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[[1977年]]、[[1977年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|ドラフト会議]]で[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]から1位指名を受け入団。[[野村克也]]の[[監督]]([[捕手]]兼任)解任・退団に伴い“ポスト野村”の期待を受け、[[1978年]]には2試合、[[1979年]]には5試合に先発マスクを被る。しかし[[黒田正宏]]、[[香川伸行]]らとのポジション争いに敗れ、[[1985年]]に[[吉沢俊幸]]との交換で[[オリックス・バファローズ|阪急]]に移籍。[[1987年]]限りで引退した。 |
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社会人時代、[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]の名[[スカウト (勧誘)|スカウト]]・[[片岡宏雄]]が[[大矢明彦]]に続く捕手を獲得するため、新日鉄堺グラウンドへ中出の視察に赴いたことがあった。しかし現役時代捕手でもあった片岡は「こんなレベルじゃプロでは通用せえへんな」と、即決で中出の獲得を断念している(この時片岡の目に留まったのが中出の後輩の投手・[[尾花高夫]]である)。 |
社会人時代、[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]の名[[スカウト (勧誘)|スカウト]]・[[片岡宏雄]]が[[大矢明彦]]に続く捕手を獲得するため、新日鉄堺グラウンドへ中出の視察に赴いたことがあった。しかし現役時代捕手でもあった片岡は「こんなレベルじゃプロでは通用せえへんな」と、即決で中出の獲得を断念している(この時片岡の目に留まったのが中出の後輩の投手・[[尾花髙夫|尾花高夫]]である)。 |
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[[コラムニスト]]・[[綱島理友]]の著書「プロ野球ユニフォーム物語」([[2005年]][[ベースボール・マガジン社]]刊)には[[1977年の南海ホークスのユニフォーム|ユニフォーム]]視察の取材で採り上げられたが、綱島の説明文では「控え選手」とだけ記され、中出の名は匿名となっていた(取材協力者は、中出本人ではなく、廃棄処分される際に貰い受け、所持していたホークスの元選手・スカウトだった。巻末の取材協力者から推定すると[[伊藤四郎]]と思われる)。 |
[[コラムニスト]]・[[綱島理友]]の著書「プロ野球ユニフォーム物語」([[2005年]][[ベースボール・マガジン社]]刊)には[[1977年の南海ホークスのユニフォーム|ユニフォーム]]視察の取材で採り上げられたが、綱島の説明文では「控え選手」とだけ記され、中出の名は匿名となっていた(取材協力者は、中出本人ではなく、廃棄処分される際に貰い受け、所持していたホークスの元選手・スカウトだった。巻末の取材協力者から推定すると[[伊藤四郎]]と思われる)。 |
2020年12月23日 (水) 05:10時点における版
基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
出身地 | 和歌山県和歌山市 |
生年月日 | 1954年11月3日(70歳) |
身長 体重 |
175 cm 72 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 捕手 |
プロ入り | 1977年 ドラフト1位 |
初出場 | 1978年4月1日 |
最終出場 | 1986年10月18日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
| |
この表について
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中出 謙二(なかで けんじ、1954年11月3日 - )は、和歌山県出身の元プロ野球選手(捕手)。右投右打。
来歴・人物
和歌山工業高では、1972年の夏の甲子園和歌山県予選準々決勝に進むが桐蔭高に敗れる。
高校卒業後は、社会人野球の新日本製鐵堺に入団。都市対抗野球大会に4年連続で出場した。1977年には第3回インターコンチネンタルカップ日本代表に選出される。
1977年、ドラフト会議で南海ホークスから1位指名を受け入団。野村克也の監督(捕手兼任)解任・退団に伴い“ポスト野村”の期待を受け、1978年には2試合、1979年には5試合に先発マスクを被る。しかし黒田正宏、香川伸行らとのポジション争いに敗れ、1985年に吉沢俊幸との交換で阪急に移籍。1987年限りで引退した。
社会人時代、ヤクルトの名スカウト・片岡宏雄が大矢明彦に続く捕手を獲得するため、新日鉄堺グラウンドへ中出の視察に赴いたことがあった。しかし現役時代捕手でもあった片岡は「こんなレベルじゃプロでは通用せえへんな」と、即決で中出の獲得を断念している(この時片岡の目に留まったのが中出の後輩の投手・尾花高夫である)。
コラムニスト・綱島理友の著書「プロ野球ユニフォーム物語」(2005年ベースボール・マガジン社刊)にはユニフォーム視察の取材で採り上げられたが、綱島の説明文では「控え選手」とだけ記され、中出の名は匿名となっていた(取材協力者は、中出本人ではなく、廃棄処分される際に貰い受け、所持していたホークスの元選手・スカウトだった。巻末の取材協力者から推定すると伊藤四郎と思われる)。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1978 | 南海 | 23 | 21 | 19 | 2 | 5 | 0 | 0 | 0 | 5 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 | 0 | 6 | 0 | .263 | .300 | .263 | .563 |
1979 | 42 | 33 | 31 | 2 | 5 | 1 | 0 | 1 | 9 | 6 | 0 | 1 | 1 | 0 | 1 | 0 | 0 | 6 | 2 | .161 | .188 | .290 | .478 | |
1980 | 5 | 4 | 4 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .500 | .500 | .500 | 1.000 | |
1981 | 1 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
1983 | 5 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
1984 | 2 | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | .500 | .000 | .500 | |
1986 | 阪急 | 17 | 11 | 10 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 4 | 0 | .100 | .182 | .100 | .282 |
通算:7年 | 95 | 73 | 67 | 4 | 13 | 1 | 0 | 1 | 17 | 9 | 0 | 1 | 2 | 0 | 4 | 0 | 0 | 17 | 2 | .194 | .239 | .254 | .493 |
年度別守備成績
年度 | 試合 | 企図数 | 許盗塁 | 盗塁刺 | 阻止率 |
---|---|---|---|---|---|
1978 | 23 | 10 | 7 | 3 | .300 |
1979 | 38 | 17 | 13 | 4 | .235 |
1980 | 5 | 3 | 2 | 1 | .333 |
1981 | 1 | 0 | 0 | 0 | - |
1983 | 5 | 2 | 2 | 0 | .000 |
1984 | 2 | 0 | 0 | 0 | - |
1986 | 15 | 7 | 5 | 2 | .286 |
通算 | 89 | 39 | 29 | 10 | .256 |
記録
- 初出場:1978年4月1日、対阪急ブレーブス前期1回戦(阪急西宮球場)、8回裏に黒田正宏に代わり捕手で出場
- 初安打:1978年4月3日、対阪急ブレーブス前期3回戦(阪急西宮球場)、7回表に白石静生から単打
- 初打点:1978年4月19日、対クラウンライターライオンズ前期5回戦(平和台野球場)、4回表に東尾修から適時打
- 初先発出場:1978年4月20日、対クラウンライターライオンズ前期6回戦(平和台野球場)、9番・捕手で先発出場
- 初本塁打:1979年8月19日、対日本ハムファイターズ後期6回戦(青森県営野球場)、7回表に村上雅則から3ラン
背番号
- 10 (1978年 - 1985年)
- 39 (1986年 - 1987年)