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「ジョン・チェットウィンド=タルボット (初代タルボット伯爵)」の版間の差分

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== 生涯 ==
== 生涯 ==
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1777年5月、[[ヘンリー・ハワード (第12代サフォーク伯爵)|第12代サフォーク伯爵ヘンリー・ハワード]]の支持を得て{{仮リンク|キャッスル・ライジング選挙区|en|Castle Rising (UK Parliament constituency)}}の補欠選挙に出馬、無投票で当選した<ref name="HOP" /><ref name="HOPCastleRising">{{HistoryofParliament|1754|url=https://www.historyofparliamentonline.org/volume/1754-1790/constituencies/castle-rising|title=Castle Rising|last=Cannon|first=J. A.|access-date=22 October 2020}}</ref>。[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]では常に[[ノース内閣]]を支持、1781年12月に下級商務卿({{lang|en|Lord of Trade}})に任命された<ref name="HOP" />。以降[[第2次ロッキンガム侯爵内閣]]期の1782年5月に[[商務庁 (イギリス)|商務庁]]が一時的に廃止されるまで務めた<ref name="HOP" />。
1777年5月、[[ヘンリー・ハワード (第12代サフォーク伯爵)|第12代サフォーク伯爵ヘンリー・ハワード]]の支持を得て{{仮リンク|キャッスル・ライジング選挙区|en|Castle Rising (UK Parliament constituency)}}の補欠選挙に出馬、無投票で当選した<ref name="HOP" /><ref name="HOPCastleRising">{{HistoryofParliament|1754|url=https://www.historyofparliamentonline.org/volume/1754-1790/constituencies/castle-rising|title=Castle Rising|last=Cannon|first=J. A.|access-date=22 October 2020}}</ref>。[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]では常に[[ノース内閣]]を支持、1781年12月に下級商務卿({{lang|en|Lord of Trade}})に任命された<ref name="HOP" />。以降[[第2次ロッキンガム侯爵内閣]]期の1782年5月に[[商務庁 (イギリス)|商務庁]]が一時的に廃止されるまで務めた<ref name="HOP" />。
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== 家族 ==
== 家族 ==
[[File:Thomas Lawrence - The Two Sons of the 1st Earl of Talbot - WGA12509.jpg|thumb|right|初代タルボット伯爵の2人の息子。[[トーマス・ローレンス (画家)|トーマス・ローレンス]]画、1793年。]]
[[File:Thomas Lawrence - The Two Sons of the 1st Earl of Talbot - WGA12509.jpg|thumb|right|初代タルボット伯爵の2人の息子。[[トーマス・ローレンス (画家)|トーマス・ローレンス]]画、1793年。]]
1776年5月7日、シャーロット・ヒル({{lang|en|Charlotte Hill}}、1754年5月15日 – 1804年1月17日、[[ウィルズ・ヒル (初代ダウンシャー侯爵)|初代ダウンシャー侯爵ウィルズ・ヒル]]の娘)と結婚<ref name="Cokayne" />、2男をもうけた<ref name="Cracroft">{{Cite web2|language=en|website=Cracroft's Peerage|url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/talbot1784.htm|title=Talbot, Earl (GB, 1784)|date=21 February 2003|access-date=22 October 2020}}</ref>。
1776年5月7日、シャーロット・ヒル({{lang|en|Charlotte Hill}}、1754年5月15日 – 1804年1月17日、[[ウィルズ・ヒル (初代ダウンシャー侯爵)|初代ダウンシャー侯爵ウィルズ・ヒル]]の娘)と結婚<ref name="Cokayne" />、2男をもうけた<ref name="Cracroft">{{Cite web2|language=en|website=Cracroft's Peerage|url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/talbot1784.htm|title=Talbot, Earl (GB, 1784)|date=21 February 2003|access-date=22 October 2020}}</ref>。
*[[チャールズ・チェットウィンド=タルボット (第2代タルボット伯爵)|チャールズ・チェットウィンド]](1777年4月25日 – 1849年1月10日) - 第2代タルボット伯爵
*[[チャールズ・チェットウィンド=タルボット (第2代タルボット伯爵)|チャールズ・チェットウィンド]](1777年4月25日 – 1849年1月10日) - 第2代タルボット伯爵
*ジョン(1779年4月4日 – 1825年2月8日)
*ジョン(1779年4月4日 – 1825年2月8日)

2020年12月4日 (金) 06:25時点における版

ポンペオ・バトーニによる肖像画、1773年画。

初代タルボット伯爵ジョン・チェットウィンド=タルボット英語: John Chetwynd-Talbot, 1st Earl Talbot1750年1月5日1793年5月19日)は、グレートブリテン王国の政治家、貴族。1777年から1782年まで庶民院議員を務めた。

生涯

ジョン・タルボット閣下英語版(1756年9月23日没、初代タルボット男爵チャールズ・タルボットの次男)と2人目の妻ヘンリエッタ・キャサリン・チェットウィンド(Henrietta Catherine Chetwynd、1722年9月13日 – 1785年1月20日、第2代チェットウィンド子爵ジョン・チェットウィンドの娘[1])の息子として、1750年1月5日に生まれ[2]、2月25日にセント・クレメント・デーンズ英語版で洗礼を受けた[3]。1760年よりイートン・カレッジで教育を受けた後[4]、1766年2月10日にオックスフォード大学モードリン・カレッジに入学、1769年4月19日にM.A.の学位を修得した[5]

1777年5月、第12代サフォーク伯爵ヘンリー・ハワードの支持を得てキャッスル・ライジング選挙区英語版の補欠選挙に出馬、無投票で当選した[4][6]庶民院では常にノース内閣を支持、1781年12月に下級商務卿(Lord of Trade)に任命された[4]。以降第2次ロッキンガム侯爵内閣期の1782年5月に商務庁が一時的に廃止されるまで務めた[4]

1782年4月27日に父方の伯父にあたる初代タルボット伯爵ウィリアム・タルボット英語版が死去すると、タルボット伯爵位(第1期)は廃絶したが、その従属爵位であったタルボット男爵位についてはジョンが継承した[2][3]。1784年7月3日、グレートブリテン貴族であるスタッフォードシャーにおけるインガスターのインガスター子爵グラモーガン州におけるヘンソルのタルボット伯爵に叙された[2]貴族院ではチャールズ・ジェームズ・フォックスの東インド法案に反対票を投じ、摂政法案をめぐる採決では小ピットを支持した[4]

1785年1月20日に母が死去すると[1]スタッフォードシャーにおける地所を継承[4]、1786年4月19日に国王の認可状を得て「チェットウィンド」を姓に加えた[3]

1793年5月19日[4]ロンドンストラトフォード・プレイス英語版で死去、インガスター英語版で埋葬された[3]。息子チャールズ・チェットウィンドが爵位を継承した[3]

家族

初代タルボット伯爵の2人の息子。トーマス・ローレンス画、1793年。

1776年5月7日、シャーロット・ヒル(Charlotte Hill、1754年5月15日 – 1804年1月17日、初代ダウンシャー侯爵ウィルズ・ヒルの娘)と結婚[3]、2男をもうけた[2]

出典

  1. ^ a b "Talbot of Hensol, Baron (GB, 1733)". Cracroft's Peerage (英語). 22 February 2003. 2020年10月22日閲覧
  2. ^ a b c d "Talbot, Earl (GB, 1784)". Cracroft's Peerage (英語). 21 February 2003. 2020年10月22日閲覧
  3. ^ a b c d e f Cokayne, George Edward, ed. (1896). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (S to T) (英語). Vol. 7 (1st ed.). London: George Bell & Sons. p. 362.
  4. ^ a b c d e f g Brooke, John (1964). "TALBOT, John Chetwynd (1750-93).". In Namier, Sir Lewis; Brooke, John (eds.). The House of Commons 1754-1790 (英語). The History of Parliament Trust. 2020年10月22日閲覧
  5. ^ Foster, Joseph, ed. (1891). Alumni Oxonienses 1715-1886 (S to Z) (英語). Vol. 4. Oxford: University of Oxford. p. 1384.
  6. ^ Cannon, J. A. (1964). "Castle Rising". In Namier, Sir Lewis; Brooke, John (eds.). The House of Commons 1754-1790 (英語). The History of Parliament Trust. 2020年10月22日閲覧
グレートブリテン議会英語版
先代
チャールズ・フィンチ閣下英語版
ロバート・マクレース英語版
庶民院議員(キャッスル・ライジング選挙区英語版選出)
1777年 – 1782年
同職:ロバート・マクレース英語版
次代
サー・ジェームズ・アースキン準男爵英語版
ロバート・マクレース英語版
グレートブリテンの爵位
爵位創設 タルボット伯爵
第2期
1784年 – 1793年
次代
チャールズ・チェットウィンド=タルボット
先代
ウィリアム・タルボット英語版
タルボット男爵
1782年 – 1793年