「レーモン3世 (トリポリ伯)」の版間の差分
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1164年、アルターの戦闘で捕虜となり、10年間牢につながれた。解放後の1174年、ゴーティエ・ド・サントメールの寡婦でガリラヤ女公(ティベリアス領主)のエスティヴァ<ref>S.Runciman、Genealogical Trees. |
1164年、アルターの戦闘で捕虜となり、10年間牢につながれた。解放後の1174年、ゴーティエ・ド・サントメールの寡婦でガリラヤ女公(ティベリアス領主)のエスティヴァ<ref>S.Runciman、Genealogical Trees. |
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</ref>と結婚し、ティベリアスを領地として得た<ref>『十字軍全史』、p.62</ref>。当時、フランク人でもっとも賢明な人物といわれ<ref>ジョルジュ・タート、p.112</ref>、1174年に[[エルサレム王国|エルサレム王]][[ボードゥアン4世]](従兄の子にあたる)の摂政となり、のちにその甥で後継者の[[ボードゥアン5世 (エルサレム王)|ボードゥアン5世]]の摂政も務めたが、1186年、ボードゥアン5世の死後エルサレム王位についた[[ギー・ド・リュジニャン]]と対立した。1187年春に[[サラーフッディーン|サラディン]]が侵攻した際には、独断で休戦協定を結んだが、その後[[ルノー・ド・シャティヨン]]やテンプル騎士団総長ジェラール・ド・リドフォールがムスリムを襲撃し、休戦は破棄された状態となった。同年7月2日、サッフリーヤに陣をかまえる十字軍国家のフランク軍をおびき出すため、サラディンはレーモンの妻とその子(前夫との息子)のいるティベリアスを攻撃した。7月4日、フランク軍は[[ヒッティーンの戦い]]においてムスリム軍に大敗し、エルサレム王ギーやルノーは捕虜となったが、レーモンは先遣部隊を率いてムスリム軍の包囲を突破し、逃げ切ることができた<ref>A.ジョティシュキー、p.162</ref>。しかし、レーモンはその後まもなくしてトリポリで病没した。 |
</ref>と結婚し、ティベリアスを領地として得た<ref>『十字軍全史』、p.62</ref>。当時、フランク人でもっとも賢明な人物といわれ<ref>ジョルジュ・タート、p.112</ref>、1174年に[[エルサレム王国|エルサレム王]][[ボードゥアン4世 (エルサレム王)|ボードゥアン4世]](従兄の子にあたる)の摂政となり、のちにその甥で後継者の[[ボードゥアン5世 (エルサレム王)|ボードゥアン5世]]の摂政も務めたが、1186年、ボードゥアン5世の死後エルサレム王位についた[[ギー・ド・リュジニャン]]と対立した。1187年春に[[サラーフッディーン|サラディン]]が侵攻した際には、独断で休戦協定を結んだが、その後[[ルノー・ド・シャティヨン]]やテンプル騎士団総長ジェラール・ド・リドフォールがムスリムを襲撃し、休戦は破棄された状態となった。同年7月2日、サッフリーヤに陣をかまえる十字軍国家のフランク軍をおびき出すため、サラディンはレーモンの妻とその子(前夫との息子)のいるティベリアスを攻撃した。7月4日、フランク軍は[[ヒッティーンの戦い]]においてムスリム軍に大敗し、エルサレム王ギーやルノーは捕虜となったが、レーモンは先遣部隊を率いてムスリム軍の包囲を突破し、逃げ切ることができた<ref>A.ジョティシュキー、p.162</ref>。しかし、レーモンはその後まもなくしてトリポリで病没した。 |
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レーモンと妻エスティヴァの間に子はなく、レーモンはアンティオキア公ボエモン3世の長子レーモン(4世)を養子としてトリポリ伯位の後継者に指名した。しかし、ボエモン3世の意向により、トリポリ伯位はレーモンの弟ボエモン4世に継承された。レーモン(4世)は父ボエモン3世に先立って死去した。 |
レーモンと妻エスティヴァの間に子はなく、レーモンはアンティオキア公ボエモン3世の長子レーモン(4世)を養子としてトリポリ伯位の後継者に指名した。しかし、ボエモン3世の意向により、トリポリ伯位はレーモンの弟ボエモン4世に継承された。レーモン(4世)は父ボエモン3世に先立って死去した。 |
2020年12月5日 (土) 02:26時点における版
レーモン3世 Raymond III | |
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トリポリ伯 | |
レーモン3世のシール | |
在位 | 1152年 - 1187年 |
出生 |
1140年 |
死去 |
1187年 トリポリ |
配偶者 | ガリラヤ女公エスティヴァ |
家名 | トゥールーズ家 |
父親 | レーモン2世 |
母親 | オディエルヌ |
レーモン3世(Raymond III, 1140年 - 1187年)は、トリポリ伯(在位:1152年 - 1187年)。母オディエルヌはエルサレム王ボードゥアン2世の娘[1]。
生涯
1164年、アルターの戦闘で捕虜となり、10年間牢につながれた。解放後の1174年、ゴーティエ・ド・サントメールの寡婦でガリラヤ女公(ティベリアス領主)のエスティヴァ[2]と結婚し、ティベリアスを領地として得た[3]。当時、フランク人でもっとも賢明な人物といわれ[4]、1174年にエルサレム王ボードゥアン4世(従兄の子にあたる)の摂政となり、のちにその甥で後継者のボードゥアン5世の摂政も務めたが、1186年、ボードゥアン5世の死後エルサレム王位についたギー・ド・リュジニャンと対立した。1187年春にサラディンが侵攻した際には、独断で休戦協定を結んだが、その後ルノー・ド・シャティヨンやテンプル騎士団総長ジェラール・ド・リドフォールがムスリムを襲撃し、休戦は破棄された状態となった。同年7月2日、サッフリーヤに陣をかまえる十字軍国家のフランク軍をおびき出すため、サラディンはレーモンの妻とその子(前夫との息子)のいるティベリアスを攻撃した。7月4日、フランク軍はヒッティーンの戦いにおいてムスリム軍に大敗し、エルサレム王ギーやルノーは捕虜となったが、レーモンは先遣部隊を率いてムスリム軍の包囲を突破し、逃げ切ることができた[5]。しかし、レーモンはその後まもなくしてトリポリで病没した。
レーモンと妻エスティヴァの間に子はなく、レーモンはアンティオキア公ボエモン3世の長子レーモン(4世)を養子としてトリポリ伯位の後継者に指名した。しかし、ボエモン3世の意向により、トリポリ伯位はレーモンの弟ボエモン4世に継承された。レーモン(4世)は父ボエモン3世に先立って死去した。
脚注
- ^ A.ジョティシュキー、p.152
- ^ S.Runciman、Genealogical Trees.
- ^ 『十字軍全史』、p.62
- ^ ジョルジュ・タート、p.112
- ^ A.ジョティシュキー、p.162
参考文献
- A.ジョティシュキー『十字軍の歴史』刀水書房、2013年
- Steven Runciman, A History of the Crusades: vol.2 The Kingdom of Jerusalem and the Frankish East 1100-1187, Cambridge University Press, 1987.
- 新人物往来社 編『十字軍全史』新人物往来社、2011年
- ジョルジュ・タート『十字軍』創元社、1993年