「マグダラのネイピア男爵」の版間の差分
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[[イギリス陸軍|英国陸軍]]軍人ロバート・ネイピア(1810年 - 1890年)は、{{仮リンク|イギリス・エチオピア戦争|en|British_Expedition_to_Abyssinia}}下の{{仮リンク|マグダラの戦い|en|Battle_of_Magdala}}を指揮して完勝した功により、[[1868年]][[7月17日]]に[[連合王国貴族]]として'''アビシニア及びチェスター王権伯領カリントンにおけるマグダラのネイピア男爵''' (Baron Napier of Magdala, in Abyssinia and of Caryngton in the County Palatine of Chester) に叙された<ref name=":0" /><ref name=":1">{{Cite web|url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/napier1868.htm|title=Baron Napier (1868)|accessdate=2019年11月7日|publisher=cracroft's Peerage}}</ref>。さらに、1883年には[[元帥 (イギリス)|陸軍元帥]]に昇進したほか、[[ジブラルタル総督]]職を務めている<ref>{{Cite web|url=https://www.thegazette.co.uk/London/issue/25183/page/6650|title=No.25183|accessdate=2019年11月7日|publisher=The Gazette 29 December 1882}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://archive.org/details/biographicalnoti00thaciala/page/212|title=Biographical notices of officers of the Royal (Bengal) engineers|accessdate=2019年11月7日|publisher=Thackeray, Edward Talbot, Sir,(1900),London : Smith, Elder, & co}}</ref>。 |
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なお、大法官府事務次官を務めた官僚{{仮リンク|アルバート・ネイピア|en|Albert_Napier|label=サー・アルバート・ネイピア}}は初代男爵の次男にあたる<ref name=":1" />。 |
なお、大法官府事務次官を務めた官僚{{仮リンク|アルバート・ネイピア|en|Albert_Napier|label=サー・アルバート・ネイピア}}は初代男爵の次男にあたる<ref name=":1" />。 |
2020年12月4日 (金) 06:05時点における版
マグダラのネイピア男爵 | |
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Arms:Gules on a Saltire between two Mural Crowns in plane and as many Lions passant in fess Or a Rose of the field Crest:Upon a Mount Vert a Lion passant Or gorged with a Collar Gules therefrom a Chain reflexed over the back and broken Gold supporting with the sinister forepaw a Flagstaff in bend sinister proper flowing therefrom a Banner Argent charged with a Cross Couped Gules Supporters:Dexter: a Soldier of the Corps of Royal Engineers holding in the exterior hand a Musket all proper; Sinister: a Sikh Sirdar habited and holding in the exterior hand a Matchlock all proper
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創設時期 | 1868年7月17日 |
創設者 | ヴィクトリア |
貴族 | 連合王国貴族 |
初代 | 初代男爵ロバート・ネイピア |
現所有者 | 6代男爵ロバート・ネイピア |
相続人 | ジェームズ・ネイピア閣下 |
相続資格 | 初代男爵の嫡出直系男子 |
付随称号 | なし |
現況 | 存続 |
モットー | Tu Vincula Frange (Break thou the chains) |
マグダラのネイピア男爵(英:Baron Napier of Magdala)は、イギリスの男爵、貴族、連合王国貴族爵位。サー・ロバート・ネイピア陸軍元帥が叙されたことに始まる[1]。
歴史
英国陸軍軍人ロバート・ネイピア(1810年 - 1890年)は、イギリス・エチオピア戦争下のマグダラの戦いを指揮して完勝した功により、1868年7月17日に連合王国貴族としてアビシニア及びチェスター王権伯領カリントンにおけるマグダラのネイピア男爵 (Baron Napier of Magdala, in Abyssinia and of Caryngton in the County Palatine of Chester) に叙された[1][2]。さらに、1883年には陸軍元帥に昇進したほか、ジブラルタル総督職を務めている[3][4]。
なお、大法官府事務次官を務めた官僚サー・アルバート・ネイピアは初代男爵の次男にあたる[2]。
その後は長男、次男、異母兄の順で爵位が継承されたほか、これ以降は4代男爵の系統で現在に至っており、現当主である6代男爵はその孫にあたる[2]。
爵位にかかるモットーは「汝、その鎖を解き放て(Tu Vincula Frange.)』。これは、マグダラの戦いに臨む初代男爵に対してヴィクトリア女王が督戦した電文の内容に由来する[5][注釈 1]。
マグダラのネイピア男爵(1868年)
- 初代マグダラのネイピア男爵ロバート・ジョージ・コルネリス・ネイピア(1810年 - 1890年)
- 第2代マグダラのネイピア男爵ロバート・ウィリアム・ネイピア(1845年 - 1921年)
- 第3代マグダラのネイピア男爵ジェームス・ピアス・ネイピア(1849年 - 1935年)
- 第4代マグダラのネイピア男爵エドワード・ハーバート・スコット・ネイピア(1861年 - 1948年)
- 第5代マグダラのネイピア男爵ロバート・ジョン・ネイピア(1904年 - 1987年)
- 第6代マグダラのネイピア男爵ロバート・アラン・ネイピア(1940年 - )
法定推定相続人は、現当主の息子であるジェームス・ロバート・ネイピア(1966年 - )。
脚注
注釈
出典
- ^ a b “No.23400”. The Gazette 14 July 1868. 2019年11月7日閲覧。
- ^ a b c “Baron Napier (1868)”. cracroft's Peerage. 2019年11月7日閲覧。
- ^ “No.25183”. The Gazette 29 December 1882. 2019年11月7日閲覧。
- ^ “Biographical notices of officers of the Royal (Bengal) engineers”. Thackeray, Edward Talbot, Sir,(1900),London : Smith, Elder, & co. 2019年11月7日閲覧。
- ^ a b ニーアル・ファーガソン (2018年6月10日). 大英帝国の歴史(上),p=288. 中央公論新社