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{{by|1983年}}秋のドラフト会議では[[小野和義]]・[[川端順]]らとともに注目株と目され、[[横浜DeNAベイスターズ|大洋ホエールズ]]、[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]、[[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]]、ヤクルトスワローズの4球団から1位指名を受け、入札の結果、ヤクルトが交渉権を獲得。そのままヤクルトに入団(同期入団には[[栗山英樹]]、[[池山隆寛]]、[[橋上秀樹]]など)。
{{by|1983年}}秋のドラフト会議では[[小野和義]]・[[川端順]]らとともに注目株と目され、[[横浜DeNAベイスターズ|大洋ホエールズ]]、[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]、[[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]]、ヤクルトスワローズの4球団から1位指名を受け、入札の結果、ヤクルトが交渉権を獲得。そのままヤクルトに入団(同期入団には[[栗山英樹]]、[[池山隆寛]]、[[橋上秀樹]]など)。


ルーキーイヤーの開幕戦(対大洋・[[横浜スタジアム]])でいきなり[[開幕投手]]を務める。ルーキーの開幕投手は、{{by|1962年}}の巨人・[[城之内邦雄]]以来22年ぶりのことでドラフト制導入以後では初めてであった。このシーズンは10勝12敗と負け越したものの[[尾花高夫]]、[[梶間健一]]とともに先発の一角を担うようになる。
ルーキーイヤーの開幕戦(対大洋・[[横浜スタジアム]])でいきなり[[開幕投手]]を務める。ルーキーの開幕投手は、{{by|1962年}}の巨人・[[城之内邦雄]]以来22年ぶりのことでドラフト制導入以後では初めてであった。このシーズンは10勝12敗と負け越したものの[[尾花髙夫|尾花高夫]]、[[梶間健一]]とともに先発の一角を担うようになる。


{{by|1986年}}に12勝をあげ[[1986年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]にも出場し、名実ともにヤクルトの顔となる。しかし、[[関根潤三]]監督時代の{{by|1989年}}に故障。アメリカで右肘の靭帯移植手術を受けた。その後リハビリを重ね、[[野村克也]]監督時代の{{by|1992年}}4月7日の対[[中日ドラゴンズ|中日]]戦で1076日ぶりの復活勝利を挙げた。8月23日には1214日ぶりの完投勝ちを収めたが、結果的にこれが最後の勝ち星となった<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_10august/KFullNormal20100801248.html 【8月23日】1992年(平4) 長かった1214日 高野光 ノムさんの一喝で完投勝利] スポーツニッポン 2010年8月23日</ref>。この年のヤクルトは[[阪神タイガース|阪神]]・巨人・[[広島東洋カープ|広島]]と激しい優勝争いを繰り広げ、終盤は阪神とのマッチレースになったが、[[岡林洋一]]、[[西村龍次]]、[[伊東昭光]]らとともに投手陣の核となった高野の活躍もあり、14年ぶりにペナントを制した。日本シリーズでも先発のマウンドに立った。
{{by|1986年}}に12勝をあげ[[1986年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]にも出場し、名実ともにヤクルトの顔となる。しかし、[[関根潤三]]監督時代の{{by|1989年}}に故障。アメリカで右肘の靭帯移植手術を受けた。その後リハビリを重ね、[[野村克也]]監督時代の{{by|1992年}}4月7日の対[[中日ドラゴンズ|中日]]戦で1076日ぶりの復活勝利を挙げた。8月23日には1214日ぶりの完投勝ちを収めたが、結果的にこれが最後の勝ち星となった<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_10august/KFullNormal20100801248.html 【8月23日】1992年(平4) 長かった1214日 高野光 ノムさんの一喝で完投勝利] スポーツニッポン 2010年8月23日</ref>。この年のヤクルトは[[阪神タイガース|阪神]]・巨人・[[広島東洋カープ|広島]]と激しい優勝争いを繰り広げ、終盤は阪神とのマッチレースになったが、[[岡林洋一]]、[[西村龍次]]、[[伊東昭光]]らとともに投手陣の核となった高野の活躍もあり、14年ぶりにペナントを制した。日本シリーズでも先発のマウンドに立った。

2020年12月23日 (水) 05:08時点における版

髙野 光
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 東京都江東区
生年月日 1961年5月20日
没年月日 (2000-11-05) 2000年11月5日(39歳没)
身長
体重
187 cm
85 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1983年 ドラフト1位
初出場 1984年4月6日
最終出場 1994年4月22日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

高野 光(たかの ひかる、1961年5月20日 - 2000年11月5日)は、東京都江東区出身のプロ野球選手投手、右投右打)、コーチ。現役時代は主にヤクルトスワローズで活躍。引退後は日本韓国台湾の球団でコーチを務めた。

経歴

1961年東京都江東区生まれ。江東区立深川第三中学校から東海大学付属浦安高等学校に進む。2年生の1978年には第60回全国高等学校野球選手権千葉大会で準決勝に進むが銚子商業に敗れ、ベスト4。1980年首都大学野球連盟の強豪校東海大学に進学、野球部に所属。進学当時の東海大には最上級生として、後に巨人に入団する原辰徳日本ハムに入団した津末英明がいた。首都大学リーグでは在学中に5回優勝。187センチの長身から投げ下ろす150km/h近い速球を武器に頭角を現す。1982年明治神宮野球大会は決勝で大阪商大を破り優勝、1983年の同大会でも決勝で駒大を降し連覇を飾る。リーグ通算37試合登板、23勝1敗、防御率0.91、214奪三振。最高殊勲選手1回、最優秀投手3回、ベストナイン4回受賞。リーグ記録の21連勝を達成した。

1983年秋のドラフト会議では小野和義川端順らとともに注目株と目され、大洋ホエールズ西武ライオンズ阪急ブレーブス、ヤクルトスワローズの4球団から1位指名を受け、入札の結果、ヤクルトが交渉権を獲得。そのままヤクルトに入団(同期入団には栗山英樹池山隆寛橋上秀樹など)。

ルーキーイヤーの開幕戦(対大洋・横浜スタジアム)でいきなり開幕投手を務める。ルーキーの開幕投手は、1962年の巨人・城之内邦雄以来22年ぶりのことでドラフト制導入以後では初めてであった。このシーズンは10勝12敗と負け越したものの尾花高夫梶間健一とともに先発の一角を担うようになる。

1986年に12勝をあげオールスターゲームにも出場し、名実ともにヤクルトの顔となる。しかし、関根潤三監督時代の1989年に故障。アメリカで右肘の靭帯移植手術を受けた。その後リハビリを重ね、野村克也監督時代の1992年4月7日の対中日戦で1076日ぶりの復活勝利を挙げた。8月23日には1214日ぶりの完投勝ちを収めたが、結果的にこれが最後の勝ち星となった[1]。この年のヤクルトは阪神・巨人・広島と激しい優勝争いを繰り広げ、終盤は阪神とのマッチレースになったが、岡林洋一西村龍次伊東昭光らとともに投手陣の核となった高野の活躍もあり、14年ぶりにペナントを制した。日本シリーズでも先発のマウンドに立った。

1993年もヤクルトは優勝したが、高野自身故障続きで一軍登板はなし。1994年柳田聖人との交換トレードで福岡ダイエーホークスへ移籍したものの、故障が完治せず33歳で現役を引退。引退翌年の1995年根来広光が二軍監督を務めるオリックス・ブルーウェーブの二軍投手コーチに就任。2年連続リーグ優勝と1996年の日本一に貢献、金田政彦水尾嘉孝を送り出す。1998年にオリックスを退団。翌1999年からは、台湾プロ野球三商タイガース投手コーチとして選手育成にあたったが、921大地震の影響でチームが解散となり、その影響で退任。

その後、2000年春まで韓国プロ野球現代ユニコーンズで臨時投手コーチをしていたが、帰国後、精神疾患を発する。同年11月5日、豊島区のマンション7階にある自宅から家族の制止を振り切って飛び降り、死亡。精神病による幻覚により誤って転落したと見られていた[2]が、目撃者の話などから自殺と断定された[3]

人物

ギターやピアノ、油絵をたしなむなど多彩な趣味を持っていた。塑像作品でコンクール入賞を果たす、剣道の大会で優勝するなど少年期から多才であった。[4]

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1984 ヤクルト 38 23 3 1 0 10 12 2 -- .455 702 162.0 151 19 82 3 5 128 4 0 95 87 4.83 1.44
1985 29 21 5 1 0 7 11 0 -- .389 634 141.1 143 11 79 1 5 110 5 1 86 78 4.97 1.57
1986 32 30 11 1 0 12 11 0 -- .522 892 209.1 200 18 75 3 3 141 2 0 90 72 3.10 1.31
1987 38 14 4 1 0 7 6 11 -- .538 589 134.1 139 13 59 4 1 95 4 0 69 60 4.02 1.47
1988 21 13 7 1 1 7 7 0 -- .500 495 116.0 104 7 56 3 2 76 6 1 45 44 3.41 1.38
1989 4 3 2 0 0 1 2 0 -- .333 110 26.0 19 4 15 2 3 25 0 0 11 10 3.46 1.31
1992 18 18 1 0 0 7 5 0 -- .583 421 91.0 104 16 47 4 4 62 9 0 68 48 4.75 1.66
1994 ダイエー 2 2 0 0 0 0 1 0 -- .000 32 7.0 4 0 6 0 0 5 1 0 4 3 3.86 1.43
通算:8年 182 124 33 5 1 51 55 13 -- .481 3875 887.0 864 88 419 20 23 642 31 2 468 402 4.08 1.45
  • 各年度の太字はリーグ最高

記録

初記録
その他の記録

背番号

  • 34 (1984年 - 1993年)
  • 22 (1994年)
  • 84 (1995年 - 1998年)
  • 45 (1999年)

登録名

  • 高野 光(1984年 - 1992年)
  • 髙野 光(1993年 - 1994年)

脚注

  1. ^ 【8月23日】1992年(平4) 長かった1214日 高野光 ノムさんの一喝で完投勝利 スポーツニッポン 2010年8月23日
  2. ^ “訃報・高野光さん”. nikkansports.com (日刊スポーツ新聞社). (2000年11月7日). オリジナルの2001年1月19日時点におけるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20010119102500/http://www.nikkansports.com/jinji/2000/seikyo001107.html 2010年10月15日閲覧。 
  3. ^ “<球界関係者の自殺>”. nikkansports.com (日刊スポーツ新聞社). (2010年2月5日). http://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20100205-592930.html 2013年9月24日閲覧。 
  4. ^ 20年前命を絶ったヤクルトのエース、高野光の遺品整理で出てきたもの。(長谷川晶一)”. Number Web - ナンバー. 2020年11月12日閲覧。

関連項目

外部リンク