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「ジョン・アースキン (第18代マー伯)」の版間の差分

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第18代[[マー伯爵]]{{Refnest|group=注釈|本記事の人物は1565年にマー伯爵の爵位を回復したが、1875年の[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]裁決と1885年の議会立法の結果、爵位復活と爵位創設の両方が行われたものとみなされ<ref name="EB1911">{{Cite EB1911|wstitle=Mar, Earldom of|volume=17|pages=665–666|last=Round|first=John Horace|authorlink=ジョン・ホレス・ラウンド}}</ref>、本記事の人物は中世創設の爵位では「第18代マー伯爵」、1565年創設の爵位では「初代マー伯爵」となる。また、『クラクロフト貴族名鑑』など1435年没の{{仮リンク|アレクサンダー・ステュアート (第12代マー伯爵)|en|Alexander Stewart, Earl of Mar|label=第12代マー伯爵アレクサンダー・ステュアート}}を正式な伯爵として数えない文献もあり<ref name="Cracroft">{{Cite web2|language=en|website=Cracroft's Peerage|title=Mar, Earl of (S, 1114)|url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/mar1114.htm|date=18 March 2013|accessdate=2 November 2019}}</ref>、その場合は本記事の人物が中世創設の爵位における「第17代マー伯爵」となる。}}'''ジョン・アースキン'''({{lang|en|John Erskine, 18th Earl of Mar}}、[[1510年]]頃 - [[1572年]][[10月28日]])は、[[スコットランド王国|スコットランド]]の貴族、政治家。はじめ[[メアリー (スコットランド女王)|メアリー女王]]に仕え、[[1565年]]にマー伯の回復を認められるなど厚遇されたが、[[1567年]]に女王を見限って反乱貴族側に加わり、女王を退位に追い込んだ。その後、幼君[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェイムズ6世]]の摂政(在職:1571年 - 1572年)に就任するも間もなく死去した。
第18代[[マー伯爵]]{{Refnest|group=注釈|本記事の人物は1565年にマー伯爵の爵位を回復したが、1875年の[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]裁決と1885年の議会立法の結果、爵位復活と爵位創設の両方が行われたものとみなされ<ref name="EB1911">{{Cite EB1911|wstitle=Mar, Earldom of|volume=17|pages=665–666|last=Round|first=John Horace|authorlink=ジョン・ホレス・ラウンド}}</ref>、本記事の人物は中世創設の爵位では「第18代マー伯爵」、1565年創設の爵位では「初代マー伯爵」となる。また、『クラクロフト貴族名鑑』など1435年没の{{仮リンク|アレクサンダー・ステュアート (第12代マー伯爵)|en|Alexander Stewart, Earl of Mar|label=第12代マー伯爵アレクサンダー・ステュアート}}を正式な伯爵として数えない文献もあり<ref name="Cracroft">{{Cite web2|language=en|website=Cracroft's Peerage|title=Mar, Earl of (S, 1114)|url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/mar1114.htm|date=18 March 2013|accessdate=2 November 2019}}</ref>、その場合は本記事の人物が中世創設の爵位における「第17代マー伯爵」となる。}}'''ジョン・アースキン'''({{lang|en|John Erskine, 18th Earl of Mar}}、[[1510年]]頃 - [[1572年]][[10月28日]])は、[[スコットランド王国|スコットランド]]の貴族、政治家。はじめ[[メアリー (スコットランド女王)|メアリー女王]]に仕え、[[1565年]]にマー伯の回復を認められるなど厚遇されたが、[[1567年]]に女王を見限って反乱貴族側に加わり、女王を退位に追い込んだ。その後、幼君[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェイムズ6世]]の摂政(在職:1571年 - 1572年)に就任するも間もなく死去した。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
第5代{{仮リンク|アースキン卿|en|Lord Erskine}}{{仮リンク|ジョン・アースキン (第5代アースキン卿)|label=ジョン・アースキン|en|John Erskine, 5th Lord Erskine}}とその妻マーガレット・キャンベル(第2代[[アーガイル伯爵]]{{仮リンク|アーチボルド・キャンベル (第2代アーガイル伯爵)|label=アーチボルド・キャンベル|en|Archibald Campbell, 2nd Earl of Argyll}}の娘)の息子として生まれる<ref name="thepeerage.com">{{Cite web |url=http://thepeerage.com/p1936.htm#i19354|title=John Erskine, 18th/1st Earl of Mar|accessdate= 2017-11-11 |last= Lundy |first= Darryl |work= [http://thepeerage.com/ thepeerage.com] |language= 英語 }}</ref><ref name="CP EM">{{Cite web |title=Mar, Earl of (S, 1114)|url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/mar1114.htm|accessdate= 2017-10-26|last= Heraldic Media Limited |work= [http://www.cracroftspeerage.co.uk/online/content/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage] |language= 英語 }}</ref>。
第5代{{仮リンク|アースキン卿|en|Lord Erskine}}{{仮リンク|ジョン・アースキン (第5代アースキン卿)|label=ジョン・アースキン|en|John Erskine, 5th Lord Erskine}}とその妻マーガレット・キャンベル(第2代[[アーガイル伯爵]]{{仮リンク|アーチボルド・キャンベル (第2代アーガイル伯爵)|label=アーチボルド・キャンベル|en|Archibald Campbell, 2nd Earl of Argyll}}の娘)の息子として生まれる<ref name="thepeerage.com">{{Cite web |url=http://thepeerage.com/p1936.htm#i19354|title=John Erskine, 18th/1st Earl of Mar|accessdate= 2017-11-11 |last= Lundy |first= Darryl |work= [http://thepeerage.com/ thepeerage.com] |language= 英語 }}</ref><ref name="CP EM">{{Cite web |title=Mar, Earl of (S, 1114)|url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/mar1114.htm|accessdate= 2017-10-26|last= Heraldic Media Limited |work= [http://www.cracroftspeerage.co.uk/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage] |language= 英語 }}</ref>。


[[1552年]]に父の死により第6代アースキン卿の爵位を継承した<ref name="Chisholm">{{Cite EB1911|wstitle=Mar, John Erskine, 1st or 6th Earl of|volume=17|page=666}}</ref>。スターリング城の城守(Keeper of Stirling Castle)やエディンバラ城の城守(Keeper of Edinburgh Castle)を務めた<ref name="thepeerage.com"/>。[[メアリー (スコットランド女王) |メアリー女王]]の母[[メアリ・オブ・ギーズ]]が摂政として権勢をふるっている時代には穏健プロテスタントとしてカトリックのメアリ・オブ・ギーズとプロテスタント貴族たちの対立緩和に努めた<ref name="ブリタニカ">[https://kotobank.jp/word/%E3%83%9E%E3%83%BC%28%E4%BC%AF%29-135321 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典]</ref>。1559年から1560年の動乱中も中立の立場で城の防衛にあたっていた{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=451}}。
[[1552年]]に父の死により第6代アースキン卿の爵位を継承した<ref name="Chisholm">{{Cite EB1911|wstitle=Mar, John Erskine, 1st or 6th Earl of|volume=17|page=666}}</ref>。スターリング城の城守(Keeper of Stirling Castle)やエディンバラ城の城守(Keeper of Edinburgh Castle)を務めた<ref name="thepeerage.com"/>。[[メアリー (スコットランド女王) |メアリー女王]]の母[[メアリ・オブ・ギーズ]]が摂政として権勢をふるっている時代には穏健プロテスタントとしてカトリックのメアリ・オブ・ギーズとプロテスタント貴族たちの対立緩和に努めた<ref name="ブリタニカ">[https://kotobank.jp/word/%E3%83%9E%E3%83%BC%28%E4%BC%AF%29-135321 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典]</ref>。1559年から1560年の動乱中も中立の立場で城の防衛にあたっていた{{sfn|松村赳|富田虎男|2000| p=451}}。

2020年12月4日 (金) 05:50時点における版

第18代マー伯爵
ジョン・アースキン
John Erskine
18th Earl of Mar
マー伯爵アースキン家英語版
第18代マー伯ジョン・アースキン
続柄 先代の息子

称号 第18代マー伯爵
出生 1510年
死去 1572年10月28日
配偶者 アナベル・マレー
子女 19代マー伯爵ジョン・アースキン英語版
メアリー・アースキン
父親 5代アースキン卿ジョン・アースキン英語版
母親 マーガレット・キャンベル
役職 スコットランド摂政(1571年 - 1572年)
宗教 プロテスタント
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第18代マー伯爵[注釈 1]ジョン・アースキンJohn Erskine, 18th Earl of Mar1510年頃 - 1572年10月28日)は、スコットランドの貴族、政治家。はじめメアリー女王に仕え、1565年にマー伯の回復を認められるなど厚遇されたが、1567年に女王を見限って反乱貴族側に加わり、女王を退位に追い込んだ。その後、幼君ジェイムズ6世の摂政(在職:1571年 - 1572年)に就任するも間もなく死去した。

経歴

第5代アースキン卿英語版ジョン・アースキン英語版とその妻マーガレット・キャンベル(第2代アーガイル伯爵アーチボルド・キャンベル英語版の娘)の息子として生まれる[3][4]

1552年に父の死により第6代アースキン卿の爵位を継承した[5]。スターリング城の城守(Keeper of Stirling Castle)やエディンバラ城の城守(Keeper of Edinburgh Castle)を務めた[3]メアリー女王の母メアリ・オブ・ギーズが摂政として権勢をふるっている時代には穏健プロテスタントとしてカトリックのメアリ・オブ・ギーズとプロテスタント貴族たちの対立緩和に努めた[6]。1559年から1560年の動乱中も中立の立場で城の防衛にあたっていた[7]

1561年メアリー女王が帰国すると彼女に仕えるようになり[7]、同年に枢密顧問官に列した[3][5]1565年のメアリー女王とダーンリー卿ヘンリー・ステュアートの結婚も支持した[6]。1565年6月23日の勅許状でマー伯の爵位を回復した[5][3]。マー伯位は12代マー伯アレグザンダー・ステュアート英語版の死後、アースキン家が代々その権利を主張してきた爵位であり、この回復に際して女王は「頑迷な統治者や役人たちによって廃除されてきた正統な継承者に権利を回復させることに良心を動かされた」と宣言している[8]。また300年後の1875年2月26日貴族院特権委員会では彼は1565年7月20日に新規のマー伯位が与えられているとされた[4]

1566年には甥にあたるマリ伯ジェイムズ・ステュアートの反乱の鎮圧にあたるとともにジェームズ皇太子(後のスコットランド王ジェームズ6世、イングランド王ジェームズ1世)をスターリング城に預かってその後見役を務めた[7]

1567年にダーンリー卿ヘンリー・ステュアートが薨去した後にメアリー女王がボスウェル伯ジェームズ・ヘップバーンと再婚するに及んで女王を見限り、カーベリー・ヒルの戦い英語版で反乱貴族側に加わり、女王の投降を受け入れた[9]

1571年9月の女王支持派によるスターリング城攻撃の際にもこれを撃退する戦功をあげた。この戦いの際に摂政の第4代レノックス伯英語版マシュー・ステュアートが戦死したため、穏やかな人柄として人望があったマー伯が代わって摂政に就任した。しかし彼の摂政在職中から第4代モートン伯爵ジェイムズ・ダグラスが大きな権力をふるい、実権はモートン伯に握られていた[10][9]

1572年10月28日に心労で死去した。後任の摂政にはモートン伯が就任し[10]、爵位は長男のジョン・アースキン英語版が継承した[3][4]

家族

サー・ウィリアム・マレー(生年不詳-1562)の娘アナベル・マレー(生没年不詳)と結婚。彼女との間に以下の2子を儲けた[4]

注釈

  1. ^ 本記事の人物は1565年にマー伯爵の爵位を回復したが、1875年の貴族院裁決と1885年の議会立法の結果、爵位復活と爵位創設の両方が行われたものとみなされ[1]、本記事の人物は中世創設の爵位では「第18代マー伯爵」、1565年創設の爵位では「初代マー伯爵」となる。また、『クラクロフト貴族名鑑』など1435年没の第12代マー伯爵アレクサンダー・ステュアート英語版を正式な伯爵として数えない文献もあり[2]、その場合は本記事の人物が中世創設の爵位における「第17代マー伯爵」となる。

出典

  1. ^ Round, John Horace (1911). "Mar, Earldom of" . In Chisholm, Hugh (ed.). Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 17 (11th ed.). Cambridge University Press. pp. 665–666.
  2. ^ "Mar, Earl of (S, 1114)". Cracroft's Peerage (英語). 18 March 2013. 2019年11月2日閲覧
  3. ^ a b c d e Lundy, Darryl. “John Erskine, 18th/1st Earl of Mar” (英語). thepeerage.com. 2017年11月11日閲覧。
  4. ^ a b c d Heraldic Media Limited. “Mar, Earl of (S, 1114)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2017年10月26日閲覧。
  5. ^ a b c Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Mar, John Erskine, 1st or 6th Earl of" . Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 17 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 666.
  6. ^ a b ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
  7. ^ a b c 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 451.
  8. ^ Tribe of Mar: History
  9. ^ a b 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 452.
  10. ^ a b 森護 1988, p. 296.

参考文献

官職
先代
第4代レノックス伯爵
スコットランド摂政英語版
1571年 – 1572年
次代
第4代モートン伯爵
スコットランドの爵位
先代
ジョン・アースキン英語版
第18代マー伯爵
1552年 – 1572年
(1565年まではデ・ジュリ)
次代
ジョン・アースキン英語版
第6代アースキン卿英語版
1552年 – 1572年
爵位創設 初代マー伯爵
1565年 – 1572年