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先発要員としての獲得だったが、[[尾花髙夫|尾花高夫]]投手コーチがリリーバーとしての適性を見極め、[[山田勉 (投手)|山田勉]]に代わって5月中旬からクローザーとして起用されたが、この起用が当たり、[[勝利の方程式]]の不動の守護神として、チームのリーグ優勝・日本一に大きく貢献した。リーグ優勝と日本一の胴上げ投手になっている。 |
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翌{{by|2000年}}には3勝35[[セーブ]]を挙げ、[[最多セーブ投手 (日本プロ野球)|最優秀救援投手]]のタイトルを獲得し、再びリーグ優勝の胴上げ投手となる。{{by|2001年}}は他球団のマークが厳しくなった中、4勝34セーブを挙げ、2度目の最優秀救援投手のタイトルを獲得した。 |
翌{{by|2000年}}には3勝35[[セーブ]]を挙げ、[[最多セーブ投手 (日本プロ野球)|最優秀救援投手]]のタイトルを獲得し、再びリーグ優勝の胴上げ投手となる。{{by|2001年}}は他球団のマークが厳しくなった中、4勝34セーブを挙げ、2度目の最優秀救援投手のタイトルを獲得した。 |
2020年12月23日 (水) 05:06時点における版
基本情報 | |
---|---|
国籍 | アメリカ合衆国 |
出身地 | テキサス州サンアントニオ |
生年月日 | 1969年12月28日(54歳) |
身長 体重 |
186 cm 98 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1991年 MLBドラフト2巡目 |
初出場 | NPB / 1999年5月1日 |
最終出場 | NPB / 2003年5月25日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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ロドニー・バーナード・ペドラザ(Rodney Bernard Pedraza[1], 1969年12月28日 - )は、アメリカ合衆国テキサス州出身の元プロ野球選手(投手)。
経歴
1991年のMLBドラフト2巡目で、テキサス大学から、モントリオール・エクスポズに指名され契約。1994年にはコロラド・ロッキーズに移籍。それぞれのマイナーチームでプレーした。
1997年は、独立リーグであるノーザンリーグのウィニペグ・ゴールドアイズでプレー。1998年、テキサス・レンジャーズと契約した。1999年4月7日、レンジャーズ傘下2Aタルサより福岡ダイエーホークスに入団。メジャー経験はない。
先発要員としての獲得だったが、尾花高夫投手コーチがリリーバーとしての適性を見極め、山田勉に代わって5月中旬からクローザーとして起用されたが、この起用が当たり、勝利の方程式の不動の守護神として、チームのリーグ優勝・日本一に大きく貢献した。リーグ優勝と日本一の胴上げ投手になっている。
翌2000年には3勝35セーブを挙げ、最優秀救援投手のタイトルを獲得し、再びリーグ優勝の胴上げ投手となる。2001年は他球団のマークが厳しくなった中、4勝34セーブを挙げ、2度目の最優秀救援投手のタイトルを獲得した。
2002年は年々の勤続疲労、制球の乱れ、球威低下などによる成績不振により、ダイエー球団は翌年の契約更新を行わない方針を発表した。
11月18日に読売ジャイアンツが獲得を発表した。当時ダイエーの王貞治監督は、「ペドラザはウェイトトレーニングのしすぎだよ。投手はあんな体になっちゃいけないんだ」と評している。
2003年、巨人ではコリー・ベイリーとともに中継ぎの中核として、またクローザーだった河原純一が故障した場合の代役としての活躍が期待されていたが打ち込まれ、一軍7試合に登板しただけでシーズン序盤の2003年6月16日に解雇され、帰国。同年限りで現役を引退した。
引退後は、テキサス州にてヤフオク!ドーム20個分の敷地を持つ牧場を経営している。
2018年7月16日にヤフオクドームで行われたソフトバンク対西武戦で始球式を行った。2002年以来の同ドームのマウンドでの投球となった。
詳細情報
年度別投手成績
年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1999 | ダイエー | 48 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 1 | 27 | -- | .750 | 231 | 59.0 | 44 | 0 | 10 | 2 | 4 | 38 | 0 | 2 | 15 | 13 | 1.98 | 0.92 |
2000 | 51 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 4 | 35 | -- | .429 | 189 | 50.1 | 35 | 3 | 4 | 1 | 1 | 40 | 0 | 0 | 13 | 12 | 2.15 | 0.77 | |
2001 | 54 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 4 | 34 | -- | .500 | 238 | 56.2 | 63 | 10 | 10 | 2 | 2 | 32 | 0 | 2 | 24 | 23 | 3.65 | 1.29 | |
2002 | 34 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 21 | -- | .333 | 128 | 30.0 | 36 | 4 | 5 | 1 | 0 | 16 | 0 | 0 | 11 | 11 | 3.30 | 1.37 | |
2003 | 巨人 | 7 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | -- | .500 | 36 | 6.0 | 16 | 1 | 1 | 1 | 1 | 0 | 1 | 1 | 10 | 8 | 12.00 | 2.83 |
通算:5年 | 194 | 0 | 0 | 0 | 0 | 12 | 12 | 117 | -- | .500 | 822 | 202.0 | 194 | 18 | 30 | 7 | 8 | 126 | 1 | 5 | 73 | 67 | 2.99 | 1.11 |
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル
- 最優秀救援投手:2回 (2000年、2001年)
表彰
- 月間MVP:1回 (1999年6月)
- IBMプレイヤー・オブ・ザ・イヤー賞:1回 (2000年)
記録
- NPB
- 初登板:1999年5月1日、対西武ライオンズ4回戦(福岡ドーム)、8回表に4番手として救援登板・完了、2回1失点
- 初奪三振:同上、8回表に鈴木健から
- 初セーブ:1999年5月8日、対西武ライオンズ7回戦(西武ドーム)、8回裏に3番手として救援登板・完了、2回無失点
- 初勝利:1999年7月17日、対西武ライオンズ17回戦(福岡ドーム)、10回表に5番手として救援登板・完了、1回無失点
- 通算100セーブ:2002年4月29日、対千葉ロッテマリーンズ4回戦(千葉マリンスタジアム)、9回裏に3番手で救援登板・完了、1回無失点 ※史上11人目
- オールスターゲーム出場:4回 (1999年 - 2002年)
背番号
- 50 (1999年 - 2002年)
- 42 (2003年)
脚注
- ^ ウェイン・グラシック『2002 JAPAN PRO BASEBALL - 英語版 日本プロ野球メディアガイド』日本洋書販売、2002年、ISBN 9784901178778
関連項目
外部リンク
- 選手の通算成績と情報 The Baseball Cube、Baseball-Reference (Register)