し、財政・金融政策が有効になる余地が生まれる」くらいの表現でよろしいでしょうか?初版が英語からの翻訳だったこともあって多少わかりにくい表現であるとは思いますが、「悪文」とまで言ってしまうのはいかがなものかと。元の表現でも充分に意味は通ると思います。「完全雇用」とか「市場の不完全性」に関しては、経済学の一番初歩というかかなり根源にかかわる問題であり、この項で詳述するよりはケインジアンや古典派経済学あたりで、あるいは別途項目を立てて説明すべき内容と思います。--Impromptu 2007年4月15日 (日) 08:46 (UTC)
カテゴリ:ケインジアン経済学の変更が提案されています
[編集]Category‐ノート:ケインジアン経済学#カテゴリの改名提案にて改名が提案されています。よろしければご参加ください。--ShuBraque(会話) 2015年9月9日 (水) 16:03 (UTC)