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新生UWFでは無骨なキャラクターと正面から立ち向かうスタイルで会場人気を集め、特に[[博多スターレーン]]大会では、[[内藤恒仁]]戦で見せた「しゃちほこ固め」は当時のファンに強烈な印象を残し、客席から「俺は中野が好きだぁー」「俺もだぁー」の声がするほどの支持を得て「'''博多男'''」と呼ばれた。
新生UWFでは無骨なキャラクターと正面から立ち向かうスタイルで会場人気を集め、特に[[博多スターレーン]]大会では、[[内藤恒仁]]戦で見せた「しゃちほこ固め」は当時のファンに強烈な印象を残し、客席から「俺は中野が好きだぁー」「俺もだぁー」の声がするほどの支持を得て「'''博多男'''」と呼ばれた。


新生UWF解散後は[[高田延彦]]の[[UWFインターナショナル]]に参加。[[レオン・ホワイト|ベイダー]]初参戦の相手を勤めたが、秒殺KOされる。なおこの対戦は、中野のキャラクターにほれ込んだ、ある[[週刊プロレス]]記者の熱烈なプッシュにより実現したとされる。
新生UWF解散後は[[髙田延彦|高田延彦]]の[[UWFインターナショナル]]に参加。[[レオン・ホワイト|ベイダー]]初参戦の相手を勤めたが、秒殺KOされる。なおこの対戦は、中野のキャラクターにほれ込んだ、ある[[週刊プロレス]]記者の熱烈なプッシュにより実現したとされる。


1995年10月9日、UWFインターナショナルと新日本プロレスの対抗戦では、[[東京ドーム]]のセミファイナルで[[橋本真也]]と激突。40kgの体重差を見せ付けられ、7分少々で、垂直落下DDTからの三角絞めでギブアップ敗北を喫してしまい、橋本からは「役不足。蹴りだけじゃ勝てないよ」と失格の烙印を押されてしまう(ちなみに役不足は役のほうが軽いという意味なので使い方としては間違い)。ただし、9月に行われた前哨戦では、[[安生洋二]]とのコンビで[[長州力]]・[[永田裕志]]組と対戦し、永田から十字固めでギブアップを奪っている。
1995年10月9日、UWFインターナショナルと新日本プロレスの対抗戦では、[[東京ドーム]]のセミファイナルで[[橋本真也]]と激突。40kgの体重差を見せ付けられ、7分少々で、垂直落下DDTからの三角絞めでギブアップ敗北を喫してしまい、橋本からは「役不足。蹴りだけじゃ勝てないよ」と失格の烙印を押されてしまう(ちなみに役不足は役のほうが軽いという意味なので使い方としては間違い)。ただし、9月に行われた前哨戦では、[[安生洋二]]とのコンビで[[長州力]]・[[永田裕志]]組と対戦し、永田から十字固めでギブアップを奪っている。

2020年12月23日 (水) 04:38時点における版

中野 巽耀
プロフィール
リングネーム 中野 巽耀
中野 龍雄
本名 中野 龍雄
身長 172cm
体重 98kg
誕生日 (1965-06-16) 1965年6月16日(59歳)
出身地 茨城県下妻市
トレーナー カール・ゴッチ
デビュー 1984年8月29日
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中野 龍雄(なかの たつお、1965年6月16日 - )は、日本プロレスラー茨城県下妻市出身。身長172cm、体重98kg。現在のリングネームは中野 巽耀(たつあき)である[1]

来歴

ラッシャー木村に憧れ、1984年に彼が在籍していた旧UWFへ入門。学生時代は柔道に打ち込んでいる。同年8月29日、高崎市中央体育館における廣松智戦でデビュー。

1986年、新日本プロレスとUWFの業務提携時は、新日本の若手の船木優治・野上彰組に、安生洋二とタッグを組んで臨んだ試合はUWFスタイルと新日本スタイルが融合する好試合となり前座の名物カードとなった。

1987年、新日本プロレスのヤングライオン杯に出場。

1988年4月、新生UWFの旗揚げに参加。 新生UWFでは無骨なキャラクターと正面から立ち向かうスタイルで会場人気を集め、特に博多スターレーン大会では、内藤恒仁戦で見せた「しゃちほこ固め」は当時のファンに強烈な印象を残し、客席から「俺は中野が好きだぁー」「俺もだぁー」の声がするほどの支持を得て「博多男」と呼ばれた。

新生UWF解散後は高田延彦UWFインターナショナルに参加。ベイダー初参戦の相手を勤めたが、秒殺KOされる。なおこの対戦は、中野のキャラクターにほれ込んだ、ある週刊プロレス記者の熱烈なプッシュにより実現したとされる。

1995年10月9日、UWFインターナショナルと新日本プロレスの対抗戦では、東京ドームのセミファイナルで橋本真也と激突。40kgの体重差を見せ付けられ、7分少々で、垂直落下DDTからの三角絞めでギブアップ敗北を喫してしまい、橋本からは「役不足。蹴りだけじゃ勝てないよ」と失格の烙印を押されてしまう(ちなみに役不足は役のほうが軽いという意味なので使い方としては間違い)。ただし、9月に行われた前哨戦では、安生洋二とのコンビで長州力永田裕志組と対戦し、永田から十字固めでギブアップを奪っている。

その後もUのリングで、佐々木健介、長州力と激突するが敗れる。このころ、Uの同志対決でも後輩の山本健一(現・山本喧一)や高山善廣に敗れたりと、負けが続く。

1996年、離脱後は全日本プロレスWARなどを筆頭に、各インディー団体で活躍。

1998年、シュートボクシングのリングでエマニュエル・ヤーブローとバーリトゥード戦を行うが、1分足らずで敗退。何戦か総合格闘技の試合を行うが戦績は芳しくない。

人物

負けん気の強さが持ち味で頻繁に鼻血を出す。ゴング前の握手にはまず応じない。また、試合前のインタビューの時に落ち着きがなく、体を常に痙攣させているのも特徴。

もともと幼少時に憧れていたプロレスラーは藤波辰爾である[2]。新日本や全日本に書類審査で落ち、地元市議会議員を通じ国際プロレスを紹介され、ラッシャー木村と出会った[3]。第一次UWF入門も木村とのつながりが大きく、他の入門者と違い、俗にいう“UWFスタイル”への思い入れは薄い。自身のファイトスタイルを「入門時に刷り込まれたものを実践しているだけ」としている[4]

戦績

総合格闘技 戦績
2 試合 (T)KO 一本 判定 その他 引き分け 無効試合
0 0 0 0 0 0 0
2 0 2 0 0
勝敗 対戦相手 試合結果 大会名 開催年月日
× ドス・カラスJr 1R 4:05 チョークスリーパー DEEP2001 6th IMPACT in ARIAKE COLOSSEUM 2002年9月7日
× エマニュエル・ヤーブロー 1R 1:17 上四方固め SHOOT THE SHOOTO XX 1998年4月26日

入場テーマ曲

使い始めた当時はCD音源がなく、映画を録画したビデオテープからダビングしたものを使用していたが、週刊プロレス誌上で音源提供を呼びかけたところ、ジョー山中本人からテープがプレゼントされた。

出演

映画

テレビドラマ

著書

脚注

  1. ^ ”純UWF“中野が見たアンドレ戦直後の前田日明…金曜8時のプロレスコラム”. スポーツ報知 (2020年4月3日). 2020年6月20日閲覧。
  2. ^ 中野巽耀『私説UWF 中野巽耀自伝』(2020年、辰巳出版)14頁
  3. ^ 中野巽耀『私説UWF 中野巽耀自伝』(2020年、辰巳出版)21頁
  4. ^ 中野巽耀『私説UWF 中野巽耀自伝』(2020年、辰巳出版)46頁